第35話
怒りがとめどなく溢れ出てくる。
最初は何もできない自分自身への怒りであった。
だが、後から連鎖的に、何も思うようにいかない周りへの怒りも噴出していった。
昔から周りばかりを見ていた。周りの目を気にしていた。
父親が自殺した後は特にその傾向が顕著であった。小学校の高学年にして、周りから有る事無い事を吐き捨てられてきた。嘘か本当かはどうでもよく、子供も大人も皆が揃って無遠慮に、直樹に関する噂を垂れ流しあっていた。河田直樹という不幸話が瞬く間に消費されて、消えていった。その自称親切、な人たちの視線たちが怖くて仕方がなかった。
それから直樹は、周りを刺激しないように、いいように扱われないように、気をまわして感情を出さないようにしていった。
いつの間にか、何事にも、何をされても、怒らず慌てず、感情を出さないでいるのがクールだと思い込むようになっていた。そうじゃないと自分が保てなかった。
喜怒哀楽が、感情のスイッチが、そのスイッチボタンを失っていった。
次第に、感情が感覚としてわからなくなった。
この洞窟に来て、鬼になって、散々な目に遭い続けてきた。
この洞窟に来て、みっともなく喚き散らせるようになった。
他人がいないからこそ他人の目を気にしなくなった。
他人がいないからこそ
怒りとは、喜怒哀楽とは、ガソリンだ。人が生きて、発展していくための最も大事なエネルギーだ。
歪んでいるのは自分か。それとも、世界か。
そんなことはどうでもいい。
この地獄の洞窟で、《哀しみ》を思い出した。
アドレナリンに浸って、《楽しみ》を思い出した。
そして、今日、《怒り》を思い出した。
世界が変わった。
怒りにまみれた世界は息苦しい。辛い。
でも、灰色一色ではなかった。
***
「ギィィヤアァァァァ!」
鳥人は叫び散らす。
直樹がキレて、鳥人に飛び膝蹴りを見舞った後。それからの展開は、一方的であった。
一方的に直樹はやられた。
流石に鳥人相手に、格下の直樹がちょっとキレたところで戦局はどうにもこうにもならなかった。
ましてや鳥人がキレている。手が付けられない。まぁ、怒らせたのは直樹自身であったのだが。
手も足も出ずにやられているうちに、直樹の脳内では、不思議と過去の記憶が蘇っていた。
走馬灯ではない。そこで蘇った過去は、確かに今と繋がっていた。
人生で落としてきた感情を、人間性を拾い集める旅。高校生にしてはちょっとテーマが悟り過ぎか。
だが、直樹は、今、ものすごく楽しかった。
必死に、後悔がないくらい全力をだす自分。
怒ることが下手だけど怒れた自分。
タコ殴りにされて、それでも自己を表現できてることが心の底から楽しい自分。
知らない自分が、知らない感情が、どんどん溢れ出してくる。
夢のような時間。
でも、この時間は永遠には続かない。
終わりが見えてきた旅路。
だが、まだ終わらせない。
直樹の目線の先には鳥人がいる。
跪いた直樹を見下ろすように、鳥人が仁王立ちしている。
「ペシッ、ペシッ」
鳥人は直樹の髪の毛を掴み上げると、空いた手で頭を二度三度、挑発するように軽く平手で叩く。
その平手打ちには、『とっとと立ち上がれ。もうこれで終わりなのか?』というメッセージが込められているように感じられた。
鳥人は直樹の髪の毛を引っ張り上げ、立ち上がらせる。
そして、直樹の頰に一発、ストレートを叩き込んできた。
「ドゴッ」
手痛い一発。
直樹は意識も虚ろ、後ろにグラグラとよろめく。千鳥足で、立つのもおぼつかない。
だが、直樹は朧げな意識でなんとか鳥人を視界に捉える。まだ、食らいつかねばと気迫をもって踏ん張る。
正面を見上げ、鳥人を見据えると、彼は己の頰を指し示していた。
『次はお前の番だ。寄越せ』と。
鳥人は背丈が直樹の倍以上ある。頭が高い。
だから、直樹は、力を振り絞って跳んだ。
鳥人の頰へ渾身の右ストレート、ジャンピングスマッシュ。
「ドッ」
しかし、受けた鳥人はその場から脚を、体を一切動かさない。
まるで、蚊に刺されでもしたかのように、ちょっと煩わしそうで、それでも、何事もなかったかのようなリアクション。
鳥人のリアクションを受けて、直樹はその場で仁王立ちで待つ。むしろ、頰を鳥人側へと差し出して待つ。
これは殺し合いなんて次元の戦いじゃない。
己の意地だけをかけた闘いだ。
鳥人は差し出された頰へ拳を叩き込む。
「ドゴッ」
直樹は後ろへとグラつきよろめく。
数歩後退る。が、なんとか転げずに踏ん張る。
鳥人を見やる。頭が高い。だから、ちょうどいい高さのものを殴る。
直樹は全身の力を振り絞り、鳥人の腹を拳でカチあげる。
「ドッ」
鳥人は、上体をほんの少しだけ浮かせるも不動を貫く。
鳥人も直樹の腹へと拳を繰り出す。
「ドゴッ」
拳を受けた直樹はよろめくも、一歩も後退らない。耐える。
