2-4

 人工的な蛍光色っぽい、赤というかピンクにも見えるその瞳がぱちくりと俺の目を覗き込む。目玉がデカい割に瞳は小さくてどこかとぼけた様子に見える。歯ではなく牙と呼ぶのが相応しいような鋭い骨が幾本もせり出した口は耳元まで裂けていて、ぱっくりと開いたその間から生臭い獣の息が漂ってくる。


 瓦礫の山から腕を引っこ抜き自由になったコンプレスが、まるで俺の顔を覗き込むように姿勢を低くしていた。


「ぁ、が、ぇ?」


 ごほぁぁ、ごほぁぁ、と凶悪な呼吸音が響く。理由は不明だがパンチもキックも飛んでこない。しかしそれがいつまで続くかまったく予想がつかない。

 小さな瞳に射すくめられ、動いた瞬間に殴り飛ばされるのではないかという恐怖が喉元までせり上がってくる。さっきまで感じていなかった恐怖の余剰分までまとめて味わわされている気分だ。


「ナン、ダレ、ナニ、シテ、ウウ?」


 コンプレスの裂けたように広い口がカパカパと開閉して言葉らしきものを発する。テレビやネットでもコンプレスの動画は見たことがあったが、この異形の怪物が咆哮以外の声を発するのは初めて聞いた。


 このたどたどしい言葉を「喋れる」のだと形容していいものかわからないが、意味はともかく、単なる暴威とは違う明確な意志は感じられた。

 だからといって、俺の置かれている危機的状況が解決するわけではないが。


「ウウウ? ナニ、ドウ」


 しきりに首を捻っている。もしかしたら向こうは向こうで気付いたら近くにいた俺に戸惑っているのかもしれない。だがそうだとすれば、こいつが冷静になった途端俺がぶっとばされても何ら不思議ではない。

 目だけを動かして例の球体の位置を確かめる。距離はそこそこあるが、俺は山の上にいて目標は山の下。自分の足で走らなくても転がり落ちれば辿り着けるはずだ。


 やれるのか? いやそもそも、やるしかないのか? 他の方法はないのか?

 ……無いよな。あったとしても思いつかない。


「っ、だぁぁあああぁぁあ――――!」


 声を張り上げたのは恐怖に押しつぶされないためで、気合いとか威嚇とか牽制とか、そんな前向きさや機略とは無縁だったが、結果として突然の大声にびくりとコンプレスが驚いて一歩後ずさるという幸運を呼んだ。


 俺は瓦礫の山を転げ落ち、崩れた壁から突き出した構造体的な鉄棒が二回ほど脇腹にめり込んだが、どうにか目的のブツに手が届く位置に放り出された。

 辿り着いたというよりは放り出されたという表現の方が適切だろう。二度の鉄棒ヒットによって痛めつけられた俺の腹にはもうほとんど力が入らず、自分の意思ではもはや寝返りすら打てない。


 くっそ、痛ぇ。痛い。マジ痛い。死ぬ。これは死ぬ。内蔵吹っ飛んだ。


 だがそれでも、腕は動く。

 その腕を伸ばせば届く。

 問題なんて何もない。


 ジンジンと熱を持った腹回りの筋肉が俺の意思と関係なくびくびくと痙攣する。痛みで涙が滲んで視界がぐにゃりと歪む。だが見える。目の前に深緑色の楕円形が見える。

 ぷるぷると情けなく震える腕を、それでも伸ばす。


 巨大な影が、月明かりを遮って俺に覆い被さる。もはや背後を確認する余裕も無いが、コンプレスが身を起こして俺に向き直ったんだろう。ヤツが飛び降りて拳を振り下ろせば、俺はぺしゃんこになる。


 考えたくもない未来を想起してしまいつつ、それでもやっぱり腕を伸ばす。助かりたいなんて考えるだけの余裕はなかった。ただただ痛みが全身を支配していて、こんな痛い思いをしたのだから無駄死にしてたまるか、という斜め下の意地だけが俺を突き動かす。


 指先に、ひんやりと冷たい金属の感触があった。


 わずかに触れたその金属球体を手の内に引っ張り込む。ちょうど手のひらの真ん中あたりに触れる、金属よりは冷たくない、プラスチックの感触がある位置に指を這わせる。

 人差し指が、プラスチックの突起に辿り着いた。


「――====ッ!」


 背後で吠え声が轟く。俺は残った全ての力を指先に集中し、プラスチック製のそのスイッチをカチリ鳴らした。


「==――==――==――、==ッ!」


 どぐわっ、と弾力性と硬質さを併せ持つ衝突音がして、咆哮が途絶える。

 一瞬の空白。長く続いていた咆哮も、瓦礫の山を揺らす地響きも、獣の呼気も、全てが止んだ夜の静寂が降りてくる。

 そして。


 ゴッシャァァァ!


