第10話






「あら?」


 バケモノどもの死体の山の向こう側から声がした。

 耳にしただけでとろけてしまいそうな蠱惑な音色だ。

 

「どうなっているのかしら?」


 死体の山から人影が姿を現す。

 それは女神だった。

 この世で最も美しい女性を最も美しい瞬間で切り取って止めてみせた、美の女神といっても過言ではないだろう。

 程よくつり上がった眦に宝石のようなアクアマリンの目は彼女の気高さを強く印象づける。小さく整った鼻も、紅い唇も顔のパーツ全てが神の芸術作品であるかのごとく美しい。シミひとつない真っ白な肌は無機質で硬質で生命的な輝きを感じさせないが、それがかえって、彼女のこの世のものとは思えない神秘的な美を強調している。銀色に輝く絹糸のように滑らかな長髪も、モデルでも再現し得ないように整ったスタイルもその神秘性に一役買っている。

 容姿だけでも神々しい彼女だが、特徴的で目を惹くのはその素晴らしい造形美だけではなかった。

 それは着物だ。いや、正確には胴体と一体化して彼女の体そのものとなっているように見えるから衣服の類ではないのかもしれないが。それはほんのりと憂いを帯びた彼女の表情に呼応するかのように、落ち着き、吸い込まれていくような、暗く綺麗な深緑に染まっている。まるで職人が何年も、何十年もかけて染め上げたような深い色合いだ。その重厚な装いは神秘的な彼女にあってもより特異的なものとなっている。

 神秘的で、特異的で、直樹の目の前にいるものは、まさしく女神様が地上に降誕なさったらこのような姿となるのではないか、そのように感じさせる存在であった。

 直樹は言葉には表しようもないほどの感動を抱いた。

 

「はぁっ……」


 思わず息を呑もうとして、詰まる。

 これまで自分が息をすることすら忘れて魅入っていたことに気がつく。

 直樹が魅入っていたのと同じように、彼女も直樹の存在を確認して以降、動きを止めていた。

 直樹が咽せたことにより我に返ったのか、女神は直樹を見ながら呟く。


「まさか……そんな……」


 無意識に、意図せず口をついて出てしまったといわんばかりに呆然と呟く。

 端整な顔立ちから、バケモノどもの死体の山の主人とみられる状況からはとてもではないが想像できない女神の振る舞いに直樹は呆気にとられる。

 女神はそれから、そばに横たわる四本ヅノの鬼を見やると、だんだんと悔しそうに舌を噛み、そして、何かを悟ったように寂しそうに泣きそうにくしゃりと顔を歪めた。


「馬鹿ね、本当に……」


 女神はまたもや呟いた。

 

 女神が何を思ってあのような表情の変遷をたどったのか直樹には想像しようもない。

 だが、直樹は、彼女の神秘性に反した、ひどく人間味溢れる表情に久方ぶりに心を大きく揺さぶられた。

 この世界に来てからずっと緊張を切らさず、神経を張りつめさせていた。

 疲れ切っていた。

 最初は状況に驚き、恨んでいたものの次第に怒りが、気力が、感動が乏しくなっていった。

 表情の動かし方がわからなくなってしまっていた。

 心の動きがわからなくなってしまった。

 だからこそ、いつぶりだろうか、他人の感動に触れたのは。

 いつぶりだろうか、心を動かせたのは。

 ヒトは感動がなくなると死にたくなる。

 直樹は女神のおかげで久方ぶりに人間としての感性に気付かされた。

 

 目線を女神へと戻すと、彼女は能面のように表情が抜け落ちていた。

 女神は口を開く。


「ねぇ、あなた、教えてよ」


 ぞっとするほど底冷えした。

 先ほどとうって変わって、感情の抜け落ちた恐ろしく空虚な声が響く。

 直樹は一瞬で理解させられた。

 この死体の山を生み出したのは彼女だ。

 直感的にわかる。

 俺らがバケモノなら彼女は神だ。次元が違う。本物の化物だ。

 おそらく討ち漏らしをするなんて甘いことはしない。だからこそこんな雑魚が生きていることに疑問を持ったのだろうか。

 ……自分はここで殺されるのだろうか。

(……はぁ)

