第12話 全てを賭ける価値のある

 全力疾走したり物陰に隠れて息をひそめたりをしばらく繰り返し、ついにオレの、というかバルバラの息もいい加減切れてきた。

 いくらドレスが体の動きを邪魔しなくても、いくらバルバラの体が素で鍛えられていても、限度というものがあるのである。どこかで体力回復しないとどうにもならない。


「水……水飲みたい……」

『うーん、無理じゃない? この世界水道ないしねー』

「舞踏会のホールで飲んでくりゃよかった、あんだけ飲むもんも食うもんも山ほどあったのに」

『後の祭りだよねー』

 LINE通話の向こうでズズッと啜る音が聞こえたのを、オレは聞き逃さなかった。こいつ絶対ストローでコーラか何か飲んでやがる。よりにもよって疲労と渇きで死にそうな兄との通話中に。元の世界に帰ったら覚えてろよ。


「あっづつ、痛ぇ」

 壁に手をつきよろけそうになるのを抑えた。

『兄貴、さっきすっ転んで「ふぎゃっ!」とか鳴いてたよね。どっか痛めた?』

「たぶん足首。走れねぇこたぁねえけど微妙に痛い。あとさっきアレクシオスに魔術で打たれたとこも地味にじんじんする。複数箇所痛むって地味に鬱陶しいなオイ」

『気になるならいっそどっかに太い針でも刺してみる? そっちの痛みに神経が集中して、他のとこは気にならなくなるかもよ』

 オレは『うげぇ』と声を上げた。


「メチャクチャ言うなよ!」

『メチャクチャでもないよ。人間の脳って、強い感覚は一回あたり一つしか感じられないらしいから。さあ勇気を出して兄貴。ブスーッと』

 自分の体じゃねえと思って好き勝手言いやがって。大体針なんてどこにあんだよ。


 オレは浅い呼吸をくりかえしながら周囲をみわたした。幸い追っ手連中はうまく撒けたらしく、人の気配は感じられない。視線の先には長い廊下がひろがり、突き当たりには華やかな色彩が覗いていた。

 薔薇窓ロゼットだ。サイズは両腕を広げたより更にでかい。その名の通り花弁をひろげた華やかな薔薇のように、外の陽を集め極彩色の光を床に落としている。

 そろそろ地下祭壇に向かうことを考えるべきだったが、オレの足は自然と薔薇窓ロゼットに向いていた。先に進むか引き返すしかなかったのもあるが、バルバラの日記にも時計塔の薔薇窓ロゼットが出てきたことを思い出したのだ。

 時計塔の薔薇窓ロゼットが計四つ、それぞれ描かれた絵柄は違う。日記に出てきた薔薇窓と同じなのか気になった。

 確か、バルバラが日記で触れていた薔薇窓ロゼットは。


「なあ美佐緒」

『何、兄貴。疲れてんなら喋らないで休んだほうがいいよ』

「いや、いい。……『澪底のアスタリア』の話なんだけどさ」

『うん』

 ――女神アスタリアが人の身であった頃の物語、唯一の血縁であった兄との対峙の情景。

 ――己が身を捨てて女神となり、世界を守護すると決断した妹を、のちに初代護界卿となる兄が引き止めている光景。

 見上げた薔薇窓ロゼットの中では若い男女、いっそ少年少女といっていいような二人が向かい合っていた。少女は胸に手を当てうつむき、少年は(古いステンドグラスだからか表情がぎこちないが恐らくは)顔を曇らせ少女に向かって手を差しだしている。

 ああ、そうだ。やっぱりバルバラが書いていたステンドグラスだ。


「ゲームのエンディング……いや色々あると思うけど、トゥルーエンドだとかいう神官ルートな。あれだと、確か和解するんだよな? 女神アスタリアと」

『うん。そこは前話した通り。ジーナとアスタリアが話をするの、ファビアンくんやアレクシオスや、他の色んな主要キャラたちの力を借りて。誰一人欠けてもうまくいかない流れなんだけど、特にファビアンくんの存在は不可欠だったと思う』

