第10話 目覚めたら真っ先に

「いいか、もう一度だけ言うぞ」

 学園アカデミア敷地内、人気のない広葉樹の森に夕陽が射す。

 木々の間から赤い光が差し入って眩しかった。手のひらを頭にかざさないとまともに物が見えなかった。

 目の前にいる相手の顔も、やっぱり赤光に呑まれてほとんど分からなかった。


「オレはバルバラ・アビアーティじゃない。あんたの義妹じゃないんだ、ルーカ」

 だからこのときルーカがどんな顔をしていたのか、まるで見えてはいなかったのだ。

 ただ低く搾り出す声だけが高い所から降ってきた。


「バルバラ。冗談はやめてくれ。私は忙しいんだ。明後日の第一学年の試験問題の見直しがまだ」

「冗談じゃない。百パーセントの事実を本気で言ってる。あんたの義妹がバルコニーから『転落』してからの半年、言動がずっとおかしかったのはあんただって気づいてたはずだ。頭を打って一部記憶喪失になったなんて程度じゃ片づけられないくらいに。別人の精神が中に入ってるってほうがよっぽど説明がつく。そうだろ?」

 息を吸って吐く音が聞こえた。

 赤く照らされた森の中に、長身がくずおれた。そこでようやく奴の顔が見えた。

 きつく眉を寄せ、歯を食いしばった表情。生まれついてのイケメンが役者の演技だの以外でこんな面をすることがあるなんて、この世界に来る前のオレなら想像もしなかった。


「バルバラ」

 小さく、呻く声が聞こえた。白い大きな手がお綺麗な顔を覆った。

「バルバラ……」

 オレはしばらくその様子を見ていた。

 もう少し詳しい話ができればと思っていたが、この様子じゃあ無理そうだ。いったんはこの場を去って、何日か経って落ち着いた頃にまた直に話したほうがいいかもしれない。


 そう思ったとき。

「……これは、罰か?」

 かすれた声音が耳に突き刺さった。

「女神アスタリアが私を罰しているのか?」

「オレに聞かれても困るってのが本音だが。たぶん違うんじゃねーか?」

 罰、ということは、罪、もあるんだろう。だがオレがその辺突っ込んで聞いてもきっと仕方がない。


「いいかルーカよく聞け。確かにあんたの義妹は今この体の中にはいない。けどオレはこの状態をこのままにしておく気はない。バルバラを助けるために色々考えてることがある。落ち着いた頃にまた話をしに来るから、その時は改めて聞いてくれ」

 返事はなかった。

 バルバラ、と、また呻く声が聞こえた。

 オレは息をついて、赤く染まった夕暮れ時の森を離れた。




 家永孝也は歩き去った。

 静かに時が流れ、森を包む夕日の朱は紫紺に変じていく。

 冬の寒気の肌寒さを増していく黄昏の下で、ルーカ・アビアーティは身動きひとつせずうずくまっている。

「バルバラ……」

 呻きは低く、か細く、聞き苦しいのにどこまでも儚く、誰の耳にも届かない。


「罰だな……これは罰なんだ」

 少年の頃、彼がこの学び舎で、十代の青い精神をまだ御しきれずにいた時期。時間にすれば二、三年にも満たないごく短い間、それでも確かに、義妹バルバラ・アビアーティを憎んだ時期があった。

 ――あの娘さえいなければ僕はきっと、あの家でもっと愛してもらえる。

 馬鹿馬鹿しい話だと、今なら一笑にふせる。単なる八つ当たりの域を出ぬ、ほんのひところの話だ。

 それでも確実に、過去の彼の中に存在していた感情だった。


「バルバラ」

 許してくれ、という呻吟しんぎんは、初冬の大気に溶けて消えた。




 森と学生寮ドームは石畳で結ばれている。オレが暗くなりだした辺りを足早に歩いていると、『ご主人様』と背中から声がかかった。

 こんな呼び方してくる奴ひとりしかいない。

「ウィリディス」

「はい、ご主人様。アレクシオスどのの舞踏会に出席されるそうで」

「情報速ぇな。生徒会に入ってるとそんな話も聞こえてくんのか?」

「ご主人様が思っていらっしゃるより僕ははるかに目も耳もいい。それだけのことですよ」


 足は止めない。むしろスピードを上げる。しかしウィリディスはムカつくほど長い脚で、背中側にいるから見えないが恐らくは涼しい顔のままぴったりついてくる。オレの歩調に寸分たがわず合わせて響く足音が、正直うっとうしい。

