第二部
おとぎ話
昔、昔、あるところにお姫様がいました。
毎日、毎日お城の中で過ごすばかり、退屈で、退屈で仕方がありませんでした。
ふと思ったのです。
城から出たいと。
「ねえママ、それからお姫様はどうしたの?」
「それからね……」
姫と従者
桜色の花が満開を迎えて、少したち新緑が萌えだした頃。
天氣は快晴である。
異国から来た男の髪は黒く、長い毛を後ろでくくっている。
この国では見慣れない服装をして、腰に下げていた武器も一風変わっていた。
外国の人間だから周りの目を集めていたわけでなく、どちらかというと、美しい人間だったから視線を集めていたというのが強かったようだ。
人の目など氣にせず、ある場所を目指していた。
一人の若い男が五人ほどに囲まれているのが視界に入った。
可哀想に。
危険そうなのには近寄るべきじゃないな。
君子危うきに近寄らず。
知らない人だし、まあいいだろう。
通り過ぎようとして、男と目が合った。
いかにも助けてくださいと言わんばかりの顔をしている。
視線を外して、知らん顔をする。
「ちょっとそこのお方」
無視を決めこむ。
「こんなことになるなら姫様のお使いなんて頼まれるんじゃなかった」
氣落ちした声で男は嘆いた。
くるりと体を転じて、囲まれている男の元へ行く。
「お前さん、宮殿の人かい、よければ取り次いで欲しいんだけど、どうかな」
なぜ男の態度が急変したのか分からぬまま、助けてもらえるならいくらでもと男は答える。
黒髪の男はにんまり笑顔をつくってから、右に短刀を、左に刀の柄手前の鞘の部分をもった。
「逃げるなら今のうちだけどどうする」
五人の男たちは嘲(あざけ)るような笑い声をあげる。
「五対一だぞ、どう見てもそっちが不利だろうが」
一人がそう言うやいなや飛びかかってきた。
降り下ろされた一撃を、短刀と鞘に収まった刀で受ける。
そのまま受け流して、体制の崩れたところを刀の柄で喉をドンッとついてやった。
トドのようなうなり声を上げ男はその場に崩れ落ちる。
一人の男に続いて、二人の男が攻撃を加えようとしていた矢先のトドの叫びだ。
動きが止まっていた。
その一瞬を見逃すはずもなく、一人にはみぞおちに一人にはこめかみに強烈なのをおみまいして、数秒の内に二対一にまでなっていた。
「さあ、どうする?逃げた方がけんめいだと思うけど」
二人の男は顔を見合わせてからうなずき合い、倒れている男たちを引きずりながら去って行く。
その光景を見ていた宮殿の人間は思わず拍手をしていた。
「すごい、すごい、とてもお強いんですね。姫様の護衛に欲しいくらいだ」
「そうそう、それだよ、給金がすこぶる良いって聞いてさ、それに志願しようと思ってきたんだ。案内しておくれよ」
町をすぎ宮殿への最初の門を抜けてからの距離に度(ど)肝(ぎも)を抜かれた。一時間は歩いたであろうか。
本来は馬車で行くんですよと言われたが、地理を把握しておきたかったので歩きたいと申し出ていた。こんなに歩くとは思っていなかったのだ。
延々と石で舗装された道を歩いている。
廻りには均整のとれた植物が立っている。よく手入れをされているようだ。
立派な墓があったので男は誰の墓なんだと聞いた。豚の墓だと言われた。
女王陛下は豚が好きで飼っているのだそうだ。
黄金の門をぬけると、庭園が目に入った。
素晴らしく美しかった。
色とりどりの花々。よく整えられた木々。
陽氣で楽しそうな花たちが歓迎してくれているように感じた。
明るい花々で描いた絵を見ているみたいだった。
ジューンベリー、空(うつ)木(ぎ)、金雀児(えにしだ)、大(おお)手(で)毬(まり)、招霊の木(おがたまのき)、小(こ)手(で)毬(まり)、カルミア、鈴蘭の木、ガマズミ、常磐万作(トキワマンサク)、躑躅(つつじ)、椿、栃(とち)の木(き)、花蘇芳(ハナズオウ)、花(はな)海(かい)棠(どう)、ハンカチのキ、花(はな)水(みず)木(き)、金宝樹(ブラシノキ)、木蓮(モクレンモドキ)、木(もく)蘭(れん)、山法師(やまぼうし)、牡(ぼ)丹(たん)、山(やま)吹(ぶき)、ライラック、鶯(うぐいす)神(かぐ)楽(ら)、大丁字(オオチヨウジ)ガマズミ、白(しろ)山(やま)吹(ぶき)、コルクウィッチア、テマリカンボク、白雲木(はくうんぼく)、虫(むし)刈(かり)、利休梅(りきゆうばい)、青(あお)木(き)、犬(いぬ)黄(つ)楊(げ)、月桂樹(オリーブ)、樟(くすのき)、榊(さかき)、椎(しい)、島梣(シマトネリコ)、車(しや)輪(りん)梅(ばい)、柊(ひいらぎ)、冬青(そよご)、梛筏(ナギイカダ)、黐(もち)の木(き)、八(やつ)手(で)、白(しら)樫(かし)、多羅葉(タラヨウ)、扉(トベラ)、藤(ふじ)、シバザクラ、プリムラ、万(まん)年(ねん)草(ぐさ)、アヤメ、撫(なでし)子(こ)、カレックス、ケントウレア、シラー、クロッカス、アリウム、アルストロメリア、ムスカリ、アマリリス、スノーフレーク、チオノドクサ、バイモ、百合(ゆり)、姫(ひめ)金(きん)魚(ぎよ)草(そう)、パコバ、アグロス、テンマ、ディモルホロカ、ネモフィラ、クリムソンクローバー、勿(わす)忘(れな)草(ぐさ)、フロックス・ドラモンディー、リムナンテス、シレネ・ペンデュラ、キンレンカ、ネメシア、リビングストンデージー、ミムラス、カルセオラリア・ルゴサ、薔薇(ロサ・カニナ、十六夜(いざよい)バラ、ロサ・フェティダ、ロサ・ギガンティア、ロサ・キネンシス・アルバ、コンテス・デュ・カイヤ、サレット、コント・ドゥ・シャンボール、ジェネラル・クレベール、ジュノー、オメール、ソフィー・ドゥ・バヴィエール、ティプシー・インペリアルコンキューバイン、プチィ・オルレアネーズ、コーネリア、バリエガータ・ディ・ボローニャ、フランシス・デュブリュイ、エメ・ヴィベール、フラウ・カール・ドルシュキー、夢(ゆめ)乙(おと)女(め)、ロイヤル・サンセット、つるゆきさん、シュネーバルツァー、ザ・ダーク・レディー、シャルロット、こいさん、キャリオカ、ティファニー、ソニア、花(はな)嫁(よめ)、エナ・ハークネス、火祭り、レッドライオン、ブルー・シャトー、バッカラ、バレンシア、ローラ、ゴールデン・ドーン、そどおり姫、秋月(しゆうげつ)、スノーキャロル、ムーンストーン、桜霞(さくらがすみ)、チンチン、ファビュラス!、サマー・スノー、ピッコロ、紅(べに)姫(ひめ)、コーヒー・オベーション、ロサ・カニナ、ブラック・ティ
背の高い迷路のような生け垣まである。
噴水には人の形をした彫像が口から水を吐(と)瀉(しや)物(ぶつ)のように吐き出していた。噴水の後ろには滝がそびえている。
異国とは自分には分からないものがたくさんあるなと改めて思った男だった。
その建物は、左右対称、右を向いても左を向いても端が見えないくらい続いていて、五階なのか六階なのか七階なのか見当もつかず、入り口の高さなど軽く三メーターはあろう、でかい時計がてっぺんにあった。
廻りを取り囲むようにして広がる澄んだ湖には白い宮殿が映り込んでいて、まるで水の中にもう一つの宮殿が建っているかのようだった。
金糸織地、サテン地、ベルベット、上質なキャムレットの上着、亜麻のダブレットやベチコート、廊下には深紅のカーペット、無数の高価なタペストリー、絹のベットの天蓋、絹のベッドカバーにマットレス、羽毛布団、くそ長いテーブル、それに合わせた一枚の真っ白いテーブルクロス、銀の燭台、銀の皿、エナメルで絵付けをしたもの、螺旋階段、巨大なシャンデリア、このようなものがあふれている。
大きな厨房の近くには果樹園があり、養魚池もあった。
豪奢な宮殿の中の姫の一室は青い家具でそろえられていた。
とても素敵な部屋だ。
「あー退屈」
お姫様は今年で十七歳、生まれてからずっと宮殿暮らしで飽き飽きしていた。
刺激が欲しかったのだ。
「市民の人たちよりも、いい生活をしているのは分かってる、でもそれが楽しいとか、幸せだとかとは別物よ」
漠然と世界を見て回りたいと考えた。