「確認するけど、結構話は通じる感じだったんだな」

『ゲームではね。今兄貴がいるその世界が、どれだけその辺を反映してるか分からないけど。ほら、バルバラの人となりは少なくとも、ゲーム通りではなかったわけだし』


 ――アスタリアはもううにおらぬよ。

 若作りにも程があるあの転生ジジイの、諦めきったような笑みが脳裏に浮かんだ。

 それは、鮮やかな色彩でくりひろげられる眼前のステンドグラスの情景と、残酷なまでに対照的だった。

 このステンドグラスが、どこまで過去に忠実か分からない。神話や伝承あるあるで、語り継がれるうちに盛られたり曲がったり変わったりしているかもしれない。

 ただ、もしこのような、あるいはこれに近い出来事がはるかな昔現実にあって、その先に待つ未来があのジジイの、あの諦め果てた顔なのだとしたら。


「きっついな」

『え? 何、兄貴』

「いや、何でもない」

 一瞬、柄にもなく重ねてしまった。

 もし、美佐緒がそんな事になったら、と。


 小さく息をついたときだった。

「ここにいたか」

 背後で響いた声に、オレは顔を引き締めた。

 アレクシオス・サマラスの声だった。




「いいのかよ、主催者が舞踏会抜けてきて。それこそ人としての礼儀欠いてんじゃねえの?」

「お前がいないなら、そもそも今夜の催しの意味もない。何を置いてもホールに戻ってもらわねばならん」

 薄暗い廊下に薔薇窓ロゼットの光が落ち、その先には顔だけで国の一つや二つひっくり返せそうなイケメン。オレが絵描きなら目を輝かせてスケッチしただろうが、あいにくオレは絵はちょこちょこ自作小説の登場人物をラフスケッチするくらいだ。


「いやいやいやいや、オレなんて、ねえ? そりゃ付いて回る家のお名前だけはご立派ですが? ちょっと前まではともかくここ最近は成績も振るわないし、ねえ?」

「家名も学業成績も関係はない。肝心なのは俺がお前を求めていること、それだけだ」

 アレクシオスが歩を進める。かつん、と石の床を踏む硬い音がする。オレは口の端がたわむのを感じながら後ずさるが、後ろに薔薇窓ロゼットしかないこの状況で逃げにはならないのも分かっている。


『兄貴、アレクシオスとはダメだよ、アレクシオスとは』

 LINE通話越しに美佐緒の声。ああうっせえな分かってるよまともにやり合って勝てるわけないのは。

 しかも不意を突く手もさっき使ってしまって、二度目が通用するとは思えない。あれ? 割と、っていうか相当詰んやしませんかねこの状況?


「ところで、さっきの話の続きだが」

 アレクシオスがまた歩を進め、オレはまた後ずさった。

「さあて、何の話だったかね? あいにくオレの脳味噌はトコロテンと一緒でね。新しいもん入れたら古いのがニュルッと押し出されちまうんだよ。ああ、この喩えじゃわかんねえか。じゃぁ三歩歩いたら忘れるトリ頭とかその辺で頼むわ」

「付け焼刃で阿呆のふりをしてみても無駄だ。お前も気にしていただろう、なぜあの場に並み居る高官が招待されていたか――お前の父、アンブロージオ・アビアーティ第二財務官長も含めて」

 ああ、いくら考えても打開策が出てこない。

 オレが頭をフル回転させながら背中に脂汗かいてるのをよそに、アレクシオスは続けた。


「何、さして込み入った話じゃない。簡単なことさ。晴れがましい場をより晴れがましく演出したい、それだけの事。俺とお前の婚約発表の場をな」

「は?」

 おい今こいつなんて言った。

「アンブロージオ・アビアーティは二つ返事で承諾してくれたぞ。何なら来月にも婚儀の準備を整えるとな。難色を示されるかとも思ったが喜んでいた。『当家から護界卿に嫁ぐ娘が出るなど、この上ない名誉』だと」

「ちょ、ちょっと待て」

 オレは顔の前で手を振った。


「お前もうじき次の護界卿になるんだよな? 護界卿になったら肉体は消えてなくなって、精神だけになってこの世界守ってくっつってたよな? オレ一人だけ恥ずかしい勘違いしてんじゃないよな?」

