1.指輪

 俺が初めてその人──時藤夏目ときとうなつめと出会ったのは、俺が高校二年生で、彼が社会人一年目の時だった。俺が初めて、親友・時藤幸春ゆきはるの家を訪ねた日のことだ。

 幸春がリビングのドアを開けた瞬間、あまりの煙たさに思わず咳き込んだ。幸春は困ったように「悪い」と苦笑して、ソファに寝転んで煙草を吸っていたその男の元に歩み寄っていった。俺は息を呑んだ。彼が、あまりにも美しかったから。

 恐らくあの日、あの瞬間、俺はあっさり恋に落ちた。


「お〜い、夏目。ベランダで吸えって言ってんだろ。つか立て、せめて座れ。危ねぇ」


 ぐちぐちと文句を言う幸春の唇を、上半身だけ起こした彼は奪った。にやりと上げられた口角が、どうしようもなく妖艶だった。彼の左手、人差し指と中指の間に挟まれた煙草から、紫煙が揺れていた。ゆらゆら揺れて、その空間をいやに幻想的にしていた。勃ちそうだった。

 俺は呆然と立っているしかできなかった。幸春から唇を離した彼は、ようやく俺を視界に入れたかのように、一瞬目を細めた後、きっと睨み付けてきた。今思えば、あれは俺に対する牽制だった。邪魔するなよ、俺のものだ、とでも言うような。

 時藤兄弟は歪んでいた。そのことに時藤夏目も、幸春も気付いていた。それが当然の兄弟の形ではないと知った上で、当然の自分達の形だと思っていた。

 幼くして両親に捨てられ、親戚中をたらい回しにされていた彼らは、二人で、二人だけで生きていた。互いを一番に愛し、互いが世界の全てだった。彼らの異常性を知って尚、俺は彼らに異常だとは言えなかった。俺なんかとは比べ物にならないような苦しい生活を送っていたのだと、俺は──断片的にではあるが──知ってしまったからだ。俺が言わなくても、彼らは自分達が異常なことなんて理解していた。それでも、異常で居なければ、支え合わなければ、彼らは潰れてしまいそうだった。

 俺は『親友』として幸春の人生の一部にはなれたが、彼ら兄弟との間には分厚い壁を感じていた。彼らの間にはどうしたって入り込めないことは察していたし、それで良いと思っていた。それでも俺は幸春が大事だったし、時藤夏目が好きだった。

 共依存。二人をたった一つの言葉で表せと言うのならば、きっとその言葉が最も相応しい。


「指輪を探しにいきたいんだ」


 飲み屋で幸春がそう告げたのは、俺が大学四年生の時だった。俺は大学卒業を間近に控え、高校を卒業して一足先に社会人になった幸春は、海外転勤を控えていた。高校を卒業してからもしょっちゅう連絡を取り合っていた俺達は、これからしばらく会えないな、たまには連絡しろよ、なんて話をしていた。もうすっかり街は冬景色だった。

 誰に? だなんて野暮な問い掛けはしなかった。相手なんて明らかだ。幸春は転勤先に時藤夏目を連れていきたいのだろう。それはやっぱり彼にとって、とても自然なことだった。俺も不思議と、そうであるべきだと感じた。


「指輪買うの、広人ひろとにもついてきて欲しい」


 幸春にそう懇願されて、つい笑ってしまった。しかし幸春は真剣だったようで、「お願い」ともう一度畳み掛けた。俺は多分、幸春に甘い。仕方ないなあ、と結局折れた。幸春が安心したように微笑んだから、何もかも許せてしまった。俺はこの笑顔に弱いのだろう。

 幸春と二人で指輪を買いにいった。学生の俺には手が出ないようなお高い指輪を買って、幸春は幸せそうに笑っていた。幸せな春。この男にぴったりな名前だと、ふと思った。

 暖かい春が訪れようとしていた。桜が咲く前に、幸春と時藤夏目は日本を立つ予定だった。俺も見送りに行く約束をした。

 しかし旅立ちを翌日に迎えたその日、幸春は突然命を落とした。

 不幸な事故だった。幸春の乗っていたタクシーの前に突然子供が飛び出し、運転手が慌ててハンドルを切った。運転手も幸春も即死だった。

 葬式はあげなかった。喪主になるべき時藤夏目が、葬式をあげられるような精神状態ではなかったから。俺は時藤夏目に寄り添い続けた。誰かが彼の傍に居ないと、彼は呆気なく消えてしまいそうだったから。

 俺は彼を、悲しいくらいに愛していたから。

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