3-14

 ワイルドガウンの隠れ家はコンプレスとマザーさんが使っていた集会場にほど近い場所にあるフロアごとに店が入るタイプの五階建ての空き店舗だった。近づくにつれて、飛び交う野鳥や野良犬、野良猫の数が増えていく。向こうにも俺たちが見えているだろうが、こちらも地上を歩くよりはかなり素早く移動している。逃げ出すにしろ戦うにしろ、ワイルドガウンが体勢を整える前に辿り着いてしまえばいい。


 建物の屋上に降り立った途端バサバサと羽音を響かせて大量のカラスが舞い降りてきて、俺たちの頭上を旋回し始める。それに遅れること数秒、屋上の出入り口や隅に置かれたコンテナの陰から今度は猫が次々と現れ、俺たちを遠巻きに観察するように円形に囲む。


 カァカァと甲高い声が至近距離で響いているにもかかわらず、こちらを見る猫たちの瞳はぴくりとも揺れる気配がない。明かりの少ない町並みの中で、この屋上にだけ月明かりを受けて輝く無数の瞳があり、その全てがじっとこちらに向けられていた。


『いやー電話越しでもカラス凄いなぁ。他にも何かおるん?』


「猫がいますよ。こっちは黙って俺たちを睨んでるだけですが」


『凝った演出やなぁ。ま、それはええわ。そっから先は完全に力技や。ウチから言えることはなんもあらへん。ええな?』


「はい、わかってます」


『ん。ほんなら思いっきりぶち抜いたれ。頑張ってなーって、バルクガールにも伝えといてな』


「了解です」


『ほな、吉報を期待しとるでー』


 通話終了を告げる電子音が鳴る。俺はイヤホンを外して携帯と一緒にポケットに押し込んだ。


「スミカさん、何か仰っていましたか?」


「思いっきりぶち抜いていいって。あと、お前に頑張れってさ」


「……わかりました、頑張ります。ではお兄ちゃんは、しっかり掴まっていてくださいね」


 俺が頷くのを確認して、バルクガールは俺が乗っているのと反対側の腕を思い切り振りかぶる。視線は猫でもカラスでもなく足下に向けられている。足下、屋上の床である。


「っふ、はあッ!」


 気合いと共に振り下ろされた拳が床を砕く。屋上の中心から歪な円状に衝撃と亀裂が走り、抉り取ったかのようにベコッと凹む。わずかな沈黙の後、衝撃に耐えきれなかった建材が悲鳴を挙げて崩れ始めた。


 音を立てて崩れていく瓦礫を器用に足場にして飛び移りながら、バルクガールは下のフロア、屋上を除いた最上階である五階へと降り立つ。俺はただただ振り落とされないようにしがみつくので必死だったわけだが。


「……ド派手な登場だなァ、おい」


 天井が崩れていない部屋の隅の方から、苛立たしげな声が聞こえた。


「ったく、こんな方法で来られちゃ、下の階に配置しといた連中の出番がねぇじゃねェか」


 不機嫌さを隠そうともせず、暗がりから月明かりのもとに姿を表したのは、もちろんワイルドガウンだ。公園で対面した時と同じく二頭の大型犬を従えている。だが、その犬達は心なしか不安げな様子で、落ち着き無くウロウロと同じ辺りを歩き回っていた。


「犬が動揺してるぞ。まさかとは思うが、怖いのか?」


「フン、自分一人で立つこともままならないくせにエラそうな口を利くな」


 ワイルドガウンは挑発を返してくるが、犬達は相変わらずだ。ワイルドガウンの能力は本人が心を乱すと弱まる。犬達に公園で会った時ほどの落ち着きがないのは、ワイルドガウンが落ち着きを失っていることが原因に違いない。


 実際、ワイルドガウンをねじ伏せることだけが目的なら、バルクガールがこの場に辿り着けた時点でこちらの勝ちは決まっている。


 大型犬くらいではバルクガールは止められないし、ワイルドガウン自身にはそれなりに鍛えた肉体以外に武器は無い。どう考えても正面からぶつかってバルクガールが敗北することはないのだ。


 だから、俺たちが飛び込んだ瞬間にワイルドガウンが逃げ出さなかったことが意外ですらあったのだ。この男は愚かだが保身に関しては馬鹿ではない。これほど明確な不利を前にしても、逃げ出すことをよしとしないほどに俺への復讐に執着しているのだろうか。それならそれで追う手間が省けて好都合だ。


「……一応確認しておくが、大人しく捕まる気はないんだな?」


「俺を捕まえるって? 随分しおらしくなったなァ、こないだは俺を殺す気だったんじゃねぇのかよ」


「気が変わったんだ。お前なんて、殺す価値もないってな」


「あぁ? そのザマで大層な言い様だな。そのでっけぇお友達はそんなに頼りになるのかい?」


 ばうっ、ばうっ、と犬達が吠える。これもワイルドガウンが指示しているとしたら、屋上のカラスや猫といいこいつはかなりの演出好きだな。


 ……しかし、意外と落ち着いているのが気になる。戦力的にはワイルドガウンに勝ち目は無い。元々プライドが高いワイルドガウンが、この状況で挑発に乗って攻撃に出るでもなく、かといって逃げ出しもしない、その理由は何だ? 何か勝ちの目を持っているというのか?


