第15話 ディア・マイ・シスター

 家永美佐緒は待っている。

 ファビアン・フォンセカの手で、兄のスマホは棺の彫像に立てかけられていた。床に倒れた兄と、その傍らに座禅のように腰を下ろし目を閉じたファビアンをカメラに映し、微動だにしない彼らの映像を美佐緒に送り続けている。


『だいたいの事情はわかった。まあ予想通りじゃ』

 数分前。ファビアンは腕を組み、五十過ぎの壮年でもそうそう見せぬ傲然とした顔で頷いた。

『肉体に問題はない、精神が概念領域に引きずりこまれておるだけの事。もっとも、概念域あちらでの展開次第で、体に戻れず朽ち果てる未来はありえるが』

「あっ」

『ふむ、心当たりありの顔じゃな。さてはゲームとやらで似た出来事を見たか』


 ゲームの神官ルートの終盤に、主人公ジーナが昏倒し三日三晩眠り続ける展開がある。

 攻略対象たちの連携により、女神アスタリアの計らいで『概念域』にいると判明。害はないと判明するも、やはり不安を拭えぬ攻略対象たちはジーナの元に飛ぶ。そして、彼女がアスタリアを支える御使いに選ばれたと知るのだ。

「あのときは確か、アレクシオスと、ファビアンくん、それにルーカ先生とか他の優秀な何人かの助力もあって、色々準備した上で、概念域に干渉して、乗り込んで」

『ほほう』


 液晶に映るファビアンが己の顎を撫でさすった。

 髭を生やした男が髭を撫ぜる仕草に似ている。たびたび繰り返した転生で、顎髭をたくわえていた時期があったのかもしれない。

「あの、ファビアンくん」

 ぎゅっと、膝の上で拳を握りしめた。

「今、ここに駆けつけてくれたのは、やっぱり」

 この前お話したこと、覚えていてくれたからですか。

 言葉にならなかった部分は、兄が彼に助力を乞うた日の晩交わした会話を指していた。


 ファビアンには説明不要だったらしい。ふん、と鼻を鳴らして答える。

『この年になってあそこまで正確に、おのれの腹の中を言い当てられてはな。しかも儂を「推し」だという娘に。丸無視は決め込めまいよ』

「……ありがとうございます」

『礼を言うには早いわ、阿呆め』

 コトン、と音がして、ファビアンの顔が画面から消える。スマホが棺の上に、彫像に立てかける形で置かれたのだと分かった。


『「紫苑卿」と二人がかり、加えて優れた術師数人の助力。それでようやく叶った所業に、たった一人でしかもこの土壇場のにわか仕込みで挑もうというのだ。成功の保証はできんよ。タカヤも儂も、概念域から出られず衰弱死がオチかもしれんぞ』

「だったら尚更、でしょう」

 画面の中で、横たわる兄の側にファビアンが立つ。さっと挙げた手の指先に光が灯ったかと思うと、ファビアンと兄を中心に床に光の輪が生まれた。輪の内は瞬く間に、同じ光を溢れさせた文様で埋まる。さながら古代中華の青銅器の表面。あるいは古代ギリシアのクラテルの縁。


 光の輪の中からファビアンがこちらを睨んだ。兄のスマホから彼まで距離があり、画面に映った美佐緒の顔はもう彼には見えない。

 それを承知で、美佐緒は笑った。

「ありがとうございます、ファビアンくん」

『……ふん』

 輪の中心に腰を下ろしながらファビアンはまた鼻を鳴らし、そして目を閉じる。


 美佐緒も目を閉じた。

 不安はなかった。


 『澪底のアスタリア』においてファビアンは攻略対象ではなく、よって専用ルートも存在しない。それでも彼のあらゆる面を見たいという思いで、美佐緒は全てのルートをクリアした。唯一ファビアンの正体が明かされる神官ルートのシナリオには一部不満があったものの、結局クリア後はプレイ画面で彼のテーマ曲を聴くたび涙ぐむはめになった。街で銀と赤の組み合わせを見るたび銀髪赤眼の彼に思いを馳せたりもした。