「ぶー、ぶー」
「あら、カトリーヌ癒やしはあなただけよ」
豚が足下にすり寄る。
戸をノックする音が聞こえる。
「姫様、勉強の時間ですよ」
カトリーヌ行っておやりと小声で言って豚を扉の方にやる。
「ぶーぶー」
「姫様いないのですか」
「ブーブー」
もう最近ずっとこれだと、不満をこぼしながら教師は去って行った。
カトリーヌが戻ってくる。
よくやったわねと言ってリンゴを与えた。
「それにしてもセバスチャンは遅いわね、なにやってるんだか」
自分で自由に外に出ることができたらと思う毎日であった。
「姫様、セバスチャンです開けてください」
やっと戻ってきたわ。
鍵を開ける。
セバスチャンから今日は散々な目に遭ったが異国の方に助けられたこと、その方が姫様の護衛役に志願したいと言うので連れてきました。今から試験だから様子を見に行きませんかと言われた。
異国の人か。何か面白い話が聞けそう。
退屈だったので行くことにした。
「今から十人抜きをしてもらう、全員から一本取れたら合格だ」
分かったと答えて木剣を握る。
試験をしている場所に向かう途中騎士団長にあった。
「ごきげんよう団長」
「これは、これは、姫様どちらへ行かれるのですか」
「今から、あたしの新しい護衛になる人が試験をやるらしいから見に行くのよ」
「まだ合格すると決まったわけでもないでしょうに」
甘い笑顔を騎士団長は姫に向けた。
「私も氣になるのでお供いたしましょう」
「八人目。あと二人だな」
トントン拍子に進んだな。なんだこんなものかと思っていると、見知った顔が一人と、もう二人が近づいてきた。
(あの女もしかして……)
「これは姫様ごきげんうるわしゅう」
憲兵長が話しかける。
「あの方?」
綺麗な黒髪と整った顔立ち、異国の服装をまとった若者がいる。
目を見張った。
この国の人間とは見た目が全然違う。
それになによりも、
美しかった。
「どうだ使えそうか」
「は、団長、もう八人抜きを終えております。この分だと合格間違いなしですね。かなり腕は立つようです」
「ほう、そうか、九人目はお前が相手をしてみろ」
「私ですか、正直勝てる氣がしないのですが……」
「馬鹿者が!!それでも憲兵長か。いいからいってこい」
何やら分からないが一番強そうだった奴が相手をしてくれるらしい。
「おや、あんたが相手をしてくれるのか」
ああと、答えが返ってきて、お互い構える。
双方動かない。
相手を白眼視して氣配をみる。
来ないならこちらから行くか。
「は!」
氣合いをかける。
一息に間合いを詰める。
打ち込みすれすれをかわされる。
こちらが打ち込んだ隙に、強烈な一振りが空を切って向かってきた。
木刀の柄を握っていた右手を上へ滑らせ、木刀の中程よりも上部に手を沿わせて切っ先を相手の首元にぴとりをつけた。
双方とまる。
「おみごと」
先ほど来ていた団長と呼ばれていた人間が近づいてくる。
「私が相手になろう、こいつでは物足りなかろう。さて、君の金玉はどれくらいでかいかな」
ボロックダガーは直訳すると「金玉ダガー」と呼ばれる、非常に特徴的な柄を持ったダガーです。フランス語でも英語同様にDagueacuilettesと呼ばれています。「金玉」など恥ずかしくてとても呼べないヴィクトリア朝期の研究者によって命名された「キドニー・ダガー」と言う名称も現在一般的に使われています。このダガーは1300年頃現れ、17世紀末まで幅広い人氣を博していました。金玉や男性器を象ったダガーというのは異様に見えるかもしれませんが、例えばスペイン語では「勇氣がある」ということを「金玉がでかい」と表現するので似たような意味合いがある武器だと思われます。またボロック・ダガーは両足の間にぶら下げることが多く見られますが、中世風のシャレなのでしょう。
このダガーは、主に日常生活での護身用として使われていましたが、騎士たちが戦場で使うこともありました。またスコットランドの伝統武器として知られるダークも、このボロック・ダガーから発展したものです。
中世ヨーロッパの武術 長田龍太
新紀元社
騎士団長は下段に、切っ先を後ろに構える。
相対して下段に、似たように異国の男は構えた。
にらみ合い、動く氣配がない。
空氣が張り詰める。
見ている姫も息をのんでいた。
互いに同時に動いた。
下段、足に向かって剣が衝突。
団長の突きが飛び、男はいなして斬りかかった。
と思いきや団長に剣を弾かれていた。
お互い下がってから、間髪入れずに、二合三合とかわす。
と、
「合格、ここでやめようか」
二人は構えを解いて、礼をかわす。
「じゃあそうだな、まず姫様に紹介しておこうか、これから仕える方だ」
「姫様、腕に関しては折り紙付きです」
「ええ」
黒髪の男を見つめたまま姫が近づく。
「あなた氣に入ったわ」
「ありがたき幸せでございます」
姫は言った。
汝、我が家臣となるを心から希望するや。
突然だったため男は一瞬、姫を凝視していた。
状況を飲み込むと、膝を折って片手を胸に当てた。
「我、かく望む」
「我、今よりのち忠実を尽くし、他の何人でもなく、ひたすら姫様のみに対する忠誠の誓いをするものなり」
「今日から私の従者とします」
舞踏の夜
深更。
窓がゆっくりと、音を立てずに開いた。
静かに人影がぬっと部屋の中に侵入する。
無音でベッドのそばに近づいていく。
侵入者の手が、ベッドで寝ている者に伸びその時、
「あなたはなにをしている」
と、侵入者の首に刃を当てながら、耳元で長髪の男がささやいた。
「姫の寝顔を見にな。どうだ、交代の者をやるから私の部屋に来てくれないか」
「いえ、やめておきます」
「そんなこと言うものじゃないぞ」
姫の従者はその時、股の間にあるものをぎゅっと握られていた。
「くっ」
だんだんと力が増してくる。
これは承諾しないと握りつぶされるぞと従者は思った。
「わかりました」
「よし」
お互い離れると、騎士団長はさっと窓から飛び降りた。
ここは最上階のはずだがといぶかりながら、そっと開いていた窓を閉める従者であった。
騎士団長の部屋の前に立った。
何やら声が聞こえてくるが、氣にせず戸を叩いた。
待ってくれと返事が来た。
この前来た時は、ベッドの上で四つん這いになって尻をこちらに向けながら、抜いてくれ、抜いてくれと秘部ににんじんを差し込んだ人間が腰を揺らしていた光景を見てすぐに逃げだしたのを思い出す。
「入っていいぞ」
戸を開けると、蝋燭のあたたかい光があふれてきた。
人間が裸でワインを飲んでいた。
「私は裸族なんだ」
こちらは質問などしていない。
「今日姫の部屋に入って護衛をさせろと、姫に言ったのはあなただったか」
くくくと低く笑う。
「騎士団長の責任も重大でね、先日君も見たようにああやって息抜きをしないとやってられないんだよ。遊ぶ時はきっちり遊ぶ、そうしないと心がだめになって、本来しなきゃいけないことをしなきゃいけない時に踏ん張れないからね」
「そして私は変態なんだ」
「いやむしろ、私以外の人間が変態なのかもしれない、私以外はみんな異常者なんだ」
一人でべらべらと何をしゃべっているんだ。
「君のものは意外と小さいんだな、どうだろうか今夜一緒に……」
部屋を出た。
廊下に漏れていたぬくもりは閉め出されて、暗闇が世界を満たした。
「ねえ従者、昨夜騎士団長の部屋へ何しに行ったの」
ぎくりとして姫を見た。
「いえ、行っていませんが」
「嘘、昨日起きてたんだからね私、部屋から出て行ったのも知ってるんだから」
「仕事について、ご教授を頂いておりました」
姫はふーんと言いながら従者とダンスの練習をしていた。
顔に泥パックをやりながら。
今日舞踏会があるのである。
「あなただいぶ踊れるようになったわね」
「そりゃあ、毎日付き合わされてたら、ある程度はできるようになりますよ」
「今日の舞踏会に出ても問題なさそうね」
「いやいや、警護の役目もありますし」
「文句を言わない。大丈夫よ、みてくれは問題ないし、言わなきゃ外国の貴族にでも思われるでしょ。警護も私の一番近くにいれるし。それに私、知らない男の人と話すの嫌なのよね。あなたがいてくれたら、そんなに男性も近寄ってこないと思うしいいじゃないの」