 だが仮に猛獣でもけしかけたところでバルクガール相手では足止めくらいにしかならないはずだ。それだけで逃げ切れると思っているのか? それとももっと別の何か、奥の手を隠し持っている? なんだ、俺は何を見落としている?


「ま、折角怪我を押して出向いてもらったわけだしなぁ。相応のお礼は必要だよな」


 ワイルドガウンの言葉に応えるように、俺たちが飛び込んできた天井の大穴から、屋上にいた猫達が飛び込んでくる。屋上の時と同じように、瓦礫の山を避けつつも遠巻きに俺たちを囲むように並び、じっと黄色い瞳を向けてくる。


 猫達に続いて、ワイルドガウンの右奥に見えるこのフロアへの扉から、複数の中型犬が姿を現す。ワイルドガウンの脇を固める二匹ほどの力は無いにしろ、後から後からやってくるその数は馬鹿にならない。


 おそらくこの犬達がワイルドガウンの言う「下の階に配置した連中」なのだろう。ここが五階であることを考えれば、最悪の場合下の四フロアを埋め尽くせる程度の数が後ろに控えている恐れもある。


 これがワイルドガウンの落ち着きの理由だろうか。確かに、力で敵わない相手に対する数は有効な戦術だが……それでも地力をひっくり返すには弱いような。対処に反射神経と柔軟な身のこなしは要求されるが、別に全てを相手にする必要は無い。ワイルドガウンさえ捕らえてしまえばいいという条件なら、まだこちらの方が有利だ。


「……犬猫でわたしは止まりませんよ?」


 バルクガールもワイルドガウンの態度に違和感を覚えたのか、探るような視線を向ける。


「まぁまぁ、そちらさんが有利なんだ、こっちの下準備くらい大目に見てくれたっていいだろ。なァに時間は取らせねぇよ。あとは仕上げの――こいつだけなんだからさ」


「「っ!」」


 ワイルドガウンが懐から取り出したものを見て、俺とバルクガールが同時に悲鳴にも近い息を漏らした。咄嗟にバルクガールが飛び出すが、ワイルドガウンに迫る前に集まっていた犬と猫が一斉に飛びかかってくる。


「この、どいてっ、ください!」


 俺を肩に乗せたままということもあり、バルクガールの動きは精彩を欠く。猫の爪や犬の牙程度では彼女の鋼の肉体に傷一つつけられない。つけられないが、進路を塞がれることで時間稼ぎの役目は十分以上に達成されている。


 慌てて俺も彼女の肩から転げ落ちるが、それでも間に合わない。


「お兄ちゃん!」


「いいから行け! アレを使わせるな!」


 後から後から飛びかかってくる犬や猫を必死に払いのけるが、小さくも鋭利な牙が腕や足に喰らいつくのは阻めない。瞬く間に俺は全身血みどろの有様になり、足の傷にまで喰らいつかれたのか塞がっていたはずの傷跡からだくだくと血が溢れ始める。


 そしてバルクガールは転げ落ちた俺を助けようと咄嗟に足を止めてしまい、それが決定的な隙となる。


「く、くく、ははははは! これで終わりだ! いくらお前らが強かろうが、身動きできなけりゃこいつらの餌食になるしかねぇよなァ? 売り出し中のヒーローを取っ捕まえたとなりゃあ、この街で俺の立場も安泰だろうぜェ!」


 高笑いとともに、ワイルドガウンは手にしたそれを高々と掲げる。

 ワイルドガウンの手に握られているのは、手榴弾にも似た楕円形の物体。簡素な外装とわかり易いスイッチ。

 バルクガールの最大の弱みである、出所不明の凶悪兵器、リジド・ボムだ。


「これで終わりだ! そうだろ、なァそうだろォ!」


 ワイルドガウンが犬歯を剥き出して吠える。親指がスイッチにかかり、カチリと音を立てた。

 終わった、か、と全身の力が抜けていく。しかし、意外な声が俺の落胆を遮った。


「はぁっ!」


 ぎにゃーと悲鳴を上げる猫達を振り払うバルクガール。リジド・ボムで動きを封じられるはずの彼女だが、その動きは止まるどころか、立ち止まりすらしない。そのまま纏わり付く動物達を払いのけ、確実にワイルドガウンに近づいていく。