 ファビアンは間違いなく彼女の『推し』。

 だが、この場でそれは関係がない。


 自分の願いを聞き届けてくれたひとりの人間ファビアン・フォンセカを、家永美佐緒は信じ、祈り、待った。




 水面めがけまっすぐ浮上していく。

 水の上の光景はあんなに暗かったはずなのに、水中から見ると光に満ちてきらめいて見えた。

 どういう理屈なんだ、これ。


≪概念域で物理法則は無意味、自身の無意識や固定観念が強く作用する。水の底から見上げれば、より光が届く水面は明るく見える……お主の常識が作用した結果じゃろう≫

「ジジイ?」

 さっきまで相対していた声が脳内で響き、オレは水の中なのに息を呑んだ。


「何だよジジイ、心に直接語りかけてます的アレかよ。底に置いてきたと思ったのに」

≪あれこっきりで済ませた方が良かったかの≫

「いや心強いけどよ」

 美佐緒がいない今、こいつがいてくれるのはありがたい。

 むしろ、この状況で頼る相手としてはこれ以上ない。魔術の腕前は美佐緒の折り紙つき、おまけに女神アスタリアの元身内ときた。

 と、ここでふと気になって、オレはひときわ大きな泡を口からボコンと吐いた。


「……あんた、妹とは仲良かったんだよな」

 オレとは違って、と続けそうになるのをぐっと堪えた。

 だが、ファビアンにはお見通しだったらしい。

≪そうでもないぞ。まあ、お主とどっこいであろう。両親ふたおや共に早う死んで、互い支えあわねばやっていけなんだのは確かじゃが≫

「けど、妹のために肉体捨てて『護界卿』にって、誰にでもできる事じゃねえだろ?」

 ≪ふふっ≫と頭の中で響く含み笑い。

≪誰にでもできる事ではないが、動機が兄弟愛とは限らんよ≫

「いや、でも愛情以外にそんな選択できるような動機って」

≪思い付かぬか。純粋な若人わこうどよ≫

 含み笑いが明確な自嘲を帯びた。


≪恐怖、それから対抗心じゃな≫

「はい?」

≪分からぬか。お主の妹は理解しておったが≫

「美佐緒が?」


≪お主がスマホとやらを置いていったあの晩な。あの娘、こうのたもうたのじゃ≫

 ――私、ファビアンくんのこと大好きです。でも、神官ルートのあの展開だけは許せません。

 ――妹をどれだけ想っていたか切々と語って。たとえ届かなくてもこの想いだけはって、自分の身を犠牲にして。

「そりゃ、感動的な展開なんじゃねえのか?」

≪造物主は、そう意図したのであろうよ。お主の妹はそう思わなんだだけの話で≫

 ――なんて、嘘臭い。

 美佐緒はそう吐き捨てたという。


≪兄妹愛とはそんなお綺麗なものではない。お主の妹はそう言った≫

 ――兄と妹に限りませんけど。兄と弟でも姉と妹でも、姉と弟でもそうだと思いますけど。

 ――きょうだいなんてものは基本、対立関係です。同じパイの奪い合いです。

 ――だってそうでしょう。同じ血を分けて生まれて、同じ親の、それから周りの、ぜったいに無限には湧いてこない愛情を奪い合う。

 ――身近な人たちだって何かと比べる。お兄ちゃんはああだったけど妹ちゃんはこうね。妹ちゃんはああだけどお兄ちゃんはこうなのね。そうやって。いつだって。


 オレは唇を横に引き結んだ。

 身に覚えがあったからだ。

≪まったく、お主の妹は正しい。二千と二百と十八年前、儂が生まれ持った骨と血と肉を手放したのは可愛い妹への愛なんぞの為ではない。あそこで儂が名乗りを上げねば、儂ら兄妹を昔から比較していた周囲は口さがなく騒ぎ立てたろうからな。妹は身を捧げたのに兄は黙して見ていた。共に世界の贄となるが筋であったろうに、何とも薄情な男よ、と。永遠に妹に負けたままの敗北者よ、と≫


 愛でも信仰心でも使命感でもなく、恐怖と対抗心のために肉体を捨てる道を選んだのだと、ファビアン、いや、『蘇芳卿すおうきょう』アステリクは語った。

 奥歯にぎゅっと力がこもるのを、オレは感じていた。

 アステリクの言うことはわかる。痛いくらいに。オレだって妹を持つ兄だ。しかも信じられないくらい優秀で非の打ちどころのない妹を持つ兄だ。同じ血を分けながらなんでこんなにも差がと、机や部屋の壁を掻きむしった経験は一度や二度じゃない。

