2.名前
夏目さん。俺は普段、時藤夏目をそう呼ぶ。だけど行為の間だけ、俺は彼を『夏目』と呼ぶ。幸春が呼んでいたように。
生きる意味を失った夏目さんは、日本に残り、幸春と過ごした家に住み続けることを望んだ。その家は、夏目さんが社会人になって最初に幸春に与えたものだった。二人で過ごす家。親戚という名の他人の家から逃れて、二人だけで息をする場所。
夏目さんは家以外の何もかもを捨てた。幸春の残したものだけをなぞり続けた。それでも夏目さんが消えずに済んだのは俺のおかげだと、俺は信じたい。俺が、幸春の代わりに、幸春と同じように、夏目さんに寄り添っていたおかげだと。……夏目さんは、俺の『せい』だと思っているかもしれないけれど。
高校生の時から、初めて会った時から、俺は夏目さんのことが好きだった。この人を自分のものにしたいと思っていた。自分のものにはならないと分かっていた。そんな人が、奇跡が起こったみたいに今、俺の腕の中に居るというのに。俺の胸は、どうしようもない虚しさでいっぱいだ。俺は幸春にならなければいけない。そうでないと、夏目さんの傍に居られないから。だけど俺は俺のまま、夏目さんに受け入れられたい。そんなことは無理だと知っている。知ってるよ。
夏目さんは俺の名前を呼んでくれない。だけど行為中だけ、彼は俺を『ユキ』と呼ぶ。幸春をそう呼んでいたように。俺の名前には、『ユキ』なんて入っていないのに。
高校生の時は頻繁に時藤家に出入りしていたが、夏目さんはいつも家に居た。小説家である夏目さんは、ずっと小説を書いていて。彼が一日のほとんどを過ごしていたリビングは、いつ入っても煙草の臭いがした。
煙草の臭いは嫌いだった。両親が嫌煙家だったから、煙草とはただ悪いものなのだと思っていた。だけど俺の好きな人が煙草を吸っている姿は、世界中のどんなものよりも美しいと感じた。いつしか、苦手だった煙草の臭いは何より好きな臭いになった。
幸春が死んでから、夏目さんは小説を書かなくなった。もう何も書けない。力なくそう呟いた夏目さんを抱き締めた。あの時の体温を、俺は今でも憶えている。俺はあの日、初めて夏目さんに触れた。人とは思えない程に冷たいのに、ああ、これが夏目さんの体温なのか、と思うと急に温かく感じて、俺はなんだか泣きそうだった。
夏目さんの本を読んだことがある。驚く程に甘いラブストーリーだった。普段の夏目さんからは想像できないような、砂糖の塊みたいな文章だった。それが誰に宛てられた物語なのか、誰を想って綴られた文字達なのかなんて明らかで、苦しくなった俺は本を閉じた。それでも幸春のことを嫌いになれない自分が憎かった。
──夏目さんの寝顔を見ていると、吐きそうになる。だってあまりに綺麗だから。さっきまで俺の腕の中でよがっていたこの人が、自分のものじゃないって事実に吐き気がする。
好きだ。この人が、好きだ。愛している。愛されなくても。
夏目さん、俺は貴方に名前を呼んで欲しい。
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