2-5

 残念ながら悪夢は見なかった。


 瞼越しに朝の光を感じて、目を閉じたまま寝返りを打つ。身体のあちこちがズキズキと痛み、目を覚ましたことを後悔した。あと三日くらい寝こけておけばもうちょっと痛みはマシになったんじゃないだろうか。

 鈍く痛む身体とは対照的に頭の方は寝起きにもかかわらずひどくハッキリしていて、思考から不純物が全部こし取られたみたいにクリアだ。悪夢を見なかったことも一因だろうか。


 昨夜意識を手放した瞬間の記憶が蘇ってきて苛立つ。なんだかこれでは、俺があいつに抱かれた安心感でぐっすり眠ったみたいじゃないか。断じて違う、昨夜は慣れない緊張の連続だったから身体だけでなく精神的な疲労も酷かったんだ。それで眠りが深くて、結果として妙に頭がスッキリしている、それだけのことだ。


 不愉快な出来事にとりあえず納得できる落としどころを見つけて、俺はようやく朝日への抵抗をやめて目を開けた。


「………………………………どこだ、ここ」


 だだっ広い畳敷きの部屋。そのど真ん中にぽつんと敷かれた布団から起き上がる。

 広い。とにかく広い。俺が寝ていた布団を敷き詰めれば学校の二クラスくらいが修学旅行とかで使えそうな広さ。なんか床の間に掛け軸とか日本刀とか飾ってあるし。何なのここ、何なのなの?


 いや、え、マジでどこだ、ここ。


 記憶を探ってみても見覚えがない。畳敷きの部屋なんてそれこそ修学旅行で泊まった旅館くらいしか記憶にないんだが、小、中、高どの修学旅行の部屋もここまで広くはなかった。つーか高校に至っては普通にホテルみたいなとこだったから和室なんかなかったし。


 それに長く続く廊下や、その向こう側に見える庭の風景はなんというかこう、手のかかっている感じはするのだが客に見せるための庭に漂う厳格なまでに人工的な雰囲気が感じられない。


 下品にならないように配置された木やら石やら――あいにくその方面に造詣はないので何と呼ばれるものかまるで見当がつかない――には確実に人の手が入っていることは感じさせながらも、個人の趣味というか、素朴さが見え隠れする。


 つまりここは旅館ではなく、誰か個人が所有する建物、家? いや確かに世の中には金持ちってのがいてどでかい日本家屋に住んでたりするらしいけど、えーこれ本当に家だったらどうしよう。この部屋だけで俺が住んでるアパートの部屋丸ごと収まっちゃうんですけど。


 庭を囲う塀の向こうには電柱が立っているのが見えるし、おまけにカラスが数羽止まり木代わりに利用しているのはすっかり見慣れた姿だ。田舎の観光地、というわけではないらしい。


「おお、目が覚めたかの」


 しゃがれ声にびくっと肩が跳ねる。声のした方を振り返ると、廊下の向こうからやってきたらしい老爺が立っていた。

 和服の着こなしが実に自然で、明らかにそれを普段着にしていることがわかる。頭髪は欠片も残っておらず頭は朝の日差しを元気に照り返している。反対に白い眉毛がやたらふっさふさで目元が窺えないほどだ。綺麗に整えられた逆三角形の髭と相まってその印象はなんというか、あれだ、仙人?


「え、と……」


「まぁ待っとれ、いま若いのを呼んでくるからの」


 言うと老人はふぉふぉふぉとか笑い出しそうな、なぜだか知らないが愉快そうな様子でもそもそと去っていく。うーん、旦那様をお呼びします、とかじゃなかったしあの老人がここの家主なんだろうか? 仙人みたいと思うくらいには落ち着きというか、貫禄があったしな。


 若いの、というのが誰なのかわからないが、その人なら俺がこんなところで寝ていた事情について説明してくれるということなんだろうか。


 一体何者なんだ若いの。誰だというんだ若いの。

 ……あいつかなぁ。


 俺の交友関係の狭さを考えると候補なんて片手の指でも余るくらいしかいない。ていうか普段の交友関係なら奏先輩以外に知り合いの顔が思い浮かばない。しかしその先輩は口調からわかるように関西の出身だ。なんとなく生まれが良さそうな発言をぽろっとこぼすことはあるが、さすがに関東に屋敷を構えてはいないと思う。前に先輩の家に遊びに――というか罰ゲームで部屋の片付けを手伝いに――行ったときは、俺のところより少し広い程度のアパートだったし。

 そこに昨夜の出来事を加味すれば候補は一人しかいないと言っていい。


 バルクガール。


 ここがバルクガールの自宅なのか、それともヤツのヒーロー活動の拠点となっていてさっきの爺さんが協力者なのか。いずれにしてもそんな場所で一晩スヤスヤ眠っていたというのはあまり歓迎できる事態ではないな。

