霊剣士の戦い方
それは神々しさすら感じるバケモノだった。
頭部は鬣を持つ獅子に似た造形で、胴体を大型霊長類のように前傾姿勢にしている。それを支える前腕は脚の倍以上の太さがあり、地に触れる爪は鷲のように鱗に覆われていた。体長は三メートルは超えるだろう。それら肉体の全てが、輝きのない幽(くら)い白一色に染まっている。
中空に広がった黒い靄から藻掻くように這い出てきたそれは、地に足をつけるとシスターの隣で鎮座する。
白濁した虹彩がアキラをしっかりと捉え、何かを待つように喉を鳴らしていた。
「はは……やだなぁ、シスター。それ、びっくりさせようとしてるんですよね?」
この期に及んで現実を認めようとせず、呑気に魔獣を指さすアキラに、シスターは後方を一瞥することで返した。
それは指示だった。魔獣は身を翻すと、その極太の腕を一薙ぎする。
男の首――と胸と腹と両脚がそれぞれ何の抵抗も感じさせずに分断された。
悲鳴すら聞こえなかった。囲いを失った血と臓物が教会の床で面積を広げていく。
シスターの激情の表出だったのかもしれない。教会が汚れることすら厭わない見せしめのようなシスターの虐殺が、アキラに対する失望の度合いを表している。
「ひっ」
頭上を、突進してきた獅子型の魔獣の腕が通り過ぎる。
迫ってくる魔獣に腰を抜かし、へたり込んだのが幸いした。魔獣の爪はアキラの首を切断することなく教会の長椅子をいくつも吹き飛ばした。
長椅子が瓦礫と化しながら、飾り棚にぶつかり銀食器や燭台が派手な音を立てて散らばる。
「あらあら。私としたことが。ここで暴れるのは得策ではないですね。私にはまだここでやらねばならないことがあるのに。壊れたものは後日子供たちに片付けてもらうとしましょうか」
なんてことの無い日常の一幕を語るようにシスターは穏やかに振る舞うが、その目には自分の成すべきことを達成するという力強い意思が宿っていた。
「まずはこの街から〈悪しき〉を滅し〈正しき〉人間だけで満たす。それが私の使命」
シスターは誘うように右腕を伸ばし、アキラに向ける。
「さあ、アキラさん。これがあなたの最後の善行ですよ」
その手が招くのは、アキラの死だ。
「わあああっ!」
アキラはナイフをかなぐり捨てて、扉へ走った。
突進して力尽くで開け外に出る。すぐに扉を盾にするように閉めてから、アキラは広場を横断するように逃げようとした。
しかし、直後に魔獣は容易く扉を突き破って外に飛び出してきた。
その勢いに吹き飛ばされて近くにいたアキラは体勢を崩し、アキラはひっくり返って地べたに転がる。
見上げる魔獣は、笑っているようにさえ見えた。
――殺される。
あれほど元の世界では自分を殺してくれる悪魔を求めていたというのに、いざそれが目の前に現れてみるとそこには諦観など訪れず、ただひたすらに恐怖に震え生にしがみついていた。
何かを。何でもいい。この状況を打開できる何かを。
無意識に手にしたのは、コロロピから貰った廻因鉄だった。
「さようなら。アキラさん。あなたは最後の最後で〈正しき〉道を踏み外した」
シスターの別れの挨拶に呼応するように、魔獣が腕を振り上げる。
――死にたくない。
刹那に進んでいく細切れの時間の中で、アキラは自分を指に嵌めた廻因鉄を力の限り回転させた。廻因鉄はアキラの指を音を立てるほどに高速で回転を始める。中に込められた因子がアキラの指を通り、現象を起こす。
こんな玩具が魔獣に利くとは思えない。それでも、何もしないで死ぬよりはマシだ。
アキラは指先を魔獣へ向ける。
イメージは魔法のそれだ。自分の中の力の源を振り絞って手先に集中する。廻因鉄はアキラの願いに応えるように、因子を光に変換し、指先から無数の光弾を射出した。
廻因鉄は回転の強さで出力を調整する。子供たちに見せたような小さな花火ではない。極大の光の粒が、噴水のように四方八方に飛び散って魔獣にぶつかり弾けていく。
直後、魔獣の腕が自分の頭に向けて落ちてくる気配を感じた。魔獣は、怯んですらいなかった。
「――――っ!」
振り下ろされた魔獣の腕は、アキラの頭からわずかに逸れた場所に振り下ろされ、石畳を割っていた。
「アキラさん、何を……っ」
シスターが目を眩まして腕で顔を拭っている。アキラの指から放たれた光のいくつかが、魔獣の脇に立っていたシスターの顔にも飛んでいっていたせいだろう。
(もしかして、五覚が連動しているのか?)