「一語一句たがわずその通りだが?」

「平然としてんじゃねーよ。てめぇ、もうじき体なくす身の上で嫁とろうってのかよ!?」

 頭がくらくらした。その状況で女に結婚申し込むこいつも、申し込まれてサックリ承諾するバルバラパパンも、同じくらい頭がイカレてやがる。旦那に現世を去られて取り残される嫁の気持ちなんて微塵も考えてやしない。


「何とでも言え。俺はなんとしてでもお前を手に入れたい。そのための方法を考えた結果、最も確実なのが婚約、そしてその先にある婚姻だった。それだけの話だ」

「クズ野郎」

「何とでも言えと言ったはず」

 アレクシオスは平然と続けた。

 紫の双眸はあまりにも据わっていて、目線の動かない人形を見るようでうすら寒かった。


「昔話を一つしよう、バルバラ。オレが子供の頃の話だ」

 ざ、と奴がまた歩を進める。

 一歩奴がオレに近づぐたびオレが一歩後ずさるいたちごっこ。長くは続かない。オレが薔薇窓ロゼットのある壁に到達したら終わりだ。

「夏の、よく晴れた朝だった。雲と青空のコントラストが美しかった。ある日突然青い衣を着た男と女が家に訪ねてきて、俺の足元にひざまずいた。歌詞の聞き取れない呪文のような歌が、朗々と歌い上げられた。俺は何も分からなかった。青い衣を着た男――あとで神官と知ったが、その男に捧げ渡された焼き菓子の舌に残る甘さをはっきり覚えている。――『護界卿』に選ばれた日の出来事だ」


 水のように淡々と、アレクシオスは語る。

 語りながら一歩一歩、着実に近づいてくる。

「母は終始泣いていた。父はその場では笑っていて、夜中に一人壁を殴っていた。繰り返すが俺は何も分からなかった。『護界卿』という言葉は知っていたが、空に浮かぶ月や星のように決して手の届かぬものだと思っていた。背負った責務や待ち受ける未来を知ったのは何年か後、実感を持って理解しはじめたのは更にもう何年か後。そう、つい最近だ」


 『護界卿』について初めて知ったとき、真っ先にオレの頭に浮かんだ単語は『人柱』だった。

 縁を結んだ者の多くと永遠に別れ、あらゆる生者と意思疎通できず、『現実域』を治める存在として、自然界に存在する無機物を介してのみの物理的干渉しか許されない。異世界で育ったオレには想像を絶する状況だ。

 言えることなど何もないのは確かだが……


「『護界卿』の在り方、そして責務を、理解すればするほど考える時間が増えた。ただ一つの目的のためだけに費やされる悠久ともいえる時間。避けようもなく俺を苛むだろう孤独。そして、『護界卿』に賛美や感謝を捧げながら、俺の孤独などあってなきが如しに笑いながら泣きながらあるいはただただ無為に生を食んでいくだろうこの世界の者たち」

 口を挟めない。

 目と口調から醸し出される圧があまりに強い。

「世界を守るため身を捧げながら、守る世界そのものには決して手を伸ばせない。それが護界卿の在り方だ。近い将来、来年、半年後、ことによっては三ヶ月後にも、俺が至る確実な未来だ」


 オレは唇を噛む。

 言える言葉の持ち合わせがなかった。

「この話をするのはお前が初めてだ、バルバラ。そして恐らく最後になるだろう」

 アレクシオスは息を漏らすように笑った。

「何せ、今まで誰に話そうと思っても叶わなかったのでな」


 ぴくりと、自分の眉が跳ねるのを感じた。

「叶わなかった?」

「文字通りさ。……女神アスタリアのご采配か、はたまたただのお戯れかは知らんがな」

 自分の唇を指差し、またフフと笑う。

「話そうにも、舌が凍りついたように言葉を紡ぐことができなかった。誰に対して何度試みてもだ」

「それは……」

「これから世界を支えんとする者が、余計なことを考えるなとでもおっしゃりたいのか。だったら最初から思考そのものを奪ってくれた方がいっそ楽だった。まあ、女神に人の子の都合は関係あるまいがな」