直樹は再び鳥人の腹へと拳を繰り出す。
「ドゥッ」
鳥人は、上体を確かに浮かせるも、脚は動かさない。
直樹の腹へと拳を再び繰り出す。
「ドゴッ」
直樹は拳を受ける。受けながらも、一歩、前へ踏み出す。
腹の中から潰れる音が聞こえる。進む。
直樹は鳥人の腹へと拳を繰り出す。
「ドッッ」
鳥人は、上体を浮かせる。
もう一発。
「ドゴッ」
連打。直樹のアッパーが鳥人の腹へと突き刺さる。鳥人のチキンレースでの傷跡が抉れる。
鳥人は直樹の拳でもって、下半身を、全身を宙へ浮かせた。
もうひと押し。
「だりゃァァッッ!!」
直樹は、吠える。
最後に、回し蹴りを叩き込む。アッパーで生んだ回転力も、残る力も全て注ぎ込んで。
「ドゴォォッッ!」
回し蹴りを受けた鳥人は、吹っ飛ばされた。
今までほぼ全く動かなかったのに、数メートル、後ろへと退かされた。
だが、空中で体勢を整え、足から着地する。倒れない。
直樹はその姿を視界に捉えてか、捉えずしてか、回し蹴りの勢いのまま地へと沈む。体が崩れ落ちていく。
鳥人戦が始まってから、ずっと身に余る攻撃を食らい続けていた。
体はとっくに限界を超えていた。
それでも、直樹は立ち続けていた。己の存在を表すため。やっと向き合えた生きることよりも確かな感情に向き合うため。
だが、それももう終いだ。
今出せる全てを出し切った。
「フォォォォゥゥッッ!!」
崩れ落ちた直樹を見て鳥人は一つ、高らかに雄叫びをあげる。
それは己の勝利に突き進むためか、それとも熱い戦いを演じてみせた目の前の相手へのリスペクトか。
鳥人は直樹を見据えたまま、動く。直樹から距離をとる。
十メートル以上の距離を取ると、彼は準備が整ったとばかりに不敵な笑みを浮かべ、とあるジェスチャーをとった。
片腕を持ち上げ、直樹へ向けて拳を差し出す。まるで直樹を指し示すかのように。そして、その腕を、拳を、己へと向け、首の手前の宙空を搔き切った。
チキンレースの直前に、直樹がみせた挑発動作の真似だろう。だが、彼の動作の意図が自然と直樹には伝わった。これから行う技が彼のフィニッシュだというメッセージだ。
もうトドメを刺さずとも虫の息だというのに、それでも全力で仕留めにくる。彼の粋な計らいだ。
「フッッ」
力なく倒れこむ直樹は、鳥人の計らいへ笑みを浮かべる。
感謝か、賞賛か、意地か。もう直樹自身、己の感情の拠るところがわからなくなっていた。
だが笑みがこぼれていた。
鳥人はそんな直樹を見て、笑みを深め、動き始めた。
「ダダッ」
鳥人は十分にとった距離を駆ける。助走、だろうか。
鳥人が何を繰り出すのかわからない。それでも、彼のフィニッシュはさぞかし美しいんだろうな、と直樹は思った。実際に目にすることは叶わないのが残念であり光栄だ、とも感じた。
その猛スピードの助走も半ばを過ぎ、いよいよフィニッシュの動きの全貌がわかるだろうかというところで——鳥人が突然、足を止めた。
そして、視線を直樹との戦いの場から外へと、この異様に広い広間に繋がる大きな通路へ向ける。
鳥人の視線の先には、無数のバケモノがいた。こちらへと駆けてきていた。
パレード、だ。
鳥人はパレードを見やり、ふと思索に耽る。
そして、鳥人は意味ありげに視線を直樹へ送ると、その場から立ち去っていった。
直樹にはその視線がまるで、『またやろうな』と再び遊ぶ約束をしたように感じられた。
終わった。終わってしまった。
夢のような時間だった。
全く歯が立たなかった。ボロボロにされた。
チキンレースでの飛び膝蹴りの後からはもう意識が朦朧としていた。
もう自分で自分が何をやってるのかわからなかった。
相手の攻撃を正面から受けて、その上でさらに強いので返して。
無意識にアイツより強いとアイツに証明してやろうとしていた。
楽しかった。
初めてと言っていいくらいブチギレて、それを受け止めてもらえた。
周りの視線に抑鬱されてきた怒りを、感情を表現できた。
今まで巨大バエやゴリラとかに感じてきた、闘いに対する楽しいって感情を表現して共有できた。
全部、鳥人が引き出してくれて、表現させてくれた。
でも、勝てなかった
直樹の瞳から一滴、頰を伝う。
初めてだった。生死がどうのこうのではなく、もっと別の魂のぶつかり合いだった。本当の意味で滾った。
でも勝てなかった。
雫は次々と、頰を雨のように伝って行く。
己の全てを出し切った。
二百パーセント出し切った。
でも勝てなかった。
直樹は、下唇を噛み締め、眦に力を入れる。
それでも、涙はどんどん溢れてくる。
止まらない。
負けた。
悔しい。
次は……次は、絶対、負けるものか。
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