「何のおつもりで行かれるのか、わざわざお尋ねしたいとは思いません。ご主人様にもお考えがおありでしょうから。ただ、アレクシオスは必ず何か企んでおります、とだけ」

「言われるまでもねぇよ。今更だ」

「ええ、そうでしょう、そうでしょう。当然、百も承知でご主人様は行かれるのでしょう」

 振り返らずに吐き捨てても、機嫌を損ねた様子もない。滑舌のいいバリトンがしゃらしゃらと紡いでいく。


「ただ下僕といたしましては、ご主人様がいばらの上に自ら身を投げ出すのを黙って見ているわけにも参りませず。なぜならご主人様、あなたは僕にとって、闇の中に射した一筋の光。決して見失うわけにいかない光」

 と、そこで。

 オレの歩調に合わせて響いていた奴の足音が、止まった。

 一方オレは足を止めなかった。変態のたわ言に耳を貸してる暇はない。次の満月までにやっておきたいことは山ほどある。

 はず、だった。

 なのにオレは、次に紡がれた奴の言葉に、自分で決めたことに反し足を止め振り返ってしまった。


「今こそお命じください、僕のご主人様」

 夜気に冷えていく十二月の石畳の上に、ウィリディスはひざまずいていた。

「あなたが一言ご命令くだされば、何であろうと僕は従います」

 深く垂れたウィリディスの頭を、オレは無言のまま見下ろした。




 ジジイ(ファビアンだか初代護界卿アステリクだか)に渡したスマホはその晩、学生寮ドームの寮監を通じてオレの手に戻ってきた。

「ちゃんと話せたか?」

『うん、まあ。言いたいことは大体言えたと思う。ちゃんと伝わったかは別の話だけど』

「そっかそっか」

 オタクってのは、推しの前では語彙が通常の五パーセントになる生き物だ。ましてオレにしょっちゅう送られてくるジジイの動画や写真の要求を見る限り、『やばい』『尊い』『もう死んでもいい』『死ぬ』『桃源郷の幻が』『ヴァルハラが』だの連発してジジイにドン引かれてる光景しか想像できない。だがまぁ、本人が満足したならいいんだろう。


『兄貴の方は? ルーカ、どうだった?』

 と、今度は美佐緒が振ってきて、オレは苦笑いしながら答えた。

「何とかなった、って言うには波乱含みだな」

『やっぱり私もいたほうが良かった?』

「いやそこは関係ねえだろ、これに関しちゃオレにしか分かんねーことも多いし。どういう切り口で話したって波は立つって、あれは」

 オレは頭を掻いた。赤い木漏れ日に照らされてうずくまったルーカの、苦渋に満ちた顔がまだ脳裏に焼きついていた。


「次の満月に地下祭壇に行く話もしようと思ったが、何つーか、そういう雰囲気じゃなくてな。だから一旦は引き上げてきた。何日か間を置いてもう一回詳しく話す。でもって協力をあおぐ」

 LINE通話の向こうで美佐緒が息を吐いた。

『昔から思ってたけど兄貴、ほんっとこうと決めたら突っ走るよね。普通「この人に頼むの厳しいな」って思ったら選択肢から外すでしょ。兄貴がそうしないの、「これしか選択肢はない」って思ってそのまま全力疾走するからだよ。他が見えてないの』

「行動力の塊っつってくれよ」

『視野が狭いとも言うよ、それ。今だから言うけど、母さんよくそのせいで困ってた。……低学年の頃、私がいじめられてたのを見ていじめっ子の家に乗り込んだときとか』

「ありましたかねぇ、そんな事。まったく記憶にございませんねぇ」


 嘘だ。昨日のようにはっきり覚えている。まだ小学校入学したての美佐緒にゴミ捨て場のゴミを投げつけたクソ野郎がいた。オレはそいつの名前と住所を調べ上げ、忘れ物を届けにきた同級生を名乗って家に上がりこみ、ビニール袋にパンパンに詰めた給食の残飯(三日もの)を、そいつの親の目の前で頭からぶちまけてやったのだ。


『母さん頭抱えてたよ』

「だろーな」

 器量の良さと大人しさを買われて見合いで嫁に来たお袋だ。子供の頃は気づかなかったが、今思い返すとダイニングテーブルに突っ伏していることがよくあって、たぶん育児のストレスに押し潰され頭を抱えていたんだろう。親父が『鶴の一声』という名のたまの気まぐれ以外、子育てには一切不干渉だったのも、きっとそれに拍車をかけた。


 唇をひん曲げたところに、ぽつり、と美佐緒が言った。

『あのね。一応言っとくと、私は嬉しかったんだよ。兄貴が私のために怒ってくれたの、嬉しかったし誇らしかった』

「そうかよ。だったらもっと敬ってくれてもよさそうなもんですけどね」

『でもね』

 口調を変えずに美佐緒が続けた。

『半年前、兄貴が部屋のベランダから飛び降りたあと、ふと思い出したのも、その時のことだった』


 いきなり話が飛んだ。

 オレはどう答えたらいいか分からず、ひとまず沈黙を守った。

『あの時私は確かに嬉しかった。本当に本当にね、嬉しかったんだよ、兄貴。でも、あの時私のために怒ってくれたことと、兄貴が思いつめて飛び降りたことって、もしかしたら同じ線の上にあるのかも、って、そう思って。思ってしまって』

