同じことを望んでいたから



 魔獣はアキラ――アルシャによって首を切り落とされ、息絶えた。もはや身動きする気配はない。


「そんな、私の、白獅子王が……。あり得ない、魔人から授かりし力なのに……っ」


 シスターは錯乱し、目は驚愕に見開かれていた。


「いやあああァァァ!」


 頬を掻き金切り声を上げ、シスターは駆け出し角に消える。


「シスターの様子が変だ。アルシャ。魔獣呼応者が魔獣を失ったら何か影響があるのか?」


『魔獣呼応者は、魔獣の声を聞く、と言われているわ。だから呼応者なの。魔獣は人間の精神に棲みつく。その声は人間の依存心を刺激して心の支柱になりかわってしまう、って』


「心の支柱……。じゃあ魔獣を倒してしまったら?」


『人間が心の拠り所をなくせばどうなるか。それは人間であるアキラの方がわかるんじゃないかな』


 要は喜ばしい結果には繋がらないということだ。


「大変だ。助けなきゃ」


『このまま追うわ。法術で追いつける』


 まだ身体を明け渡してくれるわけではないようだとわかって、アキラは歯がみする。


「少し待ってくれ。お願いだ、アルシャ。シスターを傷つけないでほしい。もう魔獣がいないなら殺したりする必要はないんだろう?」


『……魔人も、魔獣も、憎むべき相手よ。呼応者もまた、悪影響しか与えない。人間にも、霊人にもね』


「アルシャ……」


『でも私はまだ彼女に聞きたいことがある。だから不必要に傷つけるようなことはしないわ』


「わかった……追ってくれ」


 入り組んだ街中を追うのはシスターの方に地の利があり、すぐに見失ってしまった。法術のあるアルシャでもなかなか追いつけないが、それも時間の問題だった。


「あそこだ」


 アキラが街を囲む壁に点在する見張り塔の一つに昇っているシスターの姿を見つけた。円柱型の見張り塔には、外側を昇れるように曲がりくねった階段が据え付けられている。


『跳ぶから気をつけて』


 アキラは一度地面にしゃがみ込む。両脚に力が込められていくのがわかる。予期する衝撃に耐えられるように、歯を力の限り食いしばった。


 ひとっ飛びで見張り塔の半分以上の高さまで到達した。ここからなら、声だって届く。


「シスター、待って! 僕はあなたを助けたいんだ!」


 アルシャが追うのなら、シスターを説得するのは自分の役割だ。


 このまま彼女を放っておくわけにはいかない。シスターがいなければ教会の子供たちはどうなる? 彼女だって魔獣の力を得るまでは、善良な人間だったはずだ。悔い改めれば、きっと更正してくれる。


 そう信じて声をかけ続けたが、しかしアキラの言葉はシスターに届かない。


「いやっ、来ないでッ」


 ケープはどこかに飛んでいったのか、髪を振り乱して逃げ回るシスターは完全に怯えきった表情をしていた。


 やがて見張り塔の屋上に辿り着くと、シスターはすっかり暗くなった空に向かって両腕を掲げた。


「魔人よ! どうか私を聞き入れて! 私にはまだ魔獣が必要なの!」


 まだ諦めていないシスターに、アキラはもの悲しさすら感じるようになっていた。


「シスタ……」


『待って』


「アルシャ?」


『魔人を呼ぼうとしている。もしかしたら、本当に出てくるかもしれない』


「ま、魔人って。それもっとヤバいことになるんじゃないのか?」


『しっ、黙って。少し様子を見る』


 ごくりと喉を鳴らす。身体を動かせないアキラは成り行きを見守るしかない。


 だが、いくら時間が経っても変化は起こらない。


『…………いないようね』


 そう呟くアルシャは、どこか残念そうだった。


 取り乱したのはシスターだ。


「どうしてッ、どうしてあの一体だけなの! 私にはまだ必要なのよ! 〈正しき〉街の姿を取りもどすには、魔獣が必要なの!」


 シスターの傍にゆっくりと近付いた。刺激しないよう、穏やかな声で。


「シスター、もう終わったんです。諦めましょう。魔獣に頼るなんて間違いだったんです」


 シスターは険しい表情でアキラに歯を剥く。


「違うわッ! 私はッ、私が導けば街に調和が訪れると思っただけッ。魔人の力は、そのために必要だっただけにすぎないの!」


「っ、そのために、邪魔な人間は殺しても構わないと……?」


「だって、そうでしょう? 人間皆が平和のままでいられるには、数が多すぎるわ。人間は際限なく増え続ける。それが魔人の示唆だった。だからッ、アキラさん、あなたのような人間だけがいればいいと思った……わかるでしょう……? アキラさんなら」