 やはり悔しさはある。湖のほとりで死に損なって以来、生きるということを目標に日々、精一杯やってきた。

 何度死にかけたかわからない。その度に精神的に削られてボロボロになって、それでも今日まで生き抜いてきた。

 今日それが終わってしまうのだ。やはり悔しい。

 だが、正直、もう限界だとは思っていた。

 衣食住全てが満たされない生活に、心が動かなくなっていった。

 いつまで続くかわからないこの極限状態に、体も、そして頭も動かなくなっていった。

 もはや、チビガエルの舌弾丸さえ避けることは叶わないかもしれない。

 そして何より、いつからか、生きることより先に死ぬことを考えていた。

 最初はマシな死に方を考える程度だった。絞殺や丸呑みよりかは頭が一瞬で吹っ飛ぶのがいいな、とか。

 だが、段々とマシな死に方だけでなく、自分で死ぬ方法について考えるようになっていった。

 死が、自殺願望が脳を、体を支配していった。

 もう、明日には死んでいるのかもしれない。

 今日、女神に出会えた。

 彼女が何を感じ、何を考えて心を動かし、あの発言に至ったのかはわからない。ただそこには紛れもなくヒトの心があった。

 運命的なものを感じた。

 人間味のある彼女だからこそ、俺を殺した後、どんなことを思ってくれるのだろうか。少なくとも他のバケモノどもと違ってただのエサとしか思われないなんてことはないのではないか。

 そこら辺の俺のことをエサとしか見ていないバケモノに食われるくらいだったら、まだマシなのではないだろうか。


「バサッ」


 女神は何重にも重ねられた着物のうち、表層の裾を触れもせずにめくり、持ち上げる。まるで着物が意思を持って動いているような、そんな挙動だ。

 女神の内側で直樹にもわかるほどに膨大なエネルギーが動いている。このエネルギーが着物を動かしているのかもしれない。

 これから、何が起こるのか、わからない。

 だが、収まらない殺気から、これが直樹を仕留めるための行動であることはわかる。

(死ぬのか……)

 直樹の目から涙がこぼれ落ちる。

 相対する彼女は畏れるべき存在だ。神にも等しい。

 そして直樹は今、彼女に殺されようとしている。

 だが、不思議と直樹に恐怖はなかった。

 今まで何度も死にかけてきた。何度も死んだと思った。今回もその一つでしかない。

 この残酷な洞窟ではろくな死に方をできないだろうなと思っていた。

 ただ、今日女神と出会って最後に感動するということを思い出せた。

 人間味という言葉は豊かな情緒や思いやりを表す。久方ぶりに美しさに心を動かされた。久方ぶりに他人の表情の変化にその心情を慮った。

 鬼だけどヒトらしさを思い出させてくれた。

 だから、こんな終わり方なら納得してもいいのかもなと思った。

 直樹の胸に最後に残ったのは感謝だった。


 この洞窟という生き地獄から解放してくれる。救ってくれる。だから、

(ありがとう)


 感動が抜け落ちたまま死ぬのはとても寂しいことだと思った。思い出させてくれた。だから、

(ありがとう)


 直樹は美しく、人間味の溢れる死神の裁きを待つ。

 目を閉じ、全てを受け入れる。

 心は安らいでいた。


「っっつ⁉︎」 


 女神はそんな全てを悟ったかのような直樹の姿に困惑し、顔を歪め、殺気を引っ込め、そして無表情となった。

 何を思ったのかはわからない。

 彼女は着物をはためかせたまま、四本ヅノの鬼に近づき、そして、頭と手と背中をかっさばいて、粒を六つ取り出した。 

 そして、無言でそれを直樹の前へ置くとそのままホールの外へと歩き始めた。





 こうして小鬼と女神は邂逅を果たした。

 この時、これが世界のあり方を大きく動かす運命の出会いになるだなんては想像だにしていなかった。僕も、そして、彼女も。




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