3.嫉妬
日付けが変わろうとしている。ナイトテーブルの上に置かれたデジタル時計が示すのは二十三時五十八分。後二分。
お前は幸春になりたかったの?
情事の後。いつものように煙草に火をつけた夏目さんは、嘲笑交じりにそう言った。
何を急に……俺はそんな非難の意味を込めて睨むように夏目さんを見る。しかし夏目さんはこちらに背を向けてしまっていた。彼は今、どこを見ているのだろう。ねぇ、そっちには何もないよ、夏目さん。心の中で話し掛けても、夏目さんに届くはずもない。
違います。溜め息を吐くように答えながら、体を起こす。夏目さんの背中を抱き締める。
幸春になりたい。今も。なりたかったじゃ、ない。
自分から訊いたくせに俺の返事には何も言わず、夏目さんはちらりと時計に目を遣った。俺もその視線の先を追う。二十三時五十九分。後一分。
夏目さんの肩に顔を埋める。ああ、なんだろう。泣きそうだ。幸春が死んでからずっとこうだ。いつも、どうしようもなく泣きたくなる。なのに泣けない。だって泣かないから。誰よりも泣きたいはずの人が、一粒たりとて涙を流さないから。
俺はお前になりたかったよ。
呟くように言われた。俺は視線を上げ、夏目さんの横顔を見る。今度は、夏目さんは俺のことを見ていた。多分、俺の方を、見ていた。いや、もしかしたら夏目さんが見ていたのは俺じゃなくて、俺の向こう側に居る……
嫌だ。俺を見ながら幸春を見ないでくれ。俺を見て、夏目さん。
夏目さんの手から煙草を奪い取る。苦い唇に口付けようとする。しかし夏目さんは拒絶するように手で口元を隠した。俺は分かり易く不機嫌になる。そんな俺を見て夏目さんが苦笑いする。
夏目さんを押し倒す。俺の右手の煙草から、煙が昇る。目に沁みる。夏目さんは俺の髪をくしゃくしゃと、やけに優しく撫でる。見下ろしているのは俺のはずなのに、見下ろされているような気分になる。
遺品整理でもするか。
突然落とされた突拍子も無い提案に、え? と間の抜けた声が漏れた。
──零時一分。日付けは変わっていた。
今日は幸春が居なくなった日。
これ、遺品整理って言います? 俺が首を捻ると、夏目さんはふっと鼻で笑った。言わないかもな、と。
俺の知る限り、幸春が死んでから、夏目さんが幸春の部屋に入るのはこれが初めてだ。一応俺が掃除機だけはかけていたから、目立った汚れはない。
夏目さんは本棚から本を取り出してはそれをぺらぺらと捲って閉じ、机の引き出しから何かを取り出してはそれを眺めて元に戻し……という、なんとも生産性のない行為を繰り返していた。こんなの深夜にやることか? 明日(もう今日か)が休みだから俺も付き合っているが、正直眠気がある。この人を幸春の部屋に置いておくのが不安で仕方ないから、きっと仕事を控えていても付き合ってしまうのだろうけど。
触れては戻しを繰り返していた夏目さんは、ふと、あった、と呟いた。何がですか。俺の問い掛けに、夏目さんは手の中のそれの表紙をこちらへ見せる。茶色くて分厚いその本の表紙には、筆記体で書かれたDiaryの文字。日記なんてつけてたのか、あいつ。しかも今時アナログで。
夏目さんは幸春の日記の存在を知っていて、この『遺品整理』なんていう深夜のよく分からないイベントも日記帳を探す為の口実だったのだろう。これまでとは違いぺらぺらと、ではなく一ページずつゆっくりと捲っていった。読まない方が良い。その日記は多分、読むべきではない。そう言いたいのに、夏目さんの真剣な、だけどどこか諦めたような目を見ていると、俺は彼を止められなかった。
最後まで読んで、夏目さんはぱたりと日記帳を閉じた。フローリングの床に寝転がる。目元を腕で隠すようにしながら、お前も読んでみれば? と夏目さんは言った。
読まないです。
なんで。
だって、そんなの……死者への冒涜じゃないですか。
違うだろ。お前のそれは、読まないじゃなくて、読みたくないじゃねぇか。
そこまで責めるように言われて、俺は何も返せなくなってしまった。この人はどこまで知っていたのだろう。俺が知っているということも、知っているのだろうか。
あいつは俺になりたがってたよ。
夏目さんの左手の薬指で、ただの輪っかが俺達を嘲笑っている。
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