 バルバラの日記の震える筆致が脳裏に浮かんだ。

 そして。

「口だけではない。態度、言動、全て、目に見えぬ何者かに縛られている。俺が自由でいられるのはバルバラ、お前の前にいるときだけだ。だから」

 アレクシオスが足を速めた。するりと俺の懐に入り込み、背に手を回してもう片方の手で顎を掴む。無理やり上を向けさせられて目を合わされる。

 ぞわっと背筋が粟立つのとは別に、俺の頭は高速で回転していた。

 ――話そうにも、舌が凍りついたように言葉を紡ぐことができなかった。

 数週間前見た、日記帳の震える筆致を思い出した。

 そして、柔らかい手の感触と、会話の記憶がありありとよみがえった。




『あのさ、ジーナちゃん』

 さかのぼること数時間前、ここに来る前に彼女と交わした会話だ。

 ジーナちゃんにドレスを無事着つけてもらったあと、セットした髪に白いコサージュを挿してもらいながら、オレは言った。

『聞きたいことあるんだけど、いい?』

『ええ』

 やわらかい手が櫛を持ち、オレバルバラの金髪を軽く梳く。姿見の前に座ったオレに対して彼女はその少し後ろに立ち、ちょうど美容師のような恰好だ。


『聞きたいのは、進路のこと。第二学年中期に全生徒が決めなきゃならない、進路』

 金色の巻き毛を滑り落ちていく櫛が、止まった。

 姿見に映る彼女の顔を、オレは見ないようにした。だいたいの想像はついたし、何よりオレが彼女なら見られたい訳がなかった。

『話、しないよな。ジーナちゃん。全然』

『……ええ』


 ――今はいいわ、ただ授業を受けて、良い成績を残していければいいわ。

 ――でも、それだけで済まないときが来る。

 ――足がすくむの。

 ――自分では決められない、でも、誰も代わりに決めてはくれない。


 ジーナ・オータムは『澪底のアスタリア』の主人公だ。穏やかで心優しい努力家という設定だが、攻略対象やライバルに比べると個性は抑えられているという。当然だ。乙女ゲーの主人公とは、プレイヤーに自分を投影させ、ゲーム世界に没入する足がかりだから。

 ゲームにおいて彼女の選択は全てプレイヤーが決める。学園生活で誰と時間を過ごすか。どの能力を伸ばすか。どんな進路を描くか。そして、卒業後何の道を選ぶか。

 ゲームなら、それでよかった。

 でも、彼女にとって現実であるこの世界にプレイヤーはいないのだ。

 バルバラが日記で書いていたように、彼女もまた正体不明の何かに苦しめられている。


『ごめんね、バルバラ。こういう話、バルバラはあまり好きじゃないと思っていて』

『いや、いいんだジーナちゃん。オレは進路の話それ自体がしたいわけじゃなくてさ』

 椅子に座り直して後ろを向く。オレの頭よりだいぶ上にあるジーナちゃんの顔に手を伸ばす。

 頬に触れる一瞬前さすがに抵抗があった。バルバラの体に入っているとはいえ、中身は男のオレが女の子の顔にこうも気安く触れていいものかとためらった。


『バルバラ……?』

 迷ったすえ結局触れることを選んだのは、迷うなとオレの中で叫ぶ声のせいだ。

 なめらかな肌に触れたかった欲望を否定はしない。ただ、それ以上に強い思いがあったことにも触れておきたい。

 体温を介さなければ伝わらない感情がある。夜が怖いと泣く小さな子供に、そっと触れながら語りかけるときのように。


 ああ、そうだ。ガキの頃よく美佐緒にこうしてやった。うちのお袋は夜寝る前、朝から白米とおかずがないと承知しないクソ親父のために朝食の下ごしらえをしなければならなかった。その間オレと美佐緒は二人で部屋で待たされた。暗いこわいとぐずる美佐緒の顔に触れて言葉をかけるのは、いつからかオレの夜の日課になった。

 二歳か三歳かそこらだった美佐緒。目に涙を浮かべしゃくりあげていた美佐緒。


『大丈夫だ、ジーナちゃん。オレ、頑張るから。ジーナちゃんがもう迷わなくて済むよう、できる限りのこと、するつもりだから』

 バルバラの呪縛と彼女の惑いは同根だ。女神との直談判でバルバラの意識、そして自由を取り戻すことができれば、彼女もまた、今身を置いている迷路から抜け出せるかもしれない。