 否定できなかった。

 確かに昔からオレはよく言えば一本気、悪く言えば思い込みが強い。これと一度決めたら他が思いつかなかったり、思いついてもなかなか方向転換に舵をとれなかったりする。そもそも思いつく以前に他に選択肢なんざないとはなっから信じ込んでいるケースもよくある。美佐緒をいじめた奴の頭に残飯をぶちまけたときが正にそうで、これしかない、これをオレがやるしかないと決め込んでいた。


 受験に失敗しベランダから飛び降りたのが、残飯事件と同じ思考回路の結果だと言われれば、グウの音も出ない。今まさに足元にあるこの道のほかに道はないと思い込んで、その道がいったん行き詰まったことでもう未来はないと考えた。オレの人生はここで終わりにすべきで、続けたってロクな未来ありはしないと、そう思った。

 だから、飛び降りた。


『あのあと……兄貴が病院に運ばれて、いつ目覚めるか分かりませんって言われたあと、兄貴の部屋からベランダに出てみたの。兄貴が飛び降りたのと、似たような天気の日の同じ時間に』

 人の部屋勝手に入ってんなよ、と怒る気も起こらなかった。ぽつりぽつりと語る美佐緒の声を、ただ聞くことしかできずにいた。

『暗くて、寒くて、風だけがひゅるひゅる吹いてきて、下を覗き込んだら三階なのに眩暈がするほど高く見えて、たまらなかった。こんな所から飛び降りてそれで終わりなんて、あんまりだ、って思った。あの日兄貴が私のために怒ってくれたその先が、こんな寒くて寂しい場所に繋がってたなんて、もっとあんまりだ、って、思った。それから、ここ何年もまともに喋ってなかったこと思い出して、くだらないネタでも何でも色々話せてたら他の場所に繋げられたのかな、って思って』

 ――少し、泣いた。


 ぽそりと付け加えられた言葉を、オレはやっぱりただ聞いていた。

『ベランダを出て、窓を閉めて、兄貴の部屋から出て、自分の部屋に戻った。机の上に置いたままのスマホのLINEに通知が来てて、開いたら兄貴の名前が表示されてて。よりにもよってすっごいユルいスタンプ送られてきてて。一瞬心臓止まるかと思ったあと怒りがこみあげてきて』

「ああ……」

 ――ふざけんな何のイタズラだよ、人の兄貴かたりやがって、死ね!

 オレのスタンプ誤送信に返ってきたあのメッセージは、そういう状況で打たれたものだったのだ。


『兄貴さぁ、二つ約束してよ』

「おう」

『一つ目は必ずこっちに帰ってくること。時間はかかってもいいから絶対に帰ってくること』

「おう」

『二つ目はもっと視野を広く持つこと。思いこまない、決め打たない。行動に移る前にまずは人の話を聞いて、色んな選択肢を検討してみる』

「おう」

『ねえ、ちゃんと聞く気ある? めんどくさいから聞き流そうとか思ってない?』

「思ってねえよ」


 約束しよう。それが美佐緒、お前を安心させる方法だというなら、そうしよう。

 オレの選択が、思っていた以上にお前の心を痛めつけていたと今知った。きっと償いにもなりゃしないだろうが、それで少しでもお前の心が軽くなるなら。


『次の満月の時計塔の地下祭壇もね、よく考えるんだよ。まだ二週間近く時間あるんだし。兄貴が目的を果たすために、本当にそれがベストなのか』

「はいはい」

『そこ、はいの回数』

「はいはいはい」

『増やせって意味じゃない』

「はーい」

『伸ばすな』

「はいっ」


 ふとそのとき、ああ何も考えてなかったなと気がついた。

 元の世界に戻ったら、まず何をするか?

 候補は色々だ。次の年に備えて手頃そうな予備校を探すとか、萎えた体の調子を戻すためジムに通うとか。そりの合わない両親(特に親父)と離れて心機一転、一人暮らしの準備を始めるという手もある。

 だが、それよりも何よりもまず。


『とりあえず魔術の復習だよ兄貴。バルバラの教科書とかノートとか論文とかちゃんと読み返して、同じとはいかないまでもそれなりのことできるようにしとくんだよ。もしものとき咄嗟に風魔術が使えるだけで違うからね』

「あのナンジャモンジャ語の術式覚え直せと申すか……」

『微積分の公式よりマシっしょ。ほら、キリキリ頑張れ元受験生』


 元の世界に無事戻り、市民病院のベッドの上で目が覚めたら。

 真っ先に、美佐緒を抱きしめたいと思った。

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