魔獣には怯んだ様子はないのに、アキラのいる場所から狙いを誤っているところを見ると、その可能性は高い。光のせいでわずかに目測がズレたのだ。
アキラは起ち上がった。魔獣はアキラを追おうとしない。推測は当たっているようだ。シスターが見失えば、魔獣もアキラを見失う。
これ以上の転機はない。アキラは異世界に来てもう何度目かわからない逃走を再開した。
自分を守ってくれた廻因鉄を摩る。すると、廻因鉄は因子を使い切ったためか、少し力を込めただけでぐにゃりと曲がり、千切れて崩れてしまった。
もう二度と同じ手は使えない。今のうちに距離を取って完全に姿を隠さないと。
アキラは暗がりの中で路地の一つに入り込む。建物の間の小さな隙間のような道だ。身を隠すには最適かと思ったが、すぐに通り抜けてしまう。
まだ十分に離れられていないままで、また広い場所に出て来てしまっていた。
そこへ。
「アキラ、こっち」
「アルシャ!?」
声に振り向いて目の前に現れたのは、夜の中でもはっきりとその白く可憐な輪郭を浮かび上がらせるアルシャの顔だ。
「よかった、出てきてくれて。まさかアキラを殺そうとするなんて思わなかったから、焦っちゃった」
「なんでこんなところに?」
「あなたは私の魂の一つを持っているの。はぐれたからっていつまでもそのままにしておくはずがないでしょう。どこにいるかくらいは把握していたわ」
「み、見てたのか?」
聞くと、アルシャはなぜか面白くなさそうな顔で、
「中で何をしてたのかまでは知らないわ。知ってるのは、アキラがえらくあの人間にご執心だったことくらい、かな」
「ううぇえ!」
奇声で恥ずかしさを誤魔化すも、すぐに冷静になって、
「って、そんなことをのんびり話してる場合じゃない。シスターが魔獣呼応者だったんだ。アルシャ、逃げないと!」
アキラの必死の形相の訴えにも、彼女は揺らがなかった。
「逃げる必要はないの」
「なんでだよ! あんなバケモノが襲ってきてるんだぞ!」
「私にはあれを倒す力がある」
「何を馬鹿なこと言ってるんだ。いくらアルシャでもあんなのに勝てるわけないだろ!」
彼女は確かに人間を超越した存在かもしれないが、相手があれでは勝てる見込みなど持てるはずがない。あんなものに立ち向かおうとする態度の方が狂って見えた。
しかし彼女の断言は、何者の反論も寄せ付けない力強さを持っていた。
「勝てるわ。アキラがいれば」
ハッとして距離を取ろうとしたのも一瞬遅かった。アルシャは素早くアキラの手に触れる。
「しまっ……」
アルシャの姿はかき消え、アキラは肉体の操作権を失った。
悪魔の支配が始まる。
即座にアキラは――アキラの身体の支配権を得たアルシャは、その場から飛び退いた。舌を噛みそうになって文句が口まで出かかったが、白い影が視界に飛び込んできて無駄口を閉じた。
アキラが立っていた場所に真上から降ってきたのは、あのバケモノ、魔獣だ。
悠長に話している間に、とっくに追いつかれていた。
「無粋ですね、アキラさん。私との逢瀬に他の女を連れてきていたなんて」
笑みを浮かべたシスターが魔獣の隣から姿をのぞかせた。
「誰かと話していたようですが、逃げる算段はつきましたか?」
「違う……僕は、いやだ……いやなのに」