 あくまで、かもしれない、だ。最終的には彼女自身が解決するしかない。

 それでも、外部要因の排除という形で、この娘の助けに僅かでもなれる可能性があるなら、百パーセントを通り越し、二百パーセントでも千パーセントでも力を尽くしたかった。


 ジーナちゃんが怪訝そうに首をかしげた。またバルバラがわけのわからないことを言い出した、と思っているに違いなかった。だがオレは知っている。オレの言動がどれだけ常軌を逸して見えたって、この娘はその向こうにあるものを見てくれる。少なくとも、見ようと最大限に努めてくれる。

『よくわからないけど、バルバラが色んなことを考えていて、とても一所懸命なのはわかるわ』

 彼女の顔を覆ったオレの手に、そっと彼女自身の手が触れる。頬から指が離され、前を向いて座り直すよう促される。泣きたくなるほど優しい手つきと声で。

 座り直して、櫛の動きが再開された。金にきらきら輝くオレの髪を、風に揺れる麦穂みたいに揺らしながら毛先まで滑っていった。


『しかもそれって、きっとわたしのためなのね。ほかの誰かのためもあるのかもしれないけど。だったらわたし、お礼を言わなきゃだわ。ありがとう、バルバラ』

 オレの頭ごしに姿見に映る顔は、また穏やかなものに戻っていた。

『礼言われるようなことはしてねぇよ。……まだ』

 オレは目を閉じ、天国のように心地よい感覚にまた身をゆだねた。




 過去に意識が飛んだのは数秒だった。現実に立ち返ったオレは、人の顎を掴んだアレクシオスの面を睨み返す。

 憎らしいほど不敵な顔をしていた。底の見えない紫の眼は、自分以外の存在なんて塵ほどにも考えていないように見えた。数秒前のオレなら迷わず唾を吐きかけていたはずだ。

 でも今は、そんな衝動は少しも湧かない。ふてぶてしさの仮面の向こうで、お綺麗な顔の目尻に流れる涙がひとすじ見える気さえする。

 幻覚だろう。


「逃がさんぞ、バルバラ。俺の運命よ」

「そうか」

 オレは目を伏せ、利き手の先から力を抜いた。扇が要から床に落ち硬い音を立てた。

 視界からアレクシオスの顔がいったん消えるが、息遣いで怪訝そうな顔をするのが分かる。間髪入れずオレは奴の肩に両手を置き、顎を掴んだ奴の手が向かせたより更に上を向く。射抜くような気持ちで野郎の眼を見つめる。


「運命、か。そこまで言ってくれるのかお前は」

「お前以外に考えられない」

『ちょっと兄貴何やってんの逃げて!』

 美佐緒が叫ぶ。

 だが、オレは聞かない。


「……今まで生きてきて十八年間、そこまでオレを強く求めてくれた奴はいなかった。オレはずっと一人で、どんなに望んでも他人の輪に入れなくて、どんどん袋小路にはまり込んでいって、それで、ついには」

「お前もまた傷を負っているというなら、その傷ごとお前を欲しよう。短い蜜月にはなってしまうが、共に過ごした時が儚くとも示せる愛はある。バルバラ・アビアーティ……いや、バルバラの姿を借りた俺の愛する者よ、聞かせてくれ、お前の真の名を」