 俺の頭上を越えて吹っ飛んだコンプレスの巨体が、派手な音とともに、奇跡的にこれまで無傷だった隣家の塀を粉砕した。


「すみません、助かりました。ご無事で何よりです」


「……これが、無事に見える、のかよ。いつっ、腹とか腕とか、ボロボロだっつー、の」


 瓦礫山の頂に拳を振り抜いた姿勢で立っている女は、小憎らしい美しい顔で、申し訳無さそうに眉尻を下げながら遠慮がちに微笑した。


「==ッ、==! ――――==――――――ッ!」


 怒りの咆哮とともに、コンプレスが崩れた塀の中から立ち上がる。背中の刺に塀の残骸がいくつか刺さっていて、それらの中には赤く濡れているものもある。……こんな怪物でも血は流れていて、赤いんだな。

 怪我は負わせたようだがそれは致命傷どころか行動を封じるにも不十分で、怪物の本気の怒りを呼び起こしただけに思われた。


 地面に這いつくばった俺と、山の頂上で拳を固めたバルクガールが揃って緊張に表情を強ばらせる。絶体絶命の危機は脱した。脱力した俺の手の平の下にある球体のスイッチを切ったことでバルクガールは自由になり、コンプレスは軽傷を負った。


 だがそれは場の流れがほんのわずかにこちらへ傾いただけのこと。バルクガールとコンプレスの力はほとんど同レベル。それは最初の組み合いの様子からわかる。状況は不利な要素を排して振り出しに戻ったに過ぎない。

 先に動くのはバルクガールか、コンプレスか。二人の巨人と、臥せったままの凡人、三人の間の空気が揺れる。


 しかし、動いたのは俺たち三人の誰でもなかった。


「コンプレス!」


 不意打ち気味に、凛とした女の声が響く。バルクガールのものではない、野次馬は全員とっくに逃げた。じゃあ誰だ?

 重い頭を持ち上げて、声のした方へ顔を向ける。


 コンプレスが塀に突っ込んだ家は、塀こそ粉々に吹っ飛んだが家自体は無傷だ。その屋根の上に、人影があった。


「マ、マァ」


 コンプレスの口がごぱぁと開き、また言葉らしきものを発する。マ、マァ。ままぁ。ママ?

 変な位置で区切った発音では確証が持てないが、コンプレスの言葉は「ママ」と聞こえた。


「そこまでだ、帰るよ」


「ウ」


 涙で滲んだ視界では、夜闇の中に立つ人影の表情は窺い知れない。ただ、長いコートのようなものを纏ったその人物の言葉にコンプレスが明らかに頷きだとわかる形で首を縦に振ったことはわかった。


「よっ、と」


 屋根の上の人影が器用にコンプレス肩に飛び降りる。コンプレスはそれを受け止めると、その人物を両腕で抱えるようにして持ち、跳躍した。

 ズン、と隣家の屋根に飛び乗り、ミシミシと足下の屋根瓦を歪ませながら再度跳躍する。二度目の着地はもう俺の位置からは見えなかった。

 跳躍と着地の音は徐々に遠ざかっていき、やがて夜の住宅街から物音が消えた。


 助かっ、た――?


「っ、げほっ、えっぼ、げぼっ」


 緊張が解けて身を起こす。酷使した上にひどく打ち付けた全身の筋肉が軋みを上げ、何かの発作のように喉が震えて噎せ返る。咳き込む俺の背中を、大きな手が優しくさすった。


「だ、大丈夫ですか?」


「げふっ、っえぐ、だから、大丈夫じゃ、ねぇっての。くっそ、痛ぇ」


「あの……ごめんなさい。助けに来たはずなのに、また助けられてしまいました」


「本当だよ、ったく……だから、ヒーローなんて、嫌いなん、だ」


 悪態をついてから、あれ、ヒーロー嫌いはこいつには隠そうとしてたんじゃなかったっけ、などと手遅れながら思う。

 身体が重い。さっきまで動いていた腕もほとんど動かせない。気を抜くとまた地面にぶっ倒れそうだ。ついでに瞼も重い。眠気よりは疲労に近いが、目を閉じて意識を手放したい欲求にそれほどの差はない。


 バウバウッ。また犬の声が聞こえる。今夜の俺は番犬よりもよっぽどご近所の平和に貢献しただろう。だというのに吠えていただけの連中が元気で俺だけボロボロなんて割に合わない。

 ああもうなんか助かったしいいかな、寝ても。


「……大丈夫ですよ、もう休んで下さい」


 背後からそっと抱きすくめられる。大きな手は温かくて、最悪なことにひどく安心した。

 ……ほんと、最悪な夜だ。


 重い瞼への抵抗をやめると、意識はすぐに闇に溶けていった。

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