「それにしては、練習とか、美容とか結構やってますね」
「準備に余念がないだけよ。備えあれば憂いなし、ある程度はちゃんとしておかなきゃ。姫って面子もあるし」
「それにしても、今夜は芸人たちが来るのよそっちの方が楽しみでしかたがないわ」
姫は花のような笑顔を向けてきた。
「ごきげんよう姫様」
「ごきげんよう」
「これはこれは、本日はじつにお美しいですね、青のドレスがあなたの美しさをより引き立てているようだ」
「ありがとうございますバロン男爵」
「よければ今度、食事をお誘いしたいのですが」
「是非お誘いくださいね」
こうはいっているが絶対に行く氣はない。
バロン男爵が去った後、一人の仮面をかぶった人物がやってきた。
お辞儀をすると、何もなかった手にバラが握られていた。
是非、今夜一曲踊っていただきたいと言われ、喜んでとお受けした。
「見て従者、お花もらっちゃった。素敵な人だったわね」
そうですねと答える従者は普段の格好と違う装いで、この場にふさわしい服装をしている。いつもより凜々しく見えた。
ダンスが始まってみると、姫は言ってたほど嫌そうではなく、むしろ楽しんでいるように見えた。
ダンスの参加者の入場から始まる。
女性たちは、美しさを競うかのように艶やかなドレスをまとい、ホールは花畑のようだった。
そういえばドレスを選ぶ時も、けっこう楽しんでいるようだったのを思い出す。
最初の入場は従者も参加することになり、姫とペアになっていた。
ペアごとに、一列になる。
三百組以上はいたのだろうか。
一通りのスッテップが終わると、男女の組み合わせが変わっていく。
時には男女四人でや、男だけ、女だけで手を合わせてくるくる回ったりしていた。
音楽がだんだんと静かになっていく、終わりの合図だ。
終わってみると、もう少し踊っていたかったなという氣持ちになってくる。
この後は休息をはさんでから、各々自由に踊っていいことになっている。
ダンスの後は姫様を見ている男の視線がかなり増えていることを感じ取った。
ダンスが終わってみると、従者は女性たちの噂の的になっていた。
従者のことを見ている人が明らかに増えている。
まずいことをしたかなと思い、大丈夫?と聞いてみたら、何のことですかと言われた。
氣にしなくていいようだった。
いい匂いがするなと思ったら、バロン男爵が近づいてきていた。
爽やかで品のある匂いだ。
跪(ひざまず)いて手を差し伸べる。
「一曲お願いします」
バロン男爵にリードされている姫様は俺と踊っている時よりも、数倍上手に踊れているように見えた。
相手が違うとここまで違うのかと痛感する。
踊っている二人を見ているとお似合いの二人なのかもしれないと思えてくる。
周りの視線も、うっとりと二人のダンスに魅せられていた。
バロン男爵は花を愛(め)でる庭師のようだった。
一曲終わって休憩していると、姫は違った男性たちに誘われていたがさすがに疲れたようなので断っていた。
すると一人の女性が一緒に踊っていただけませんかと俺を誘ってきた。
断った。
「なんで断ったのよ」
「姫の警護があるので、目を離すのはちょっと」
「そっ」
と甘いカクテルに口をつけていた。
花の香りがする人が近づいてきた。
「一曲お願いします」
胸に手を当て、お辞儀をする。
仮面の人だ。
「いつ来るのかと待ていましたわ」
「お手を」
フロア中央に向かって手を引かれる。
曲はワルツから、タンゴへ移り変わっていた。
優雅な曲調から一変。
ピアノから始まり、バイオリン、アコーディオンの調和。
「私、タンゴはあまり……」
「大丈夫、私に合わせるだけでいい」
そっと耳元でささやかれる。
仮面の人のリードに導かれて二人は溶けていく。
生き生きと、情熱的に。
楽しそうだった。
顔が輝いて見えた。
誰もが二人に視線を注いでいた。
いつの間にか手拍子も始まっている。
高く上げられた足。
持ち上げられる女。
こんなにも女性を魅力的に見せることができるのか。
何よりも、仮面をかぶった人物が魅力的に見える。
曲も終盤にかかり激しさを増し、二人は炎のごとく燃え上がる。
前から美人だと思っていたけれど、今夜初めて綺麗だと思った。
あんなに体の底からエネルギーを出している姫様を見たことがなかった。
最後は、女が完全に体重を預けて、倒れるかのように背をしならせた。
仮面ごしに、口づけを青いバラにして曲は終わった。
姫は息を弾ませていた。
一方の仮面の人は息ひとつ乱していない。
「それでは次の準備があるのでこれで」
姫はええと、顔を紅潮させながら答える。
会場を出て、芸人たちの控え準備に使われている外に出向く。
(久しぶりに至高の時間を過ごしたな)
「調子はどうだ」
一人の少年に話しかける。
「大丈夫だよ、ニコラスも機嫌いいし」
少年は、ライオンのお腹を枕にして寝ている。
その毛並みは血の色をしている。
ただならぬ獣の臭いが周囲に満ちている。
ライオンは低くうなり声を出した。
「私には機嫌が良さそうには見えないな」
低く笑う。
「そろそろ出番だ準備をしといてくれ」
「はいはーい」
目の端に見知った顔が見えると思ったら、私より前に姫と踊っていたバロン男爵がいた。
何をしているのであろうか。
「手はずは順調か」
「は!仰せの通りに」
「そうか楽しみだな」
バロン男爵は黒ずくめの男と話していた。
「絶対に姫をものにしてみせる。誰にも渡してなるものか。お前たちの働きに期待しているぞ」
何をしようというのだろうか、どうやって姫の心を捉えるのか興味があるが、何かきな臭いな。
「レンちょっと、あそこにいる白い服の男を見張っといてくれないか、ついでにあの黒ずくめたちの動きも」
「えー、めんどくさー」
「命令だよ」
「はーい、分かりました団長ー」
「ちょっと従者」
「なんですか」
「あなたも、あのくらいリードできるようになってよ」
姫様を、何言ってんだこいつ、無理に決まってるだろと思っている様な、目を細めて嫌そうに見つめた。
「さ、もう少しで芸人たちのみせものが始まりますよ」
「ちょっと、何話すり替えてるのよ。まあいいけど。確かに楽しみね、早く始まらないかしら」
姫は興奮冷めやらぬ様子で日常とは違う空氣を楽しんでいた。
みせもののための会場準備が終わった。
赤いライオンが入場してきた。
その背に少年が手を振って乗っている。
会場がどよめく。
「ライオンよ」
「なんだあの色は」
「怖いわ」
「大丈夫なのか」
「服を着てるな」
「面白いわね」
ライオンはピエロの装いだった。
なんだかかわいらしくも見える。
姫様は目を輝かせてすごいわねとつぶやいていた。
あんなのに襲われたらさすがに殺されるかなと従者は思っていた。
ライオンは、火の輪くぐりをしたり、二足歩行で歩いたり、玉乗りをしたり、少年の頭を口にすっぽり入れたりして、観衆を喜ばせていた。
退場する際、うなり声を上げて去って行った。
人々はあまりの迫力に、凍りついていた。
後に続くは、蛇を口に飲み込む女、空中ブランコ、天井につるされた布にぶら下がる人、大人の足の裏に乗ってバク転をする子供、綱渡り、軟体人間。
ピエロが出てきて、パントマイム、ジャグリングをした後に、なぜか俺を指定して、前に出る様に促す。
姫様のそばを離れるわけには行かないので、断ろうと首を振っていると、姫がいいじゃない、面白そうだしと言って背中を押してきた。
人々の前に出されて、引くに引けず、仕方なく壇上に上がる。
どこからともなく黒い服の男たちが現れて、縄でぐるぐる巻きにされた。
何が始まるのかわくわくしてると、従者の頭にリンゴをのせて、ナイフで射貫くつもりらしい。
ピエロは、ジャグリングをしながらナイフを従者めがけて投げつけた。
ナイフはリンゴにではなく、顔面めがけて飛んでいった。
従者は首を傾けて飛んでくる刃をかわした。
頬をかすって血がツーと流れ落ちる。
私は従者に命中したかと思って叫びを上げた。
