第37話





 神聖な、護られているような感覚。どこか墓場のような空気感。

 そんな特別な場所で、眠るように、身を寄せるように彼女が横たわっていた。


 女神様が横たわっていた。


 深緑の着物を地面に投げ出した、無残な姿は傷跡でいっぱいであった。

 はじまりの大広間の四本ヅノの鬼やパレードのバケモノたちのように擦過痕や打撲、炎症でボロボロであった。

 直樹は、圧倒的に強い彼女しか知らなかった。

 だが、美しい肌や髪はボロボロで、アクアマリンのような綺麗な瞳も閉じた目蓋に隠されている。

 

 直樹の目の前で、女神様の命は、風前の灯火と化していた。



「なんで……」


 直樹はうわごとのように呟きながら、ふらりふらりと女神様へと近寄っていく。

 砲台亀のような化け物がいるのだ。このような可能性は、彼女が無事でない可能性は、常に頭の中にあった。

 でも、無惨な現実を目にして、実際に受け入れられるかといえば、否だ。 


「なんで……」


 女神様の側まで来ると、余計に現実が直樹に襲いかかってきた。

 まだ息はあった。微かな息遣いが聞こえてきた。

 だが、そのか弱さが、彼女が虫の息であることを明白に示していた。


「そんな……」


 直樹は女神様のすぐ側まで寄ると、崩れるようにしゃがみこんだ。

 まだ、心のどこかで、また彼女のストーカー兼召使いになれると思っていた。あの不思議な関係性に戻れると思っていた。

 そんな至近距離で崩れ落ちる気配に反応してか、女神様は、重そうに瞼を上げて、その美しい蒼目で直樹を捉えた。

 小鬼と女神様の視線が交差する。


「あら……」


 女神様の口からこぼれ落ちた。

 直樹と女神様。最初の出会いは、はじまりの大広間で、死体の山に紛れて唐突に行われた。

 あの時と同じ紡ぎ出し。だが、後が違った。


「来ちゃったのね」


 状況に戸惑うのは直樹も女神様も変わりないように見える。

 だが、直樹と異なり、彼女はこの再会を心のどこかで予感していたのかもしれない、そんな風に感じられた。

 彼女は続ける。


「はぁ……バカね、本当に」


 バカねという言葉。それはここまで追いかけてきてしまった直樹を窘める言葉か、労いを意味するのか。

 女神様は、自身よりも力無く崩れ落ちていた直樹を見て、悲しげな顔をして呟いた。

 直樹はそんな彼女を見て、声を聞いて、何も言えなかった。何もできなかった。

 彼女と一緒にいた時間はほんの少しだけであった。

 共有できた感情はもっと少なかった。

 もうこれで終わってしまうだなんて。

 直樹はすがるように女神様に目を遣る。

 すると、彼女がしっかりと直樹を見て、紡いだ。

 

「名前、聞いてもいいかしら?」


 女神様の消えてしまいそうな儚い声。

 その力無さが余計に彼女の色っぽさを演出する。

 直樹は突然の問いかけに当惑しながら答えた。


「直樹、です。河田直樹」

「そう……ナオキ、ね」


 女神様は直樹の口から名前を聞き入れると、まるで大事なものを仕舞いこむように一度だけ、繰り返した。

 何日も行動を共にした間柄として、ひどく間抜けな質問。それだけあの数日間は不思議な日々であった。

 女神様の言葉を受けて、直樹も自然と、彼女の名前を伺おうとする。遅ればせながらの自己紹介。

 だが、直樹の質問より、彼女の次の言葉の方が先であった。


「ナオキ……食べて」


 直樹は耳を疑った。

 一瞬、女神様の発した言葉の意味が理解できなかった。

 理解したくなかった。

 食べて。

 しかし、彼女のとった行動がその意味を否応もなしに突き付けてくる。


「ぁ……うぁっ……」


 女神様の指が、直樹の口内へと差し込まれた。

 パレードを抹殺した後に直樹の口へ大量の核を流し込んだ時と同じように、指で強制的に口を開かせていた。

(なぁっ⁉︎)

 直樹はパニックに陥った。

 つまるところ、彼女は、あの時と同じように直樹に核を食べさせようとしているのだ。

 ただ、今回女神様が直樹の口内に流し込むのは、おそらく、彼女自身の核だ。

 突然呼吸が滞ったことで、えずく直樹。


「うぇっ……ぇっ」


 喰らい、喰らわれ、生きていく。

 この世界の、この洞窟で直樹が見てきた摂理。

 だが、獣と意思疎通できるヒトのような知的生命体では話が変わってくる。

(い……いやだっ⁉︎)

 どれだけ原始的な鬼ライフに馴染んでいようと、食人は別だ。食人に値する行為に、直樹は倫理的に拒絶反応を示す。

 ましてや、今から食べようとしているのは女神様だ。

 しかし、直樹が彼女の行為に気づいたところでもう遅い。

 直樹が戸惑い、抵抗することを見越してか、彼女の動きは力無い様子に反して、迅速であった。

 結局のところ、今回の彼女との別れも、直樹には一切選択肢が与えられていなかった。


「ポトポトッ、ポトッ」


 女神様は開かせた直樹の口に、数えるところ七つの核を落とし入れた。

 指先から出したのか、他にトリックがあるのか。どのようにして七つの核を直樹の口内へと注ぎ込んだのかはわからない。だが、しっかりと核は直樹の体内へと放り込まれていった。

 そして、彼女は、直樹をしっかりと見て、今までで一番悲しそうな笑顔を浮かべた。

 それが、彼女の迎えた最後であった。

 核が完全に直樹の体内へ移ると、彼女は力なく直樹へともたれかかり倒れ込んでいった。

 自分と変わらないくらいの、この世界では大きいと言えない体。

 そこに、彼女は何を背負い、何を思って息絶えたのか。

 あまりにも唐突すぎる別れ。

 あまりにも呆気ない別れ。

 結局、何もわからなかった。

 彼女の悲しげで、そして、とても美しい笑顔が、いつの間にか、不気味なくらいの能面へと変わっていた。表情が抜け落ちていた。

 その無情さが、直樹は哀しくてたまらなかった。





 それから、しばらく、直樹は茫然としていた。

 彼女と出会う直前までと変わらない。生きる気力を根こそぎあの世側に持っていかれる感覚。生きているのにどこか夢現つで抜け殻のような感覚。

 だが、自然と体は動いていた。彼女をこのままにしてはおけない、と。

 直樹は、彼女が横たえていた場所の真横の地面を人一人が入れる大きさにまで掘った。

 掘って、掘って、掘って、無心で掘った。

 そして、出来た穴の中へと彼女を横たえた。

 詳しい葬い方など知らない。日本で一般的な火葬もしてやれない。

 でも、せめて、これだけでも。

 涙は出てこなかった。表情もうまく作れなかった。気持ちがどう処理していいか全くわかっていなかったのだろう。


 この洞窟で初めて会えた言葉の伝わるモノ。


 この世界で初めて希望をくれたモノ。


 この人生で初めて憧れたヒト。


 いつも一方的で、一方的なまま終わってしまった。

 でも、終わりがあるから始まりがある。

 あなたが受け継いでくれた核を、命を、次へ繋いでいくために。

 いつまでもここにはいられない。先へ進む。

 だから、別れの言葉を。


「ありがとう」



 どうか安らかに。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る