汗、涎、鼻水、血、
「そんな……」
わずかな廻因鉄の街灯がシスターの影を映す。彼女は身動きを一切取ろうとしなかった。
「あっ……あっ、あ、あぅ……」
表情が見えなくてよかったと思う。地面に広がっていく、理解したくない赤い何かが、シスターの状態を明らかにしていた。この高さでは……。
これは事故だ。だって、僕はシスターを救おうとした。足を踏み外したのはシスター自身で、僕にはどうしようもなかった。
『アキラ……ごめんなさい、手が、届かなかった……』
そうだ。アルシャが僕の操作権を持っていたんだ。僕にできることはなかった。何もなかったんだ。シスターの死に原因があるとしたら、それは僕じゃない。
だからほら、天使の罰はいまだにやってこない。僕は悪くないからだ。
魔獣が相手なら罰はないんだ。シスターも事故だった。だから罰はないんだ。
悪くない。悪くない。悪くない。僕は、悪くない。
「っふ、…………ふへっ、ひ……」
確証を得て、口元が歪む。
自分の正当性は担保された。恐ろしかった天使がなによりもそれを証明している。
『アキラ……?』
アルシャは何か不穏な気配を察したのか、不安げに問いかけてくる。
手で顔を隠すことはできなかったが、唯一動く首を振って醜い笑みをかき消した。数度深呼吸を繰り返して、平静さを保つ。
落ち着きさえできれば、後は身体から余分なものを追い出すだけだ。
「もう、いいだろ。アルシャ。僕の身体から出てくれよ」
『……そうね。もう魔獣は出ないだろうから、いま同調を解く』
すぐに身体から抜けていく解放感。その直後だった。
「 ――!!!」
刹那で、真っ白になった。
「ぐっ、がっ――」
息苦しいほどの嘔吐感。吹き出る汗。全身の筋肉が全て同時に痙攣しはじめる。
忘れようとしてもできないこの感覚。間違いなく、天使の罰だ。
「なんでっ、おがじい、あがァァァッ、あだ、まがああぁあ……」
焼ける、焼ける、焼ける。ちぎれる、脳の、ぶちぶちと、何かが。
「あ、あ、あ、あ、あ、、あ、ああ、あ、あ、、あ、あ、、あ、、あ、、あ、」
地面に蹲って、頭を抱えた。
実際に脳みその細胞が焼けたりちぎれたりしているわけではないが、それでもこの天使による痛みは、アキラに自分の脳が破壊される強烈なイメージを植え付けていた。
「アキラ?」
実体を取り戻したアルシャが、異変を感じ取ってアキラに呼びかけた。
何ら自分の身体に異変を感じていないらしいアルシャの表情を見上げて、アキラは理不尽を感じずにはいられなかった。
(どうして、僕だけッ。魔獣を殺したのは、アルシャなのに!)
こうして天使の罰が発動している以上、魔獣もまた一つの生命としてカウントされているのは間違いない。あるいはシスターのことも、重大な倫理規定違反だと天使は見做しているのかもしれない。
そのどちらか、あるいは両方か。アキラに確かめる術はない。
そして、もう一つわかったことがある。天使の罰はアルシャが同調している間は起こらないのだ。ただし、その間に犯した罪は、アルシャが同調法術を解いたあとにいっきに襲ってくる。おそらく、アルシャが同調してアキラの四肢を支配している間は、なんらかの要因で天使の罰が遮断されているのだろう。
だからアルシャには天使の影響がない。アルシャはアキラが何故苦しんでいるのかがわからない。
これはアキラにとってこの異世界最大の理不尽だった。アルシャが同調法術でアキラを支配し、何か天使の処罰リストに触れることをしたとしても、罰はアルシャではなくアキラが受けることになる。
苦しみの中でそのことを理解したアキラは、地面を転げ回り続けながら天に叫んだ。
「なんでだッ! 僕じゃないじゃないか! 僕がやったんじゃないのに!」
頭を掻きむしり、地面に打ち付ける。皮膚が破れて血が流れ出ても気にならなかった。
「おかしいだろッ! 機械のくせに! ぽんこつじゃないか! なんで、わからないんだ! ここは異世界なんだよ! わかれよっ! 元の世界のルールは通用しないんだよ!」
頭の中の人工知能を罵倒したところで、返事が期待できるはずもない。
一人で暴れ出したアキラを前にしてアルシャは戸惑うばかりだった。
「……アキラ、一体何が……私は、どうすれば」
まだ呑気なことを言っているアルシャにも、アキラの牙は剥いた。
「君のせいだ! アルシャ、君が僕を使ってあんなことをした! だから僕はこんな目に遭ってるんだ! 全部、君のせいだ! この、悪魔め!」
言ってやった。叫んでやった。思いの丈を。
君がした行いを理解しろ。君だって受けるべき償いの痛撃を僕の叫びから感じ取れ。
「アキラ、どうしたの? 何を伝えようとしているの?」
アルシャはアキラの声を上手く聞き取れないらしい。アキラの声は、筋肉が強ばって言葉が上手く言葉として伝わっていないのだ。
「き、みぐああ、あぐ、あっあっ、いたいいいぃぃ、でん、のぉ、ばつ、がああぁぁぁ」
痛みに呻き喘ぐ中に悪罵を差し込んだところで、まともに聞き取れやしない。
アルシャもまた、アキラの吐いた言葉が自分に向けられた呪詛であることも知らずに、アキラに密着するように肩を抱き必死になだめようとしていた。
「アキラ! 気をしっかり持って。どうして、こんなに……」
激痛の中でも、彼女の柔らかい包み込むような感触を感じた。
普段であればそんな接触にもどぎまぎしていたかもしれない。
原因にそんな慰めはしてほしくないと撥ね除けたかったが、アキラは持てる全ての集中を痛みに耐えることに使うしかなく、そんな余力は与えられなかった。
はやく。はやく終わってくれ。じゃなきゃ、死んでしまう。
もう目は焦点も合わず何も映していない。唇が地面に触れ涎が砂を吸い付けても、起き上がる気力は湧いてこなかった。
彼岸で波が引いていくように、その感覚は神秘的ですらあった。
痛みの極地を乗り越えたアキラにようやくもたらされた安らぎ。
限度を超えた苦痛ですでに意識を失っていたアキラに、自分が弛緩した身体で蹲ったまま満面の笑みを浮かべていたことなど、まるで自覚はなかった。
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