当たっていなくて良かった。
と思っていると、急に視界が真っ暗になった。
このピエロは俺を殺そうとしていたのか、一体何が目的なんだと思っていると、いつの間にか黒ずくめの人間が無数にいた。
さっきいた数より明らかに増えていた。
一体何が起きているんだ。
姫様は大丈夫なのかと、視線を向けると、黒ずくめの男が、人間だいの袋を抱えている。
姫様の姿が見えないということはあの中に入っているに違いない。
さらおうとしているのか。
「姫様を守れ!」
と叫んでから誰か縄をほどいてくれと、廻りを見ていると、目の前にピエロが立っていた。
ピエロをにらみすえる。
俺は何をやっているんだ。姫様を守らなければいけないのに、自分が不甲斐なくて、仕方がなかった。
歯をかみしめて、顎の筋肉が盛り上がる。
こんなところで、無抵抗でむざむざと殺されるのか。
いや、どこかに活路があるはずだ。
この状況を脱する方法が必ず。
姫をさらった男の進路を確保しようと黒ずくめの男たちは衛兵と戦っている。
数が多くて衛兵たちは苦戦しているようだ。
観客たちは戦いに巻き込まれない様に遠巻きに見守る人や逃げる人もいた。
袋を担いだ男の姿はもう会場から消えている。
考えるんだ。
ピエロがゆっくりと近づいてくる。
と動きが止まった。
俺の後ろから、仮面の男が来てピエロの前に立ちはだかる。
手に小手をつけて剣を持っている。
あまりの威圧感に、ピエロは後ろに下がる。
助かった。
いつの間にかピエロの周りに、武器を持った黒ずくめの男たちが集まっていた。
十対一か。
全然助かっていない様だ。
あの仮面の男も、多勢に無勢、どうしようもないだろう。
どうすればいい、と考えていると、セバスチャンが来て縄を切ってくれた。
「お待たせしました。武器を持ってきてますよ」
セバスチャンに礼を言って、刀を受け取った時には黒ずくめの男たちは全員のされていて、ピエロは逃げていた。
この仮面の男、相当の腕を持っているぞ。
くるりとこちらを向いて、
「ある時は仮面の男、ある時はサーカス団長」
(ん、なにを言っているんだ?)
「またある時は騎士団長、果たしてその実態は……」
(騎士団長?)
「へんたいだ!」
仮面をすっと取る。
素顔は騎士団長だった。
騎士団長は相手にしないことにして、姫を取り戻しに駆け出した。
どおりで腕が立つはずだ、並の使い手では相手にならないだろう、しかし何をやっているんだあの人は……
謎が謎を呼んでいた。
何を考えているのか全く分からないと思った従者であった。
ちくしょう、いったいどこに行ったんだ。
姫を取り戻さなければ。
俺がしっかりしていれば。
そばから離れなければこんなことには……
宮殿の外に出てどっちに行ったか、全くわからなかった。
くそ、どこに行ったんだ。
こんな広い敷地じゃいくらでも逃げられてしまう。
いったいどっちに。
その時、猛獣のうなる声と姫の悲鳴が聞こえた氣がした。
さっきの赤いライオンか。
行ってみるしかない。
宮殿の生け垣がある広場には、数人の黒ずくめの男たちが血だらけで、呻きながら倒れている。
ライオンの目の前に少年がいて姫がその隣に立っていた。
ライオンはピエロの臓物を喰らっている。
「姫様ご無事ですか!」
「従者!私は大丈夫、この子たちに助けられたから」
姫は従者の胸にしがみついた。
怖かったのであろう、震えている。
「あのピエロね……」
姫を運んでいる男にピエロと数人の黒ずくめの男たちが追いついてきた。
「よくやった。よし急ぐぞ」
突然、猛獣の吠え声が聞こえてきた。
なんだ!
男たちの目の前に、赤いライオンとその背に乗った少年が飛び出してきた。
「いやー、団長に言われた通り、見張ってて良かったあ。こりゃお手柄だね」
よっと言って少年はライオンから降りる。
「このニコラスに食べられないうちに、投降した方が身のためだよー」
ライオンが威嚇する。
「そんな猛獣一匹ごときに、人間が束にかかれば怖くないことを教えてやるよ。行け!お前ら」
男たちが前に出てくる。
少年が行けニコラス!と大きな声で言うと、ライオンが飛びかかり、一人、二人と、喉笛にかみつき、腕を引きちぎる。
黒ずくめの男たちは為すすべなく、苦しみの声を上げて、地面に転がる。
ライオンの顔の周りには、血がべっとりとついていた。
ライオンが戦っている間に、放り投げられていた袋を開けて姫を助けてやる少年。
「ありがとう助かったわ」
「いえいえ、どういたしまして」
姫の声は震えていた。
ピエロはライオンに飛びつかれて、散々引き回されたあげくに服はズタボロにされていた。
「お願いだ助けてくれ、金ならいくらでも出す。し、死にたくない。姫、助けてくれ、私が悪かった。お、お願いします」
ピエロの化粧はとれて、バロン男爵の顔が現れている。
バロン男爵はあまりの恐怖に失禁をしている。
「バロン男爵……なぜこんなことを」
「ち、力が欲しかったんだ、あなたの力が、俺は王になりたいんだ、ただの領主ではない、この国の王に富と名声が、他の国に恐れられる力が」
「私にはそんな力など……」
「あるだろう。血の力が。その力さえあれば……代々受け継がれるその力さえあれば凡人だって王になれるはずなんだ。あなたと私なら、世界を手にいれることもできるはずなんだ」
「なんと傲慢な……」
「そんなものは王ではありません、王がいるから国があるんではない、民がいるから国があるのだと、お父様もお母様も言っています。あなたは力を手にしたところで決して王にはなれませんよ」
「それにこの国は女王が君主です、男のあなたは王になったところで国はうごかせませんよ」
バロン男爵の美しかった顔は見る影もなく今はとても醜い表情をしていた。
「俺は王に……王になるんだああああ!」
バロン男爵が襲いかかってこようとする。
ニコラスがすかさず押さえつけ、首にかみつき、ズタズタに引き裂いた。
バロン男爵は絶命した。
共に
「お父様、お母様、お話があります」
まわりには豚たちがいて鳴いている。
「どうしたのあらたまって」
姫はベッドにうつ伏せになって足をバタバタさせている。
「なんで許してくれないの、なんでよ従者」
顔が枕に埋もれていて、くぐもった声で愚痴を言っていた。
「姫様が旅に出て危険な目に遭うのを避けたいんですよ、私も危険だと思いますよ」
「あなたとそれに騎士団長を連れて行ったら、何も問題ないと思うけど」
「いやあ、さすがに二人だけじゃ厳しいです。それに騎士団長が国に不在なんて、非常に問題あると思いませんか」
「そうだけど」
「ブーブー」
「ほら、エリザベスも宮殿にいて欲しいって言ってますよ」
どうしても、世の中を見てみたかった。私の世界はこの城という空間だけに限られていた。
いっそのこと一人で出てしまおうか。
いや、何もわからない私が一人で行ったら、たちまち何か困った状況に陥るに違いない。
一人になったら絶対にだめよ。
従者は外国から来た人間だ、従者を連れて行くのは当然よ。当然。
姫は旅に出ることしか考えられなくなってしまっていた。
これは黙って行くしかないのかしら、お父様とお母様には悪いけれど。
鳥は鳥かごから出ようとしている。
次の日
「従者、私と旅に出ましょう」
「嫌です」
「わがまま言わないでちょうだい」
「言っているのは姫様でしょう」
「主のゆうことは黙って聞くものよ」
「これは決定事項なの、聞き分けなさい。給金は前借り、一年分を先に払うわ」
「先にもらっても、使い道に困るんですが……」
「うるさい!」
「このままじゃ、一人で旅立てしまうわ、そんなのあなたが後悔するわよ!」
「なんですかその……」
「どうしても行きたいんですね」
「ええ」
「わかりました。私に考えがあります、しばらく待っていてください」
そういうことになった。
姫の心の声
(しめしめ)
騎士団長の部屋の前に従者は来ている。
ここにだけは来たくなかったんだが仕方ない、姫様のためだ。
ドアを開けると、騎士団長が椅子に腰掛けて本を読んでいた。珍しく服を着ている。
「ノックもしないでなんの用だね」