「アキラさん? もう一人はどこへ……」
様子がおかしいアキラに、シスターは首を傾げる。
その間に、アキラの右手からは霊銀のフランベルジュが生まれていく。
苦悶に表情を歪めるアキラ。身体だけは淀みなく柄を握り構え、切っ先を向ける。
「その力は……そうでしたか。まさかあなたが霊剣士だったとは。ふふ、ふふふ、ふふふふふふ――。すっかり騙されてしまいました。もはや清々しいほどですよ」
「違う、僕はこんなことしたくない……」
怯えるアキラの顔を見て、シスターは奇妙な印象を受け取ったらしい。試すようにまた手を差し伸ばしてくる。
「アキラさん、今からでもこちら側に来てくれませんか? 魔人の力を得た私と、霊人の力を得たあなたが組めば、私の使命をより完全にすることだってできるでしょう」
「無理、無理なんです。僕には何もできない。これは僕の意思じゃないんだ」
首を振り続けるだけのアキラ。頷いたところで、身体は言うことを聞かない。
アルシャは何かの攻撃意図だと警戒していたようだ。魔獣の動きに即応できるようにさらに腰を落としてわずかに踵を上げる。
『用心して。何をしてくるかわからない。アキラは身体の力を抜いて、そのまま目を逸らさないで』
「嫌だよ……なんで僕に、こんなことさせるんだよ……」
無茶を振ってくるアルシャに、アキラは怯えが拭えない。
「あなただから、ですよ。アキラさん」
アルシャへの返答を自分に対するものだと思ったのか、シスターが言った。
「わけがわからないですよ……。僕はただ、正しいことをしたかっただけなのに」
シスターに向けた言葉に、今度はアルシャが応えた。
『魔獣を放置すれば街が甚大な被害を被る。アキラ、あなたがいなければもっと多くの人が死ぬかもしれない。呼応者を見つけた今、ここで倒すことが何よりも正しいことなの』
「ずるいよそんなの。僕の意思がまるきり無視されてるじゃないか。それなのに、正しいって……」
「統治者とはずるいものなのですよ。ですが、それは必要なことでそこに個人の意思など入り込む隙なんてないのです。それを理解してこそ正しい人間となれるのに、そこから逃げることの方が卑怯者だと思いませんか?」
「そんなの、逃げますよ……。だって僕は誰かを傷つけたくないんだ。傷つけられるのも嫌なんだ」
『なら私たちは自分の身を自分で守るしかない。魔獣は人間の決まりなんか守ってはくれない。魔獣はみんなの生活を簡単に奪い去るの。アキラがいれば、それを食い止めることができるのよ』
「僕はそんな大層なことを望んでたんじゃない。居場所が欲しかっただけなんだ。ここなら、僕の居場所になるって。本当に、それだけなんだよ……」
「自分の居場所なんてものはね、アキラさん。自分自身の力で作る以外に手に入れる方法はないんですよ」
否定に否定が重ねられて、アキラの二つの選択肢はじわじわとにじり寄ってくる。
「『だから」』
声が重なり、二人は最後の選択を迫る。
「私と共にイきましょう? アキラさん」
『アキラ、耳を貸しちゃダメ。私に、委ねて』
二方向からの甘い声の誘惑。しかしそれは赤く丸い毒の果実にも似て。
「どっちも、嫌だぁッ!」