 しかしその辺りの事情も含めて、バルクガールからは話を聞いておかないと気が済まない。


「あの」


 さっき爺さんが立ち去ったのと同じ方向から、今度は女の子の声で呼ばれた。来たか、とこちらも覚悟を決めて顔を上げる。


「おはようございます。よく眠れましたか?」


「…………え、誰?」


 思ったことがそのまま口をついて出てしまった。

 そこに立っていたのはブロンド髪の似合う蒼い瞳の巨人では、三メートルの身長と豪腕巨乳の巨人では、なかった。


 それどころか考え得る限りその対極といってもいい。古臭いセーラー服を着て、艶のある長い黒髪を腰の辺りまで伸ばした少女。年の頃は多分中学生そこそこで、形のいい目鼻は美人らしいのに、美しさよりどこかあどけなさが先行する印象を受ける。


「え、と、あの、わたし……」


 俺の無作法な質問に怒るでもなく、少女は少し落ち着かなげに髪の毛を一房いじりながら俯く。伏せられた目元を見ても睫毛長ぇなってことくらいしかわからない。

 こんな少女と知り合った覚えはない。というか大学ですら奏先輩しか友人がいない俺が女子中学生(推定)とお知り合いとかちょっとした事案になるレベル。下手したら通報ものだ。


「あ、の、だから、その、どう言ったらいいか、わからない、ですけど」


 何度も口ごもりながら、それでもどうにか少女がぽつぽつと話を進め始める。


「わたしが、その、わたしは、うぅ」


 必死に何かを言おうとしているのだが決定的な言葉を口にしようとすると詰まってしまう、という様子で何度も口をぱくぱくしては俯いてを繰り返す。


 ええと、なんだこれ、一応年上の俺の方から何か言うべきなのか? でも何を? だって俺この娘のこと知らないし、どこの誰かがわからなきゃ話題も選びようがない。俺が友達百人で富士山に登っておにぎり食べちゃうような性格なら初対面の年下の女の子向けの話題も一つ二つストックしているのかもしれんが、俺にそんなもんはない。


「あー……ええと、ここ、君ん家?」


 もっと他に聞くことないのか、と自分に突っ込みたくなる。けど「誰?」という質問になかなか答えてくれないしなぁ。


「あ、はい、一応、わたしも住んでます。でも、正確にはおじいちゃんの家で、ええと、高校生になるまでは、一人暮らしはダメだと言われていまして。あ、でも別にこの家が嫌いとかそういうことじゃなくて!」


 小学生には見えないし、どうやら本当に中学生らしい。おじいちゃんの家、ってことはやっぱりさっきの老爺が家主か。両親は、という質問は踏み込み過ぎだろうか。


「忘れてるだけだったら悪いんだけど、どっかで会ったことあったっけ?」


 記憶喪失とかじゃないよな。そうでもなきゃ美少女中学生のことをそうそう記憶の彼方に追いやったりはできないと思うんだけど。

 などという俺の考えとは裏腹に、少女は遠慮がちに、しかしハッキリとわかるように頷いてみせた。え、うそ、マジで知り合い? え、誰? いやほんと誰?


 俺の顔面筋が明らかに強ばったのを見て、少女が「あ、でも」と慌てて口を開く。


「わからなくても仕方ない、です」


「それは、どういう……」


 聞き返しながらも、俺はここまで目を逸らしてきた一つの可能性が確信を伴って頭の中にくっきりと浮き上がってくるのを感じていた。

 俺はこの少女と会ったことがあるらしい。しかし俺にはこの少女の記憶はなく、彼女自身の口からも俺が彼女を見てわからないのも仕方ないと言われた。つまり、同一人物でありながら別の姿の彼女と顔を合わせたということだ。


 コスプレとか変装とか、極端な話メイクとか、人間をまるで別人のように見せる手段というのは意外に多い。特に会った回数が少なければ服装の印象を変えるだけでも別人と言われれば納得してしまう場合だってある。


 だが明らかに、それらの場合と、俺とこの少女の場合とは違うだろう。証拠はないが確信があった。趣味や娯楽ではなく実利のために素顔を隠す人種だっているのだ。それは潜伏中の悪党か、素顔を知られたくない正義の味方か。


 何のことはない、やはり当初の予想が当たっていたというだけのことだ。


「え、と、この姿でお会いするのは、初めてです、ね?」


「じゃあ、やっぱり君が」


 俺が問い返すと、少女は一度深呼吸してようやくまっすぐに俺の顔を見た。


「はい、バルクガール、です」

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