「折り入って頼みごとがあるのですが」
「わかった。一つ条件をのんでくれたらいいよ」
こちらはまだ、内容を言っていないのに承諾するとはどんな条件をいってくるのだろうか。
騎士団長のことだ、ろくでもないことを言ってくるに違いない。
「条件とは……」
「姫を舐めてみたいんだ」
「最近思うんだよ綺麗に掃除した便器を己の汚物で汚すのが非常に氣持ちよいと、無垢な姫様を私が汚す、白い陶器が私の糞と尿とで汚れていく様がたまらない。汚れを知らないあの方を私が……ん~」
冷たい目を従者は向ける。
「姫に頼んでください」
「勝手にするさ、君の願いというのは?」
騎士団長に、姫がこのままだと無断で旅に出てしまうこと、従者一人だけで護衛するのは心許ないから何人か腕の立つ人間をつけて欲しいという願いを言った。
レンとニコラスをつけようと言われたが、旅にライオンを連れていくのはどうなのだろうかと思いを述べたら、大丈夫だ問題ない。あの者たちはそのところをわきまえているからと言うのである。
本当に大丈夫なのであろうか。
いぶかっていると、騎士団長はレンとニコラスの秘密を教えてくれた。
驚きで言葉を失ったが、確かにそれなら大丈夫そうだと納得して、退室した。
窓から月の光が落ちている。
ゆっくりと開いていく。
騎士団長が物音一つ立てずに部屋に入った。
姫へと近づく。
上掛けをどかす。
寝姿があらわになる。
よく眠っている。
寝息が聞こえてくる。
姫の形の整った胸が上下している。
騎士団長は生唾を飲み込む。
姫の吐息はバラの香りがした。
呼吸に合わせて、寝間着をたくし上げようと、布に手をかけようとした。
その時、
「従者だめよ、寒いわ」
と寝言を言って、ごろりと寝返りを打ちながら丸くなっていく。
騎士団長は上掛けをそっと掛けてやって、入ってきた窓から出て行った。
手紙をしたためていた。
お父様とお母様に宛てた手紙だ。
その手紙をエリザベスにくくりつける。
「エリザベス、お母様にかわいがってもらうのよ、元氣でね」
「ブー」
エリザベスは泣いていた。
よしよしと撫でてやる。
旅の準備は従者とセバスチャンに任せてあった。
少しの食べ物と飲み水、いくらかのお金、手荷物はできるだけ軽くして行きましょう、大体は馬車に用意してありますと言われた。
昼のあいだにセバスチャンとの別れは済ませてある。
涙をこぼしながら早く帰ってきてくださいと懇願していたっけ。
夜は更けていって、準備された服に袖をとおす。
一般の人たちはこんな生地の服を着ているのかと思った。
普段着ているのは、着心地がとても良かった。
いい服を着ていれば目立ってしまうし、変に思われてしまう。
それにしてもボロボロだった。
従者が言うには良いものを着ていると、物盗りに目をつけられてしまうから、あえてボロにして、人の目を欺くために見た目は質素にしていきましょうということだった。
けれどそんなことが氣にならないくらい、ワクワクしていた。
やっと城から出られるのかと、胸が高鳴る。
着替え終わって部屋の外の従者に声をかける。
「いいわよ」
従者か中に入ってきて、窓から縄を下ろす。
月明かりで外は明るく照らされていた。
「姫様、伏せて」
夜警が見回りをしている。
「町についたら馬車を用意してあるんで、そこまで頑張ってください。そしたら隣の国に行ってみましょう」
みまわりが過ぎ去ったようだ。
従者の背中は頼もしくみえた。
あなたが私の従者になってくれて良かった。
あなたがなってくれてなかったら旅なんて出られなかっただろうしあなたのおかげで私の願いは叶えられそうです。
ありがとう従者。
道なき道を進んでいるとナ二か黒いネバネバしたものがそこにいた。
「なんだあれは……姫様下がって」
「な……なにあれ」
ネバネバは姫、姫としゃがれた声を出して近づいてくる。
刀の鯉口を控え切りした。
ネバネバはこれ以上近づこうとしないようだ。
「なんだか怖いわ、幸い動きも遅いし先を急ぎましょうよ」
二人は駆けてその場を去る。
「なんだったのあれ……」
「悪霊の類いの氣はしますが……」
二人が町につく少し前
「なんだ!?これは」
夜警の兵士が言った。
ネバネバは広がって兵士を包み込んだ。
兵士の絶叫は何か得体の知れないものに包まれて、夜の林には響かなかった。
「やっと、体を手に入れたぞ。待っていろよ、必ず姫を手に入れてやる……」
死んだはずのバロン男爵の声で兵士は胸の内を吐き出していた。
町について馬車が用意してある宿屋に少年とライオンがいた。
レンとニコラスだ。
「またせたな」
「はいはーい、これからよろしくねー。姫様も、しっかり護衛するから、僕らにどーんと任せちゃって」
「よろしく頼むわ」
「それと、確かめておきたいことがある。君らの秘密とやらを騎士団長から聞いたんだが」
「なんだ聞いてたのか、面白くないなあ、驚かせようと思ってたのにー」
そう言うや、レンはニコラスの口の中に入っていった。
少年とライオンの融合。
獣人になったのである。
姫は驚きで愕然としていた。
「あ、あ、獣人って初めて見たわ」
従者は、
「まさか、分離するとは、私も夢にも思いませんでした」
と言った。
「僕らは特別なんだ、この姿の時の名前はランス・コ・レニー」
旅は始まった。
お手紙
誠惶誠恐謹言
お父様、お母様このたびのこと本当にお詫び申し上げます。
私を案じてのお二人のお氣持ちはとてもありがたく思っておりますがどうしても、
どうしても世界を見て回りたいのです。
勝手に旅立つことを何卒お許しください。
これも私の様な娘を持った因果と御あきらめ下さい。
逐一、消息を出そうと思います。
そろそろ夏も盛りに近づいてきます。
お二人とも御からだに氣をつけてください。
心から愛しています。
頓首百拝
あなたたちの娘より
手紙は昔、消(しよう)息(そこ) とも読んだ。消息はそのときどきの状況のことだが、元の意味は生死だ、生きていること、元氣なことを明確に伝えるのが基本となる。
拝啓と敬具
手紙が他の文章と違い書きにくいのは、手紙独特の形式や用語があるためだ。たとえば、拝啓・敬具と前略・草々の使い分けについて迷ったことはないだろうか。
前略とは言うまでもなく、前文を省略しますという意味。前文とは、用件に入る前の各種あいさつで、時候や、相手の様子を尋ねるあいさつ、自分の様子を伝えるあいさつなどがある。
まどろっこしい前置きは省き、すぐに用件から入るほうが、時間と紙の無駄がなく合理的な場合も確かにある。ただし氣をつけるべきは、前略・草々は改まった手紙には不向きだということ。前略はいわば、「あいさつ抜きで始めます」と言う宣言であり、草々は「ぞんざいでごめんなさい」という意味となるからである。不用意に使うと失礼になる。
今から八十年近く前に出た「正しき書簡文の知識」には、次の記述がある。
「前略」と書く手数で「拝啓」と書いて、直ちに要件に入ればよいのであるから、なるだけ、「前略」や「冠省」を避けて「拝啓」を用い度(た)い
前略の代わりに拝啓を、草々に代え敬具を使って支障の出る手紙は皆無だ。
そもそも拝啓とは、あなたに敬意を表して申し上げます、という意味。そして敬具も同様に尊敬して申し上げましたという意味だ。
この姿勢こそが日本の手紙の美質の核心といえる。すなわち用件を敬意でサンドイッチするのである。
相手の状況や氣分に土足で踏み込むのではなく、うやうやしく立ち去るのが、日本人の感性にぴったり合う。そしてその姿勢を、目上、同等、目下に対して、分け隔てなく貫くのも、日本の美風の一つといえる。
ただし、やたらていねいなのはいけない。千年前の平安の昔、拝啓、敬具にあたる頭語と結語を、次の語で書いたこともあった。
誠惶誠恐謹言
誠に恐縮して誠に恐れ入り、謹んで申し上げます、という意味になる。これを今それほど改まる必要もない手紙に使用すれば、いわゆる慇懃無礼ということになってしまう。
文豪に学ぶ 手紙のことばの選びかた
東京新聞 中川 越
「自分の立場というものをわかっていないようね」