 けど一方で、噴火口から噴き出すマグマみたいに、どうやっても抑えきれない想いも湧いてくるのだ。


「あんたは……愛情のためじゃないなら、何で……」

 決断は一瞬だ。勢いだけで何とかなったろう。その後迎えた肉体なしでの三百年間は、そりゃ過酷だったろうが、始まってしまえば決断の結果と受け止められたろう。

 ただ、その後のこいつの行動は。

「『蘇芳卿』としての生を終えたあと、転生を繰り返して妹が守るこの世界をずっと見守ってきたんだろ。あんた。妹への愛以外の何のためにそんなことができたってんだ」


 三百年も肉体なしで現実域と概念域の狭間にいりゃあ、ただの人間だった頃の知り合いなんて全滅してるだろうに。

「何度も生まれ変わって、何度も死んで、何回かは二度と嫌だって言う位のひでぇ死に方もして……愛じゃないなら……何で……」

 必死に言葉を探して紡ぎながら、頭の中では別のオレが声を嗄らして叫んでいた。

 ――愛じゃないなら、何でだ、美佐緒。

 ――LINE通話の向こうでお前がオレをずっと支えてくれたのは、何で。


「お綺麗なものじゃない、それはそうかもしれない。でも、これっぽっちも大事に思ってなかったなんて、そんな事ないだろ」

 美佐緒と比べられ壁を殴り続けたあの日の記憶がどれだけ生々しくても、小さな美佐緒の涙で濡れたやわらかい頬の感触がオレの中から消えないように。

 アステリクも。

 そして、美佐緒も。

 そう思いたかった。

 沈黙があった。目を細める表情が見えるようだった。


「オレさ、美佐緒のことが憎かった時期も、正直あったよ。辛かった。何が辛いって自分が惨めとかゴミクズに思えるとかもそうだけど、自分の中のあいつとの綺麗な記憶とコンフリクト起こすんだよな。引き裂かれるみたいで……アステリク、あんたも」

≪そりゃ、お主の予想じゃなく願望じゃな≫

「そうだよ悪いかよ」

 アステリクも勿論だが、何より美佐緒に。オレがあいつに向けていた、どんなに憎み切りたいと思っても消せなかった感情の、何十分の一でもオレに向けてくれていたらと。

 二千と二百年ちょい生きたこいつには、こんな若造の考えはお見通しか。だが、それならそれで返しようもある。


「願望込みなの含めて、あんたも覚えがあるんじゃないのかよ」

 また、沈黙。

「憎くてそれでも大事でちぎれそうで、だからこそそんな気持ちをアスタリアにも持ってて欲しいと願ってた。その願いが裏切られたから一度は背を向けたんだろ」

 約二週間前、呪具を求めて訪れたオレに放たれた冷淡な台詞。

 あれは、願いを踏みにじられた怒りと悲しみのこもったものでもあったはずだ。

「答えたくないなら答えなくていい。ただ、一つだけ言っておきたい。オレがさっき『妹と仲良かったんだよな』って聞いたのは、もう一度だけ試してみてもいいんじゃないかって、そう思ったからだ」

 アステリクの片眉がはね上がるのが見えた気がした。


「あんたがここに来てくれた理由は分からない。美佐緒が何か言ってくれたおかげでそこはあいつに感謝すべきなのかもしれない。ただ、オレとしちゃあんたの理由自体は割とどうでもいい。大事なのはあんたが今、オレと一緒に来てくれて、アスタリアと……あんたの妹と向き合おうとしてくれてるってとこだよ」

 理由や事情がどうだろうが、それは恩だ。恩のある相手には笑っていてほしい。

 アステリクの人生にしろ人格にしろ深い部分を知らないオレには、こいつが心から笑う理由なんて、アスタリアくらいしか思いつかなかった。


「あんたが『仲が良かった』って言ったら『じゃあ、もう一度』って言おうと思ってた。蓋開けたらあんたは『仲良くなんてなかった』って言ったけど、結局オレが言うことは変わらない。『じゃあ、もう一度』だ」

 捻じくれたまま治って引き攣れ今も絶えず痛む古傷のようなこの思いを、この若作りの爺さんもかつて抱いたというなら、オレは、その古傷を今度こそ癒せるほうに賭けてみたい。そう思った。

 もちろん、アステリク自身の同意が必要ではあるが……


≪お主……≫

 小さく息が漏れるのが聞こえた。

≪……今回も、駄目だったら、どうする気じゃ≫

「あんたと一緒に泣く」

≪なんの足しにもならんわ、阿呆め≫


 くくくっ、と笑い声があがった。

 さっきまでの自嘲はなく、からりと乾いた声音だった。


≪仕様のない若造じゃ。本当に……仕様のない奴じゃ≫

 呟かれた言葉は、生まれたての雛を見る親鳥のような暖かさがあって。

 そして、確かに、オレの提案への同意を帯びていた。

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