「は? お、おい、なんでだよ! 何で動けるんだ」


「知りません、けどっ!」


 飛びかかってくる犬を払い落としながら進むバルクガールに躊躇はない。が、いまの反応からしてリジド・ボムに何らかの対策を講じていたというわけではないらしい。

 俺も、そして恐らくバルクガール自身もこの状況に驚いているが、一番動揺しているのは間違いなくワイルドガウンだった。


「くそ、なんだってんだよ! おい、この、なんでっ」


 何度もリジド・ボムの電源をカチカチと弄り続けているが、バルクガールの動きが鈍る気配はない。それどころか、バルクガールの進撃速度は早くなってすらいる。ワイルドガウンの動揺が伝わったのか、能力の制御下から逃れた一部の犬猫達が暴れるバルクガールに恐れをなして、先を争うように逃げ出して、阻むものがいなくなったせいだろう。


「くぬ、このっ、畜生!」


「よくわかりませんが、運が悪かったようですね」


「ひっ」


 動物達の妨害が格段に薄くなったせいで、ほとんど間を置かずにバルクガールが接近し、ワイルドガウンが情けなくも口元を引き攣らせて尻餅をつく。


「観念してください。わたしとお兄ちゃんの正義が、あなたを許しません。大人しくするならこれ以上手荒な真似はしませんが、どうします?」


 座り込んだワイルドガウンを見下ろすようにして、バルクガールが威圧的に問う。……あいつあんな凄みのある声も出せたのか。


「っ、な、にが、何が正義だよ! そんなもんが何になる! その正義とやらのせいで、俺はこんなになるまで追い込まれるハメになったんだぞ!」


 ワイルドガウンの姿にはヒーローは愚か、悪人としての挟持すら感じられない。

 尻餅をついて壁際まで追い詰められて、自業自得の過去を誰かのせいにして唾を飛ばして悪罵する。獣王のフードを濡らすのは、追い詰められた恐れと焦りからくる涙か汗か。


 だが、そんなハイエナを前にしてバルクガールの歩みが止まった。


「正義の、せい」


「そうだ! そこの小僧が俺の正義を全部ぶち壊した! 俺の築いてきたもんを根こそぎ奪いやがったんだ! その上どうして、俺がこんな目に遭わなきゃいけねぇ! 復讐さえ出来なくなったら、俺はどうすりゃいい!」


 八つ当たりだ。俺が西野にしたのと同じように、誰かを恨んで復讐に力を注いで、そうしている間だけ痛みに鈍感でいられる、そのための八つ当たり。端から見ればひどく滑稽で、けれど当人にとってはそうするしか無いとすら感じられる逃避行動。


 だから俺は、即座にそれを笑い飛ばせない。


 同じなんだ。腹立たしいことこの上ないが、ついこの間までの俺と、いま目の前にいるワイルドガウンは同じだ。


 俺は信頼する友人を、ワイルドガウンはしがみついていた地位を突然失くして、復讐に取り憑かれた。本人の意図しないところで突如として寄る辺を失ったのだ。


 偶然にも奏先輩が残したスミカ先輩との出会い、そして西野との和解という幸運に恵まれた俺はこうしていられるが、ワイルドガウンにはそれがない。復讐の歯止めも、失ったものに代わる支えも無いまま、復讐の手がかりもつかめずに長い時間だけが過ぎてしまった。


 俺があのまま、ワイルドガウンへの手がかりを失い、スミカ先輩と出会わず、西野と再開せず、何年も一人で過ごしていたら。あるいはワイルドガウンのように、どうしようもないくらい憎しみをこじらせる未来があったかもしれない。


 だからワイルドガウンが「そう」なってしまったことを否定することは出来ない。


 それが自業自得であったとしても、そもそも築き上げたものが簒奪と欺瞞の成果だったとしても、失いたくない、掴んでいたいと願っていたものを突然に失う痛みは等しく痛烈である。


 だが、俺は「そう」ならなかったのも事実だ。ならば俺にしか言えないことがある。同じとは言わないまでも、同種の痛みを知っていて、けれど同じ道に堕ちなかった俺でなければ言えないことがある。

 想定していた形ではないが、やることは変わらない。これが俺の役目だ。


「なぁ、


 動かない足と、血まみれの腕で、どうにか上半身だけでも起こす。情けない姿だが、これから話すことを考えればお似合いだ。

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