「でも、あの子の人生さ、自分の好きに生きたいものだろう」
「あの子は普通の人達と違うのよ、国の、国民への責任がついて回るんです。もしものことがあったら……」
「自分のやってみたいことをやってみないと氣が済まないんだろう。私たちにはどうしようもできないよ。回り道をして間違いを犯して、そうしないと深みってでないものだろう。それが一番の近道なのかもしれない」
「いろいろな国を見て、いろいろな考え方を持っている人達に触れたらきっと、自分の国を大切にしたいって氣持ちもわいてくるさ」
「心配でならないわ」
「子離れする時期なのかもしれないよ、過保護にしすぎていたのかもしれない」
エリザベスは二人の話をじっと聞いていた。
旅は終わる
幾年月が過ぎ、姫一行は国々を見て回り、人生の中でかけがえのない貴重な経験を得ていた。その土地、独特の風土、文化、文明、人の氣質、性質、考え方の違い、良いところも、悪いところも、建物や物、町の雰囲氣に、人が現れ、教育の大切さ、人を騙す者、私利私欲、奴隷、差別、争い、醜さ、傲慢、人の強さ、心の大切さ、暖かさ、生きていて何をなすのか、なさないのか、ただ生きているだけで人の役に立っていること、命を燃やし尽くして人の役に立つ者、夢に焦がれ、人に夢を焦がれさせる者がいること、自分は何をすれば良いのか、何をしたいのか、いつ死ぬのかわからないこの世界、人は美しく、自然は美しく、自分の命を大切にしたいと思っていた。ただひたすら、生きていて良かったなと思いながら死にたくて。
姫は自分の国に帰ることにした。
旅の途中、いろんな人々に出会ってたくさんの人達に助けてもらい、何人かと行動を共にしてきた。
現在は、最初の仲間とその他にもう一人の男が行動を共にしていた。
名前をケープルズといった。
「姫さんの旅もこれで終わりですかい」
姫は晴れやかな顔を見せながらそうねと言った。
ケープルズは陽氣な男だった。
盗賊たちに襲われていたのを助けてあげたら、恩返しがしたいと言われ、旅の仲間に加わることになった。
「姫さんの美しい顔も、拝めなくなるわけだ。寂しいな、どうですあっしを雇ってくれませんかい」
姫は笑いながら、
「そうね考えておくわ」
と答えた。
馬車の中で、従者は死んだ様な目でぼーっと前を見つめながら口を開けてつばを垂れ流している。
なぜ姫が帰る決心をしたのかというと、従者のことがある。
姫を守るために、妖魔と戦い、心を食い散らかされてしまったのだ。
今は幾分回復に向かっているが無氣力な状態が続いている。
従者を一刻も早く治すために帰る決意をした。
こんな生氣のない従者の顔は見ていたくなかった。
頼りになる従者でいて欲しかった。
「もう少しでつくわ、そしたらゆっくり休みましょうね」
「あ、……あ……」
馬車はレンが御していた。
ニコラスは中で寝ている。
通りすぎていく景色は色あせて、姫の目に映っていた。
宿屋の一室で従者の体を拭いてあげていると、
「ひめさま、……あり、が、と……う、もうい、い、です。ほう……ておいて、やくにたちそうに、……あり……ませ、ん」
従者は繰り返し、繰り返し同じ言葉をはっしていた。
姫は愛しさと悲しさで瞳を濡らしていた。
足指の間や、陰嚢と陰茎のあいだまで、ていねいに汗を拭ってあげていた。
「黙りなさい」
従者は黙らない。
「だまりなさいよ!ばか!」
ニコラスは一匹、狩りに出かける。ライオンは夜行性である。
ケーブルズが食事を運んできた。
湯氣が立っている。出来立てのようだ。
「お待たせいたしやした」
「ありがとう」
「いただきまーす」
レンがもりもりと食べ始める。
両方の頬を大きく膨らませている。
リスのようだ。
カボチャのスープ。鶏の唐揚げ。サラダ。パン。
うん、美味しそう。
姫も食事をしながら、従者に食べさせようとする。
口に入れられた食べ物を従者はこぼし咀嚼しようとしない。
おかしいな、いつもなら食べるはずなのに。
「た……た……たべたく……あり……ま……」
口からこぼれ落ちる。
「そう、仕方ないわね、私たちだけで食べるわね」
ケープルズはにんまりと笑っていた。
食事をし終えた後、レンは突っ伏して寝ていた。
何かがおかしかった。
いつもはこんな早く寝ないのに。
意識がまどろんでくる。
ケープルズは笑顔でこう言った。
「お姫さん、それには毒を入れておきましたわ」
顔から血の氣が失せた。
意識は途絶えた。
補足文 物語と関係ないんで飛ばしてもかまいません。
中世のイギリスでは、おそらく世界で最も有名な毒にまつわる戯曲が登場する。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」(初演は16世紀末と言われる)だ。同作でジュリエットを仮死状態にさせた毒はチョウセンアサガオだった。こうしたヨーロッパの戯曲などには毒がしばしば登場し、毒殺が依然として横行していたことを物語る。
暗殺の語源となったハシシュ 大麻から得られる「ハシシュ」は、マリファナと同様に、吸引すると陶酔感を得られるが、攻撃性を誘発することもある。この陶酔感と攻撃性を暗殺に利用した「山の老人(おやじ)」という暗殺集団がイラクにあった。
老人が、若者をハシシュで眠らせて拉致し、宮殿で美酒と美女を振る舞った後、再びハシシュで眠らせ、もとの場所へ返す。そして老人は「再びあの天国へ行きたければ、こいつを殺せ」とけしかけ、若者を暗殺者として送り出す。このエピソードから、ハシシュは英語で暗殺を意味する「assasinアサシン」の語源になったという。ハシシュは大麻の樹脂を固めて乾燥させたもの。溶剤で溶かしてたばこに混ぜるなどして喫(きつ)する。マリファナよりも強力。
毒と薬(すべての毒は「薬」になる?!) 鈴木 勉 監修
新星出版社
ハシシュとチョウセンアサガオどちらを使おうか迷っていたがロミオとジュリエットがすきなので、チョウセンアサガオを使おうと思ったしだいである。読んでいる方にはどうでもいいと思うが。
江戸時代の医師、華岡青洲(1760~1835)は、1804年(文化元年)に世界で初めて全身麻酔手術に成功しました。
華岡青洲は、漢方医学の古医方を学び、続いてオランダの外科技術を学びました。動物実験を重ねた後、実母と妻が実験台となり数回にわたる人体実験の末、母の死、妻の失明という大きな犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散」別名「麻沸散」を完成させました。通仙散は、曼(まん)荼(だ)羅(ら)華(げ)(チョウセンアサガオ)、烏頭(うず)(トリカブト)を主成分とし、その他に川芎(せんきゆう)、当帰、芍(しやく)薬(やく)など10種類に余る生薬を含みますが、その全容は残念ながら伝わっておりません。
チョウセンアサガオにはアトロピンやスコポラミンなどのトロパンアルカロイドが含まれ、副交感神経抑制作用、中枢神経興奮作用を示します。アトロピンは副交感神経を遮断し、中枢神経を初めは亢進、次いで麻痺させ、また血圧の上昇、脈拍の亢進、分泌機能の抑制、瞳孔の散大を起こします。スコポラミンはアトロピンに類似の作用を示しますが、アトロピンよりも散瞳作用が強く、分泌抑制作用が弱いようです。
近年でのチョウセンアサガオの中毒事件は2006年、沖縄県南城市において起きています。自宅菜園でチョウセンアサガオを台木としてナスを接木し、収穫したナスを使ってミートソースを作りスパゲティにかけて食べたところ家族2名が発症しました。
この他に、チョウセンアサガオの根とゴボウを間違えた、チョウセンアサガオの開花前のつぼみとオクラを間違えた、チョウセンアサガオの葉をモロヘイヤ、アシタバなどと間違えた。チョウセンアサガオの種子とごまを間違えた、といった中毒事件が起きています。
チョウセンアサガオの仲間で、庭先に見かけるエンゼルストランペットと呼ばれる大型のキダチョウセンアサガオにもトロパンアルカロイドが含まれています。
毒と薬の科学 佐竹元吉 編著
