ミュルクヴィズの霊剣士
目が覚めると、そこは見慣れた宿の一室だった。
天井から視線を逸らして顔を横に倒すと、すぐにこちらを見ている淡い桜色の瞳と目が合った。
「どれくらい経った?」
「まだ半日程度よ。今はお昼前くらい、かな」
ベッドの隣にはアルシャが椅子に腰掛けていた。心配そうに目を向けてきている。
「半日……」
思ったより時間は経過していないようだが、アルシャの顔にはありありと疲労が滲んでいた。彼女は寝ずにつきっきりで看病してくれていたのだろうか。
「あれから、どうなった?」
それでも先に出て来た言葉は、感謝よりもそんなことだった。
「呼応者は討伐された。もう魔獣が街に出ることはないと思う。市長もすでに街の開放宣言をしたわ。アキラのおかげよ。でもアキラは急に苦しみだしてずっと起きなかったから……」
街が解放されたというのに、アルシャの目は不安を湛えたままだった。
「アキラは、何か病を抱えているの?」
向けられた心配も、今のアキラには、心を抉り憎悪を育む苛立ちの材料でしかなかった。
抱えていたらなんだ。相棒としてがっかりってことか?
そんな彼女の心の内を推しはかったから、答えなかった。
「アルシャ」
「なに?」
「もう僕と同調するのはやめてほしいんだ」
「……どうしてそんなに私を拒むのか、聞いても、いい?」
説明を求めるアルシャに、アキラはどうしたものかと思案する。
――魔人は、憎むべき相手。
アルシャはそう言っていた。少なからずアルシャは魔人を恨み敵対している。
この世界に転移してきた自分のことを知ったら彼女はどう思うか。空間転移や時空転移などの力は霊人にはないようだ。それらはどちらかと言えば、魔人の力の性質に近いのではないだろうか。
その推測を確証に近づける材料が一つある。シスターが魔獣を召喚するときに見た黒い影、あれは、団地の公園でアキラがこの世界に転移したときに見たものと同じものだ。
では仮に、アキラがこの世界に来たことに魔人との縁があったとしたら。そして、アルシャがそれを知ったら。
彼女の持つ霊人の力は、アキラを強化するためではなくて、破壊する力に使われるかもしれない。
そう考え続けると、アキラは安易に打ち明けることに勇気が持てなかった。
答えに窮していると、部屋の扉が乱暴に開けられて小さな体躯が滑り込んできた。
「お、アキラ。大丈夫か?」
何やら布の山を抱えたミトが、その脇から顔を覗かせていた。
「ああ、ミト、僕はもう大丈夫だよ」
「ありがとう、ミト」
アキラに続いてアルシャも礼を述べると、ミトは安心したようににかっと笑った。
「いーって。まあよかったよ。大した怪我じゃなくてさ。アルシャさんの看病が利いたんだろな。アキラ、感謝しとけよー。あ、タオルとシーツここにおいておくけど、いいかな?」
「ええ、ごめんね。手伝わせてしまって」
「いいっていいって。また何か必要だったら何でも言ってくれよ。アルシャさんの頼みならアタシがすぐに用意するからさ」
ミトはアルシャに、えらく気を許した笑顔を向けていた。
(…………?)
疑問は二人の親密さへ向けたものだ。
ミトはアルシャとほぼ初対面のはずだ。アキラが倒れていたのが半日程度なら、二人が知り合ったとしても、付き合いは長くてその程度だろう。なのに、二人の会話にはもっと長く前から知り合っていたような親密さがあった。
「二人は、前から知り合いなのか?」
「あー、えーっと……」
自分の失態に気づいたのか、ミトは気まずそうに頬を掻く。
「実はさ、アキラが教会に行ってる間、アタシはアルシャさんのところに行ってたんだよね」
「……どうしてだ?」
「アキラの連れってことは、アルシャさんも街に入ったばかりで宿が決まってないってことだろ? だから見つけて紹介してやろうと思ったんだ。ここに来るのは断られたけど……」
本人は後ろめたい態度を表しているつもりなのだろう、白状しながら、両手をもじもじと絡ませて下を向いていた。
「それからもちょくちょく連絡しあってたんだ。アキラの様子とか話しに……その度に報酬くれたから」
「そういうことか。まさかミトがアルシャと繋がってたとはね」
通りで魔獣から逃げていたときにアルシャが都合よく待ち構えていたはずだ。全部、アルシャの掌の上だったわけだ。おそらく、何かしらの法術を使って動きも把握されていたのだろう。
ミトを責める気はない。彼女も魔獣騒動の最中、生活を支える資金を貰える相手は喉から手が出るほど欲しかったのだろう。
それでも。くそっ。情けない。
「アキラが言っていた通り、お互いに冷静になる時間が必要だと思ったの」
ミトの釈明を肩代わりするように、アルシャが続けた。
「私も考えたかった。タルキスでアキラが苦しんでいたこととか、コルトリに入ったときに私から距離を取ろうとしていたこととかも――あの偽宣教師のこと、だよね?」
「…………」
「私は、あの宣教師を斬ったことが間違ってるとは思っていない。そうしなければアキラは、確実にあの男に殺されていた」
「……ああ」
「でもアキラにとっては、それすらも苦しいことだったんだってことが、わかった」
「……だから?」
「約束する。この先、アキラと同調して人を傷つけるようなことはしない。でも、その代わり、私の……」
「…………」
アルシャは胸に手を当てて俯き、その先を続けようとしなかった。
早く続きを言えよ。彼女の沈黙の長さに、苛立ちが比例していく。
先に爆発したのは、アキラの方だ。
「僕は、絶対に、暴力には頼らないッ!」
「アキラ……」
「力で物事を解決するなんて間違ってるんだ! それがたとえ、相手がナイフを持っていたとしてもだ! 自分を殺そうとしてきてるやつでもだ!」
反撃することすら、天使の罰の対象なのだ。
いくら天使の罰が嫌でも、殺されてしまえば本末転倒なことくらいアキラにもわかっている。
だがアキラにとっては、誰かを傷つけるくらいなら自分が死ぬ方がマシだった。
それが天使の洗脳によるものだとわかっていても、十年以上矯正されてきた思考はすぐには変えられない。
勢いに任せたアキラに、アルシャは反論しようとはしなかった。代わりに寂しげな笑顔で。
「アキラは、優しすぎるんだね」
何か言ってきたら、すぐにまた言い返してやろうと思っていた。
また何も事情もわかってない馬鹿なことを言い出してきたら、力の限り罵倒してやろうと思っていた。
なのに。
「やさ、しい……って、なん、で……?」
優しい? 優しすぎるって、どういうことだ?
