3

一階に降りてエントランスに足を踏み入れようとしたときだった。

柱の影からスーツ姿の男か出てくる。マネの波多野だ。そしてその後ろにもうひとりいた。やかましいやつ、チーフマネージャーの香田である。年かさの彼を見て、彼のいかつい顔を見て、あたしはすぐ直感的に理解した。


《覚悟を決めるしかない》


「謹慎中でしょう、なにやってんです」と波多野。


「必要があれば出るわよ」


香田が険しい目であたしを見下ろしつつ言う。


「戻るんだ」


「そう言われても」


「んな下手くそな変装してどこ行くんだ? 前田のとこ?」


香田は裾の左ポケットから茶色いたばこの箱を取り出し、流れるような動作で一本抜いて口にくわえてライターで火をつける。

あたしは下半身に力をためていた。


「お前自分の立場わかってんの? ああ? 戻るんだ」


こいつらはあたしから酒とたばこを奪うということの意味を知らない。あるいは、どうでもいいことなのだろう。ノータリンどもだ。


あたしは左に体を動かし逃げるそぶりをする。

追おうと香田は前に体を動かす。次の瞬間にはあたしの右拳がやつのみぞおちに叩き込まれていた。うずくまるやつのジャケットのポケットからたばこを奪い、あたしは駆け出す。


こんなふうに日頃のトレーニングが役に立つとは。いやたぶんわかっていたのだ、誰かがあたしの前に立ちふさがる未来を。

波多野はただじっと見ているだけだった。君は正しい、波多野くん。いつかなんかおごるわ。


大通りに出てタクシーを拾ったあたしは住所をメモった紙を渡して運転手に告げた。


「この住所に向かってください。で、途中で寄りやすいコンビニに寄ってください」


わかりました、とだけ短く答えた運転手はあたしが誰だか気づいただろうか。が、ともかくは早くやるべきことをやらなくてはならない。


十分くらい経った頃タクシーは止まり、あたしはコンビニに行ってマスクとライターを買うと店の外に出て口元を覆っていたマフラーを急いで外す。誰が見てようとかまわない、あたしは敵から奪ったたばこに火をつける。キャメルだって。初めて吸うわ。ライトか。巻き紙も茶色の変わったたばこ。味は薄かった。


セブンスターを買おうかと迷ったのだが、なんだか気が引けて買えなかった。もっとこう、味わえる環境で吸いたいのだ、セブンスターは。


半分吸うとスタンド灰皿に吸い殻を入れ、あたしはタクシーに戻り、かつてのマネージャーの元に急いだ。行ったからって向こうにも仕事があるだろうからすぐに出会えるものでもなかろう。


そう思っているとスマホのバイブが鳴り、表示を見ると番号のみの知らない着信。あたしはしかし予感があった。たぶん──


「はい」


あたしは確信のもとにそう通話に出た。


「前田だ。久しぶりだな」


波多野が連絡を入れたのだろう。


「そっちに向かってるんだけど」


「いま仕事場だ。なんか用か」


「ちょっと待ってて。折り返しかけるから」


通話を切るとあたしは運転手に詫び、渡した住所には向かわずてきとうな所で降ろしてくれるよう申し入れた。


ややあってタクシーは止まり、あたしは冷たい風の吹きすさぶどこかの街角に降り立った。


視界にバス停があったので道路を渡ってそこへ向かい、誰もいないベンチに腰を下ろす。人通りは少なく、明るい日差しが周りを照らしている。あたしは前田に折り返しの電話をかけた。


「お待たせしました」


「ん。で何だい」


「あたしに女優として足りないもの……ってなに」


「ああ、、それか……、気にしてたのか」


「突然思い出したのよ」


「忘れてくれていいのに」


「足りないものってなに」


「お前には裏づけがないって、それだけのことだよ」


「下積みや努力がないって意味?」


「それ以前の問題だ。お前は自分の時間を映画やドラマを見ることにどれだけ費やしてきたんだろうな? 俺より少ないんじゃないか? 現場でいくらキャリアを積んでもそういうのは埋められない。いや天才なら見なくて問題ないんだ。他人は関係ないから。でもお前はそうじゃないだろ」


「じゃあ……桜井美咲にはあるの?」


演技力がないのに第一線にいる女。


「ああそこと比べるか……気になるのかお前らしい。あれは別格だ。お前は一生あのレベルにはいかないよ」


「レベルて何の」


「言葉にするのは難しい、というか不可能だね。あえて言えば“虎はなぜ強い”という問いへの答えがそうだ。つまり、もともと強い」


そのフレーズどこかで目にしたような、としばらく考えて思い出した。ネット記事でよくある前田慶次のあれである。


「どういうこと」


「お前うさぎの背中見たことある? それが足りないものだ」


見たことない。子供の頃目にしたかもしれないがそんなことを気にするわけもない。


「答えたからもういいだろ。切るぞ。俺に関わるな」


まあ、それはそうだろう。相手はまっとうな人生を歩む人間なのだ。

違えねえ。

反論の余地がない。

通話が切れてもあたしはスマホを手にしたまま茫然としていた。

目の前を車の群れが通り過ぎてゆく。


どれくらいの時間が経ったか、あたしはさっき購入したマスクをつけたあとサングラスを外す。顔の殆どが隠れているのでこれで大丈夫だろう。気を取り直してとりあえずスマホでうさぎの画像を検索してみる。


さまざまなうさぎが出てくるなか、後ろ姿の画像は出てこない。なのでダイレクトに[うさぎの背中]で検索してみるといくつかそのままの画像が出てきた。特に気に入ったのはグレーのやつ。


少し白が混ざりふわふわ感が強い。その後ろ姿はこんもりと丸く隆起して何かべつの生きものみたい。丸っこいもふもふのかたまり。


画像だとぬいぐるみと変わらないように映るがあたしには容易に実物の存在感が得られた。もふもふのかたまりは生きた本物の存在だ。本物。


……もともとかわいいのだ。


訓練も何かの犠牲もなくすんなりと生まれたままにかわいい。


だからどうしたって言うの。あたしは人間だしさ。

人間が動物にかなうわけないじゃん。ゴリラと格闘家を比べますかって話よ。チーターをオリンピックに出しますかってことよ。

確かイノシシだって直線だけなら人間より速い。


突然、あたしの頭の中には“人外”とか“チート”とかの言葉が浮かんできた。


こんなものにあたしが嫉妬したり憧れたりしてるというのか。


人外やチートは大麻を必要としない、とでも?

人外やチートじゃないから大麻を必要とした、とでも?


違う。

断じて違う。どちらかと言えばあたしは選ばれた人間のはずだ。選ばれたからルールを破ってよいのだ。選ばれてるんだから。


なぜわからない。なぜ認めない。あたしは認めてほしいのだ。


空から声が響いてきた。頭の上から降りかかるようにして。


《お前は見た目はたとえようもなく美しいが、中身はそうでもない》


……表面がすべてで何がわるいの?


あたしがわるいのだとすれば、それは宇宙が狂ってるのよ。






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