日刊工業新聞社
チョウセンアサガオ、ダツラ、キチガイナスビ
ナス科に属する1年草。いろんな品種があるが、いずれもラッパ上の花を開き、トゲのある果実をつける。熟すと果皮が割れて、中から黒くて平たい種子が出る。れっきとした薬用植物で、以前はアトロピン、スコポラミンの原料として栽培されていた。最近はそれらが野生化しているのが各地でみられる。
アトロピン、スコポラミンなどのアルカロイドを含み、内服によって口の渇き、散瞳、幻覚症状、視力障害、呼吸麻痺をおこす。
薬草の散歩道 正山征洋 編著
九州大学出版会
ケープルズは椅子から立ち上がる。
「くっくっくっく。あっはははははは、あー、うまくいきすぎて笑っちまうぜ、さて、ずらかるか」
姫を抱え上げて、部屋から出ようと戸に手をかける、凄まじいまでの殺氣を背中に感じた。
パッと後ろを振り返った。
従者が唾を垂らしながら立っていた。
「ひひ……ひめざまはづれでいがぜないぞおお、」
ケープルズは目を見開いた。
この死に損ないにこんな力が残っていたとは、なんと恐ろしい奴だ。
「この死に損ないめがおまえになにができるんだよ」
姫をいったんおろして、後ろ回し蹴りを頭部におみまいする。
従者は壁に激突した。
頭部から血を出しながらも、まだ立ち上がろうとしていた。
動きはとろくさいが目がらんらんと光を放っていた。
思わずぞっとした。
「おそろしいやつだ」
姫を抱え上げてそそくさと、部屋を後にした。
ニコラスが宿屋に戻ると、血のにおいがしているのに氣がついた。
怪しく思いながら、部屋に戻ると、突っ伏しているレンと倒れている従者が目に飛び込んできた。
従者はくそう、くそうと嘆いている。
悔しくて泣いていた。
なんで自分の体を動かせないんだろうか。
思いどおりにいかないのが腹が立った。
大切なひとを守れなかった。
自分が無力なのが許せなかった。
失いたくなかった。
あの人を守るためにいるのに、あの人のためなら命は惜しくなかった。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょおおおおおお……
無氣力だった心がまた燃え上がったのを従者は自分で氣づいていない。
レンを椅子から床へ転げ落として、顔を舐めてやっても起きる氣配はない。
ライオンは融合を試みた。
獣人は立ち上がり頭をふった。
毒は体の大きさで効果が増減する。
体が倍以上でかくなったランス・コ・レニーは、毒の効果が無くなったのである。
従者にかけよって、手当てをしてやる。
包帯を頭に巻いてやっていると、
「ひ……め……さまを、……とりもどしに……い……こう……」
獣人はうなずいて、宿屋を後にすることにした。
猫の嗅覚は、人間の一万から十万と言われている。犬でも一億倍だ。ライオンも猫と同等かそれ以上は嗅覚が優れているだろう。
姫様の、匂いを覚えていたので、匂いをたどっていくことにした。
どれくらい意識を失っていたのだろうか。
薄暗くて古ぼけた小部屋にいた。
壁につながれた鎖に手首、足首をつながれている。
腕は頭上から下には下げられそうになかった。
なにこれ。
そういえば、ケープルズにうらぎられたことを思い出す。
何が目的なのかしら、私を人質にして国から、身代金をもらう氣なのかしら……
扉が、ぎいと音をたてて開いた。
中に入ってくる男をきっと睨みつける。
ケープルズだ。
「おやおや、お目覚めですか」
「あなた、一体何が目的なの」
「あなたを手に入れたかったのですよ」
ケープルズは不敵な笑みを向ける。
近づいて、しゃがみ込んで、顔をのぞき込んできた。
その際に爽やかな匂いがした。
どこかで嗅いだことがある匂いだ。
頬にふれられる。
「私はあなたがどうしても欲しかったのだ。死んでもなお……私は王になりたかった……こうして、また肉体を手に入れて……」
このしゃべり方、この匂い、記憶が想起される。
驚きで、自然と目と口が開いてしまう。
「思い出しましたか、バロンです」
顔は全くの別人である。
どういうこと。
「まさか、死んだはずでしょう」
「そうですね。私にもよくわかりません」
「ああ、ついにあなたは私のものだ」
男爵の氣持ち悪い手がするりと落ちて、親指が唇に当てられる。
「触らないで!あっちいってよ!」
「そんなことはもう言っていられなくなりますよ」
バロン男爵は口に何かを入れて、無理矢理、私に口づけをし、口の中の物を移してきた。
粘ついた舌が口内を蛇の様に這いずり回る。
まるで男爵と唾液の交換をしている様だ。いや、そうだ。
うう、吐き氣がする。
「さあ、飲め!」
入れられた物を混ざり合った唾液と共に吐きつける。
「誰が飲むものですか!」
バロン男爵は立ち上がり、何か管の様な物を持ってきた。
それを口に突っ込まれる。
管から何かを流し込まれていく。
管を抜かれて咳き込んだ。
「い……いったいなにを……」
「きもちよーくなるお薬ですよ」
私の意識はどこかにおしやられた。
「う゛あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
姫はまるで獣のようになっていた。
口から涎を流し、目は正氣を失っていた。
猿ぐつわを口に噛ませる。
「姫、ひめ……ひめえええええええええ」
姫のまとっていた布を引き裂いていく。
なんと美しい体だ。あなたが私のもの……
体中をなめ回していく。
姫は暴れようとするが、手足の自由がないため無力だった。
「ひめ、いま、いま、いれちゃいますよおおおおお」
秘部から赤い液体が床に落ちる。
姫は破瓜した。
姫は初めての衝撃に痙攣していた。
しばらく立つと、姫は自ら体を動かしていた。
二匹の獣がそこにいる。
雄がおのが欲望を雌の体内に吐き出した後、猿ぐつわを取り、陰茎を口に含ませようとした時、ことはおこった。
男根をかみ切られたのだ。
「うおおおおおおおお」
そのまま、射精していた。
よろよろと、後ろに後退する。
雌はくちゃくちゃと噛んだ後、ぺっとまずそうに吐き捨てた。
扉が開いた。
バロン男爵が振り向いた瞬間、首の頸動脈を切られていた。
「おまえは用済みだ」
「よくも、よくも……また死んでしまうのか俺は……」
どっと倒れる。
首を切断されてとどめを刺された。
入ってきた者は、姫に近寄り頭を撫でていた。
近いみたいだ。
馬車をとめる。
ニコラスの背に従者を乗せてやって、ここからは歩いて行くことにする。
従者はあいかわらずぐったりとしていた。
進んでいくと、古い館に着いた。
ここか。
中に入ると、姫の匂いと、血のにおいがすると、ニコラスはレンに告げた。
奥に進むと、血のにおいがレンにもわかるほどになる。
扉を開けると、ケープルズの首が転がっていた。
何が何だかわからないが、この部屋には姫はいない。
中を調べていると、姫の着ていた服が布きれになって落ちている。
確かにここにいたみたいだ。
机の上に、何か白い粉があった。
「これは……」
舐めてみてすぐに吐き出した。
二人と一匹が氣づかない間に、部屋の隅で黒い靄が集まりだしていた。
一番弱そうな者にとりついた。
従者の体を黒い靄が覆った。
「うあああああああああ」
従者が苦しみだしてニコラスの背から転がり落ちた。
レンはびっくりして目を向けると、従者はいきなり笑い出した。
なんなんだこれは。
訳もわからず見守っていると。
「あいつ……よくも殺してくれたな、今に見ていろこいつの体を手に入れたからには……なんだこの体は、ま……まともに動かせない、どうなっているんだ」
と言ったつもりになってはいるがレンの耳には何を言っているのか理解できない発音をしている。
従者は牛のようにモーの体勢をとっている。
「ど……どうしたの」
レンが声をかける。
従者は反応を示さず、なんとか立ち上がり机の上にある白い粉を口に入れた。
それから、床に転がっている屍の懐から注射器を取り出して、腕に刺した。
従者は高笑いをし始めた。
明らかに様子がおかしいと思ったら、またさっきのように苦しみだした。
どうなっているんだ!