アルシャがどうしてそんなことを言ってきたのか。そのときは本気でわからなかった。
自分でも無茶苦茶だってわかってるんだ。本当に、怒りに任せて口走っただけなのだ。
この異世界は、自分の知ってる常識とは異なる論理で動いてる。宣教師の件だって、アルシャからすれば正当な防衛行動だったに違いない。
彼女にだって信念がある。信ずる倫理がある。それはアキラが持っている他者から与えられた人工のものとは、一線を画する性質のもののはずなのだ。
なのにどうしてアルシャは、自分に怒鳴り返してこない?
ほら、僕の言ってることの方が破綻してるだろ。
なんでお前が悪いって言ってこないんだよ。
見破られているのかもしれないと思った。ご大層なことを叫んでおきながら、本当は、倫理やルールなんてどうでもよくて、自分を守ろうとしているだけだってことが。
(僕は、天使の罰から逃げようとしているだけだ。罰があるから、しないだけなのだ。じゃあ、罰がなくなれば……僕は……?)
――あなたは〈正しき〉を盾にして怠けて生きているだけの、あの男たちにすら劣る最低の存在です。
シスターの言葉が、頭に蘇った。
コロロピといい、ミトといい、シスターといい、そしてアルシャといい。
どうしてこの世界の人々の言葉は、こんなにも的を射ていながら、そしてどこまでも辛辣で残酷に、自分に無いことを証明してくるのだろう。
結局、何においても自分は天使に支配されているのだと、自覚してしまった。
善行も悪行も、アキラの起こす行動は、全て天使のお膝元だ。
力が抜けた。背もたれに深く体重を預けて呟いた。
「お願いだ。早くフェレスラリアに行かせてくれ。僕はもう、それだけでいいんだ……」
「アキラ……私は……」
互いに話を続けられず、重い沈黙が部屋に充満する。
気まずい雰囲気を解消するようにミトがわざとらしく笑った。
「まあまあ、ひとまず下におりて何か食べようぜ。おっちゃんがメシ作って待っててくれてるからさ。立て込んだ話はその後にしなよ」
ミトの提案に乗り、アキラも身を起こして三人で階下に向かった。
階段の途中で、アキラはミトの小さい背中に声をかける。
「そういえばミト。僕が、その、霊剣士だってわかってたのか?」
「いいやー、アルシャさんと話して初めて知ったよ」
「街に入れる人は限られているはずだから、そう思われてるのかと思ってたよ」
「二人組って時点でようやく来たなって最初は思って見てたよ。なのに、急にケンカ始めるんだもん。しかも、アキラは戦えるような人には見えないし。これは外れかーってせっかくだから客にしてやろうとしただけ」
「いやまあ、あれは……」
思い出すとなんとも恥ずかしい醜態だったが。
「でも実際霊剣士だったわけで、まあ、よかったのかな。シスターが魔獣呼応者だったのはやっぱり残念だけどさ。なんやかやで世話にはなってたし」
ミトなりにショックを受けているようで、それ以上シスターに言及しようとはしなかった。
結局、件の霊剣士は間に合わなかったのか。はた迷惑な話だ。彼らが早く到着していれば、自分がこれほど苦しむ必要はなかったのに。
ロビーに降りると、バルカが片手を上げて呼びかけてきた。
「よお、アキラ。起きたか。お前にお客さんが来てるぞ」
「僕に?」
見やると、受付カウンターの前の客用ソファに、見慣れぬ二人の少女が座っていた。二人はアキラが降りてきたことに気づくと静かに立ち上がる。
背が低く、前髪を切り揃えたロングストレートの少女は、格調高い洗練された意匠のコートを着込んでいた。もう一人はボーイッシュな短髪で、こちらはデザインは似ているがもっと身軽そうな格好だ。彼女は軽く睨むようにこちらを見ている。
彼女たちを見て、驚きの声を上げたのはアルシャの方だっだ。
「レーエ……!?」
「アルシャ、知り合いなのか?」
アキラが問うが、アルシャが答える前に小さい方の少女が咳払いをした。
「アキラさんですね? そして、お隣はアルシャさん」
少女は可愛らしく大きな目を細め微笑みながらそう訊いてきた。
「そうだけど……」
アキラが釈然としない顔のまま答えると、途端に少女は目つきを強めた。
「私はここより北の地、暗き森ミュルクヴィズより参りました霊剣士の一、エイミ・ティントレット。隣にいるのは霊人のレーエです。いきなりで申し訳ありませんが、お二人を、霊剣士詐称の疑いで確保させていただきます」
突然宣告された事態に、アキラは目を丸くする他できることがなかった。
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