アキラの拒絶の咆哮と共に、魔獣が跳びかかってくる。アルシャは即座に反応した。バックステップで距離を取って、腕を振り抜いた魔獣の隙に果敢に飛び込んでいく。
魔獣の反応もまた素早かった。四肢を張り軽く跳躍すると、壁を使って覆い被さるように襲ってくる。アキラではもはや目が追いつかないほどの俊敏さだが、アルシャには知覚できているようだった。魔獣の接近に対しわずかな隙間を瞬時に見極め、そこへ迷いなく転がり直撃を避けていく。
上下左右の激しい動きに舌を噛みそうになりながらも、アキラは喚き続けることをやめられなかった。
「僕には天使がいるんだ! だから! したくないのに!」
自分の意思に反して、身体は魔獣と交戦を続ける。
アルシャはフランベルジュを後ろ向きに腰だめに構え、跳んでくる魔獣を迎え撃つ体勢へ。
アルシャが同調し法術で強化されている間は、インドア派で細身体型のアキラにさえ人間の限界を超えた筋力を発揮してくれる。柄を握り潰すのかと思うほど込められた力の感触が、アキラの脳にも伝わってきていた。
魔獣が向かってくるのに合わせ、アルシャがフランベルジュを力任せに振った。
空間を鳴らす衝突音。激しくぶつかり合う魔獣の腕と霊銀の刃。互いの力が数秒の間拮抗しその場に留まった。
『く、っ、う――』
が、さすがにあの極太の腕から繰り出される怪力にはアルシャも競り負けた。振り抜かれ爪が身体に届く前に剣から力を逃がし、跳んで距離を取る。
「っや、やめっ、やめてくれ! もう――」
この数十秒の間にバケモノとの超接近を繰り返し目の前で体験したアキラの顔は、血の気の引いた青とがちがちと鳴る歯で完全に怯えの色に染まっていた。
魔獣もアルシャも、アキラの息が整うのを待ってはくれない。すぐさま開始された互いの死を望むやり取りが目前で展開され、アキラも避けるように視線を逸らす。
そんな歪な戦闘状態の中にあって、最初にダメージを与えたのは、アルシャの方だった。
捻る身体で流れる水のように自分に向かってくる力を受け流し、アルシャはフランベルジュを魔獣の腕に走らせる。
その後には、霊銀製の鋭い刃が、魔獣の腕に刀身よりも長く深い傷を残していた。
鮮血が撒き散らされる。動物と同じ色をした、真っ赤な血が。
「あ……、あ、あ……」
やってしまった。自分の身体が生き物を傷つけた。
魔獣という超知の存在にも同じ血が流れているのだと感慨を抱く前に思い出されるのは、宣教師を刺したときのこと。
くる。あれがくる。天使の罰が。あの苦しみが。
しかしそんな恐怖に戦いている暇を、アルシャも魔獣も与えてはくれなかった。
「ああああッッ!」
魔獣との戦闘の単純な恐怖。天使の罰を予期する戦慄。アキラの顔は涙と鼻水と涎でぐちょぐちょだった。腕を自由に動かすこともできないから、顔から出てくる液体は全て垂れ流しだ。
そんな状態だというのに、アルシャはさらに注文をつけてくる。
『目を閉じないで。私に届く情報が半減してしまう』
知ったこっちゃない。そんなこと知ったこっちゃないけど。
目の前の魔獣の爪は、硬い壁すら容易に切り崩す。
あんなものをまともに喰らえば、痛いでは済まない。
「魔獣に殺されるのも、嫌だああああ!」
アキラの駄々を伴いながら、魔獣との交錯は加速する。
(こんな動き、絶対僕にはできないはずなのにっ!)