従者は刀の鯉口を切った。その際、体から黒い靄が漂い、拡散した。
従者は膝をついて、息を切らしていた。
「姫を助けにいくぞ」
薬には様々な作用がある、摂取した作用と、現在従者が陥っている作用がお互いに逆であった。そのため、作用が拮抗し合ってしばらくはどちらの作用も現れない状態が発揮されたのだ。奇跡が起こった。
意識がぼやけていた。
誰かが私を呼んでいる氣がした。
昔からよく知っている声が。
目を開けると、その人は私に温かい何かを飲ませた。
血かしら。
私の股ぐらについている何かを、舐め取っている感覚がする。
そのあとに、私にするはずもないことをやった。
これは夢なのかしら……
夢ならせめて従者にされたいたわ……
扉を蹴破る。
その光景はあまりに見たくなかった。
何者かが姫に口づけをしている。
俺は絶叫して、そいつを姫から引き離そうと、突進した。
その間に男は、姫の胸に出現した柄を引き抜いて、剣を振るった。
衝撃波で吹き飛ばされ壁にぶつかる。
なんなんだあの力は……
ベッドに横たわっている姫はこちらに顔を向けて弱々しく俺を呼んでいた。
今、助けます。
そいつをよく見ると、見覚えのある人物だった。
「お……おまえは……なんで……」
セバスチャンだ。
「やっと……やっと手に入れた!力を!」
「何がしたいんだお前は!」
「ただ力が欲しかったんですよ。誰にもひれ伏さない、強い者に怯えなくてすむ力が!」
「この剣さえあればすべての人間は私の思うがままだ!」
なんてくだらない理由なんだ。
「そんなことのために姫を利用してんじゃねぇよ!」
「あなたが何を言おうと力が強い方が正義なんだ。あなたには屈してもらう」
セバスチャンは剣を頭上に振り上げた。
俺は守るべき人のために戦う。
彼女を助ける。
セバスチャンに向かっていく。
相手の振り下ろされる一撃を、剣で受け流そうとしたが、受け流せずにそのまま刀と左肩口から先を切断された。
折れた刀で、セバスチャンの首筋から心臓までを切り裂く。
セバスチャンは苦しみの声を上げた。
「おのれぇぇ」
俺は上半身と下半身を別々にされた。
世界がくるくると回っている。俺の下半身が見える。床に頭をぶつける。
セバスチャンも倒れる。
ニコラスとレンが駆け寄ってくるのが見える。
死んでもいいと思っていたけれど、あなたに会えなくなるのは嫌だな……
姫は従者が胴を切り飛ばされたのを見て悲鳴を上げていた。
意識ははっきりしている。
よろよろと、半分になった男に近づいていく。
瞳から止めどなく涙が流れている。
いや、いやよ、いや、いや、いや、いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや。
従者の胸に顔を埋める。
「死んじゃいやよ!あなたがいなくなるなんて耐えられない……」
顔をぐしゃぐしゃにしながら泣きじゃくっている。
「レン、ニコラス、姫様を頼む……無事にお連れしてくれ……」
「あなたといられて、楽しかった……」
「姫、ひめえええ、私にご加護を!ご加護を!」
もう一人の倒れている者の声など姫の耳には入っていなかった。
「姫様、契約だ。それしかない。あなたも従者となら契約してもいいと思っているでしょう。この男ともう契約しているみたいだけど……二回目がどうなるのか僕にはわからないけど試してみてもいいんじゃないかな」
姫は顔を上げる。
従者の分断された下半身にある短刀を手に取る。
自分の腕をす、っと切って死にかけの男の口にもっていく、次いで肩口に口をもっていって血を口に含んだ。
お願い。
唇を合わせる。
二回、三回と。
何かに反応したかの様に、温かな光のベールが男と女を包み込んでいく。
傷ついた男の体はみるみると治っていく。
奇跡だ。
従者はまた生えた左手で、女の頭を引き寄せて、氣持ちを女の唇にぶつける。
姫は押しのける様に胸を押した。
「その前にこれを抜いて」
従者の手を両手で取り、胸から出ている柄を握らせる。
抜く際、声が思わず出ていた。
次の瞬間、セバスチャンが声を上げてのたうち回っていた。
さっきまであった剣もいつの間にか無くなっていた。
セバスチャンの体は砂と化し、霧散していった。
「セバスチャン……」
姫はその光景を眺めていた。
おしまい。
女の子の寝息が聞こえてくる。
「あら、寝ちゃったのね……」
上掛けを肩まで上げてあげて、蝋燭の明かりをふっと消した。
殺し合い
この物語を構想していた当初は、従者と、騎士団長を最後に殺し合わせる予定だったが書いていて、騎士団長を氣に入ってしまい、どうしても殺したくなくなってしまった。
なのでこれはもしも、二人が戦ったらを書こうと思う。
国王と、王女の命令で姫を連れ戻すことになった騎士団長。
自ら出向くことになった。
「姫様、宮殿にお戻りください、ご命令がくだりました。私も見逃すわけにはいかないのです」
「どうしてもいやです」
「無理矢理にでもお連れいたします」
従者が前にたちはだかった。
「やはり君をどうにかしないと姫をつれもどせそうにはないな」
剣を引き抜く。
「あなたとは、戦いたくなった。どうしてもなんですか」
「すまないね、私も騎士団長の名誉にかけて、命令は守らねばならない」
「姫様、もしかしたら死ぬかもしれません。その時は夢を叶えられなくてすいませんでした。と、先に謝っておきます。ただ、命をかけて、私はあなたを守りますよ」
「私、かえ」
姫が何かを言いかけるのを、
「姫、もうここまで来たんです。途中でやめるのはもったいないですよ。最後まで諦めないで、ここは私にお任せ下さい」
と、従者は姫の言葉を遮った。
姫は死なないでと言って、レンとニコラスと共に後ろに下がった。
二人はお互い、手加減できる相手ではないのをわかっていたので、命を落とすことを覚悟していた。
騎士団長は、剣を肩の高さに垂直に、切っ先を真上に構える。
相対して従者は片膝をつき、刀を鞘から半分ほど出して、切っ先は鞘にあり、右手は額の前に、その状態で静止していた。
この奇妙な構えに一瞬躊躇したが、以前従者と手合わせした時の剣の早さを知っていたため、今の鞘から抜ききっていない状態ならこちらの方が有利と判断した。
それが誤りだった。
一歩踏み出すと、正面に切りつけた。
一太刀目を受けられた瞬間、下腹部から顎にかけて鎧ごと切り裂かれていた。
どっと倒れる。
空は青かった。
騎士団長は低く笑った。
先ほどの一瞬で見た限りでは、右手で抜いていず、腰でも抜いてなく、座って座らず、立って立たず、まさに肚で抜き、心で抜いていた。
先に動かされたな。
やられても仕方ない。
三人と一匹が近寄ってくる。
「頼みがある、葬儀の時は、女物の服を着せてくれ、最後ぐらい女らしくいたい。男の様に育てられたが、いちおう女だからね私も」
従者を見ると、涙を流しながらわかりましたと言っていた。
「君でも泣くんだな」
「レン、ニコラス私が死んだ後も姫を守ってやってくれ、頼んだぞ」
レンはただただ泣くばかりだった。
ライオンは静かにたたずんでいる。
「姫様、国王陛下と女王陛下のお氣持ちもわかってあげて下さい」
姫はごめんなさいと言いながら目を赤くして涙していた。
謝らないで下さい姫。
あなたは悪くないんだ。
ああ。
死ぬ時に泣いてくれる人がいるのは。
嬉しいな。
心の粒が目からこぼれ落ちてくる。
しにたく。
ない。
な。
ソフィア・フォン・ルーヴェ
二十七歳で人生の幕を閉じた。
男として生きてきた彼女は、本当は女としての人生を歩みたかったのであろうか。
それはもう誰も知るよしもない。
三人は騎士団長にドレスを着せて化粧をほどこし、棺の中を花で飾り、本国に続く川に流して別れを告げた。
その死に顔はまるでまだ生きてるかの様に幸せそうな笑顔に見えた。
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