 不意に同意を求められて、アキラは面食らう。


「え……?」


「自分と同じように善行を重ねる人間だけがいればいいと考えたことがあるでしょう? そしてそんな人間だけが報われる世界になるべきだと考えたことがあるでしょう?」


「それは……」


 何度も思った。


 なんでルールに従えないやつらがこんなにも多いのかと。


 自分こそが報われるべきだと。


「〈正しき〉ことの価値を理解している人間だけがいれば自然とその場所は正しくなる! だからこそ! アキラさんだって欲しかったでしょう! 〈悪しき〉を行う者たちを裁く力が!」


 同じ倫理を共有する人間だけが集団を作るなら、確かにそこは天国に近いかもしれない。


 そう感じた。シスターは、天使になりたがっているのだ。


「手に入れたときに抗うことができる? できるはずがないわ。私は手に入れた。だから行使した。ただそれだけよ!」


 天使の側へ、行くために。


 彼女の言葉を完全に否定することはできなかった。


 アキラとシスター・フィアナを分けたのは、霊人か魔人か、そのどちらかの差でしかなかったのかもしれない。そう思えるほどに、アキラとシスターの考え方は根本が似通っていた。


 でもだからこそ、アキラは彼女を否定する必要があった。


「シスター……、僕は本当に、あの教会が自分の居場所になるんじゃないかって思ってたんです。自分の行動が初めてあんなに認められた。嬉しかったんです」


 とても小さくはあったけれど、アキラが一時の安寧を得られていたのは、シスターがいたからに他ならない。


 だからシスターが魔獣呼応者だとわかった後でも、彼女を助けたいと思っていた。天使の罰を覚悟して魔獣に立ち向かおうと思ったのは、シスターをこそ救いたかったからだ。


「シスターの言う通りです。僕は同じように考えていた。自分が報われないことを怨んでいた。なんで簡単な決まり事も守れない人ばっかりなんだろうって、こいつらがいなくなれば僕は幸せになれるのにって、ずっと思っていた」


 シスターが言っていた通り、世界がアキラのような人間だけで満たされれば、そこはアキラにとっては理想の楽園なのかもしれない。


 そしてその楽園からあぶれる者を排除し続ければ、きっと楽園の安寧は保たれるのだろう。


「でも、あなたがそれをしちゃ駄目なんですよ……!」


 悪しき人間を際限なく葬れる力を持ったとして、一個の人間に天使の清廉さが保てるか。


 善の極地とは、詰まるところ「それ以外」の排除でしか成されない。反発は悪と見做され排除の対象となる。現にシスターは、アキラを排除しようとした。


 いかに崇高な思想を持っていたとしても、それはもはや天使ではない。


 単なる、人間世界の王だ。


「僕は怖かった。いつ自分が規則を破ってしまうんだろうって、ずっと怯えていた。天使がいることを知ってから、僕は何より天使が恐ろしくなった」


 最も、天使の恐ろしさを知っている人間として。


 アキラは、シスターに天使になってほしくはなかった。


「僕はシスターに、そんな恐ろしい存在になってほしくはないんだ」


 どんなに世の中にユージたちのような人間が蔓延していたとしても、アキラは天使になりたかったわけじゃない。


 どんなに強大な力を持っても、人間は、天使にはなれない。


 本当に天使になれる存在というのは、それこそ人工知能のような無機質で無感情の、リーゼのような小さな鉄の塊だけなのかもしれない。


「お願いします。魔人や魔獣のことなんて忘れて、一緒に教会に帰りましょう。きっと子供たちも待ってる。子供たちと笑い合いながら、勉強を教えている姿を見せてください」


 似ていたから。初めて会った、無くしたと思っていた自分の価値を、埋めてくれる人だと思ったから。


「だって僕は、僕は、そんなあなたのことが、好きなんだ」


 それは偽らざる、自分の気持ちだった。


 シスターは虚ろな目で茫然と聞き入っていたが、すぐに興味を無くしたように目を逸らした。


「知らないわ。そんなこと。私には関係ない」


「……っ!」


 シスターの目に、もうアキラへの執着は見られない。同意を得られなかった時点で、シスターはアキラを見るのをやめていた。絶望に縁取られ正気を失った両目は、虚ろに夜の光を映し出すだけだ。


『今ここで説得するのは無理よ。魔獣を失った呼応者に冷静な思考はできない』


「……くっ」


『一度連れ帰りましょう。情報は後からでも引き出せる』


「わかった」


 アルシャに同意し、歩み寄っていくのに合わせて声をかけ続ける。


「シスター、僕が一緒に行きます。一緒に償います。さあ、この手を取って」


「嫌よッ!」  


 シスターは差し出されたアキラの手を強く撥ね除けた。その反動で体勢を大きく崩す。その体勢でなお、彼女はアキラから離れ逃げようとした。


 コルトリ市街を囲む壁と塔は、煉瓦造りの古い建造物だ。数百年はその形を留めているものの、劣化により脆い部分も当然でてくる。


「危ないッ!」


「あっ………………」


 伸ばされたアキラの手に触れることさえできず、縁に寄りかかり支えをなくした彼女の身体は――。






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