 いつから悟っていたのか。あるいは最初からだったのか。

 次期『護界卿』に選ばれた資質によるものか、はたまた本物の愛がなせるわざか。時間をかけて考えてみるのも悪くはないが、今やるべきことじゃない。

 オレは目を閉じ、踵の折れたヒールで爪先立ちする。長身のアレクシオスに少しでも近付けるよう。

「オレは……」

 奴の肩に回した手に力をこめる。

 温かい息が口元にかかるのを感じる。

 これから世界を背負う男の顔が、ゆっくりとオレに覆い被さり、


「悪ぃやっぱ無理だわイケメンとボディタッチとか全身蕁麻疹だわっ!」

 思いっきり、息を吐いた。手で奴の肩を掴んだところで、すかさず力の流れを変えた。

 持てる筋力全てで、アレクシオスを突き飛ばす。

 屈みこむ形でオレに口づけようとしていたこの世界の守護者は、体勢の変わり目を見事に突かれた。


 もろにたたらを踏んだ瞬間を逃さない。

 体が離れた隙を集中に費やし、オレは風魔術を発動させる。突き飛ばした勢いで生まれた空気の動きを一気に増幅させる。

 狙うのはアレクシオス、ではない。

 上方数メートルで風が渦巻く。ゆるやかな流れがつむじ風に、建物内で停滞していた空気を呑み込み巻き込み竜巻に。


 アレクシオスが右腕を掲げる。オレなんかより遥かに速く、掌に魔力を収束させているんだろう。

 だがお生憎様、間に合いやしない。

 てめぇは狙いをつける必要があるが、オレにはないからな。何せ、的が両腕を広げたよりでかいもんで。


「オレぁずっと一人だった。どんなに望んでも他人の輪に入れなかった」

 ごうっと、風が鳴る。

 呟いた言葉は、きっと聞こえない。口を大きく開け閉めするアレクシオスの声もまた、轟音に掻き消されて届かない。

「そうやってどんどん袋小路にはまり込んでいって、ついにはベランダから飛び降りたのさ」

 ロクなもんじゃない、と思うか?

 ところがどっこい、悪くねぇんだ、これが。おかげで気づけたことが山ほどあったんで。


 言葉を口にしきる前に、逆巻く風が叩きつけられる。オレたち二人の遥か上にある、女神とその兄が描かれた薔薇窓ロゼットに。

 アレクシオスがひときわ大きく口を開けた。悲鳴か怒声かはたまた別の何かか。

 聴こえないし、聴こえても聴かない。そんな暇はない。


 上空から、無数の色ガラスの破片がきらきら輝きながら降ってくる。一瞬前まで美しい神話を象っていた欠片は、今や皮膚や肉、へたすりゃ目玉にまで突き刺さる凶器だ。

 アレクシオスが左腕を振った。中空に出現した水流のヴェールが、落下する破片を弾きとばした。一度弾かれ、また落ちてくる破片を更に水流で弾く。繰り返し。

 オレは何もしなかった。風魔術すら使わずひたすら、割れた薔薇窓ロゼットと逆方向に駆けた。

 身を庇う必要はない。アレクシオスの魔術の腕は確かだ。そして、理由はどうあれオレを想っているのも確かだ。ならオレが傷つくような事態、どんな状況だろうと許す訳ない。

 だからアレクシオスは動けない。降り注ぐ破片からオレを庇うため、オレが安全圏に逃れるまで高精度の魔術を使い続けなければならないから。


「待て!」

 風がやんで、アレクシオスの叫びが耳に届いた。

「待て、待ってくれ! 名を、お前の名前を」

 水流が硝子を撥ね飛ばす音に、かぶさってどこか悲痛に響く。

「せめて、名前を――」

 声は、薔薇窓ロゼットの破れ目から空に吸われた。




『兄貴、まさかまた無茶』

「結果オーライ」

 弾む呼吸の間を縫って、LINE通話の美佐緒の声に答えた。

『怪我してんじゃないの?』

「今回は無傷。次期『護界卿』殿のお蔭でな」

 意味わかんない、と苛立ちの声が上がるのには答えず、足を動かすスピードを上げる。

 向かうのは当初の予定通り地下祭壇、女神が鎮座する場所だ。


『なぁ美佐緒』

「何よ兄貴。無駄話する暇があるなら走りなよ」

 走ってるよ。てかお前のここまでの文句は無駄じゃねえってのかよ。まぁ確かにこれから喋るのは無駄話だけどよ。


「オレさ。今ので理由が一つ増えたと思うわ」

「理由って何よ。前から思ってたけどフワッと話すの相手イライラさせるからやめなよ。主語と目的語と述語は常に明確に」

「あーうっせうっせ妹殿の吠え声ほんっとうっせえ。……女神様に文句言う理由が増えたって言ったんだよ」


 整い尽くした美貌が、涙を一粒こぼし落とす光景を見た気がした。

 幻覚だと思った。

 オレの持てる全てを賭ける価値のある幻覚だと。

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