アルシャが憑依している間は、アキラの身体は人間とは思えない機敏で限界を超えた速さと俊敏さを備えた身のこなしに変わる。むしろアキラ自身の目の方が追いつけていない。身体が傾いたと思ったら、そのすぐ傍を魔獣の太い腕が風を斬って過ぎていくのだ。
アキラがダメージを受けないのは、アルシャの技量故だろう。
自分を支配する者が剣戟の達人であることに感謝すべきだろうが、アキラにそんな感傷を抱くほどの余裕はない。
端から見ればなんとも奇妙な光景だろう。
いやだいやだと叫びながら顔中の液体を撒き散らす青年が、熟練の身のこなしで魔獣に跳びかかっていくのだから。
「さすがは霊剣士。魔獣との体格差すらものともせず互角に渡り合うなんて。霊人など人間に棲みつく寄生虫の類いだと思っていたけれど、侮れないものですね」
シスターの嘲る言葉に、
『どっちが!』
とアルシャがアキラの中で叫んでいたのは、シスターには聞こえていなかっただろうが。
それからしばらくは、お互いに有効な一撃を与えられずに一進一退の攻防が続いていた。縦横無尽に跳ね回るアルシャの後ろを、魔獣は地を鳴らす爆音の踏み込みで追い縋る。
先に状況を動かそうとしたのはアルシャだった。
『あの女を先にやる!』
「まっ、だめだ、アルシャ!」
アキラの声だけの制止も意味をなさず、アルシャは魔獣のわずかな隙を誘い脇を潜り抜け、棒立ちのシスターの正面に向けて跳んだ。
しかしシスターは迫り来るアキラに向けて、口角を高く上げ無防備のまま不敵に笑っていた。
切っ先がシスターの胸に届く直前、真上から魔獣が振り降りてきて突き出されるフランベルジュの真横から腕を払う。剣の腹をまともにおもいきり打たれて剣先は大きく逸れていた。
『くっ!』
剣筋を乱されて体勢を崩すアルシャ。衝撃で握力を保持できなかったのか、腕を巻き込むほどに振動するフランベルジュを手放して素早く退避する。
『あの魔獣、思った以上に反応が疾い。むしろ誘われたのはこっちね。咄嗟に半歩動きを止めてなかったら、私の方がやられてた。呼応者を先に無力化するのは無理っぽい、かな』
わずかに焦りを帯びたアルシャの声。アキラには何が起きていたのかすら理解できない一瞬で、また死地を往復していたらしい。
「そうだよ。無理だって。もうやめよう。シスターだって話せばわかってくれる!」
必死の懇願の答えは、また右手に生まれたフランベルジュが物語っていた。
無限に生み出せる霊銀の刃。互いに持てる武器が尽きることはない。
魔獣の喉を鳴らす唸りは、野生を越えた超生物的な人間憎悪を孕んでいるようにも見えた。諦めるということを知らない死を求める情動が、アキラを射竦め震えさせる。
そしてアルシャもまた、魔獣を倒すまで闘志を絶やしたりはしない。
『来る』
魔獣の呼吸を読んだアルシャが身構える。
ロケットのように真っ直ぐ跳んできた魔獣を、アルシャは横に跳んで避けた。魔獣はそのまま建物に突っ込み壁を破壊しそれでもなお止まらず内部も崩してようやく止まるが、魔獣自身には何らダメージはないようだ。
魔獣の白い眼が、廃墟となった壁の中から怪しい光を放ってまたこちらを見据えている。
些かも勢いが衰えていない魔獣の巨軀が一際大きくなったと錯覚するほどにアキラは威圧され、いかに自分が矮小な存在であるかを思い知らされた。
対してこちらの攻撃は大した有効打ともなっていない。アキラには結果よりも絶望の方が先んじて訪れていた。
「このまま続けたってどうせ僕たちが負ける。もうやめよう! 僕はもうしたくないんだ! こんなこと。もう二度と!」
『……そうね。今のままじゃ、結構辛いかも。勝つためには、アキラが――』
と彼女が言いかけたところで、また魔獣が跳びかかってくる。今度は上からだ。狼のように四肢を張って走ってきた魔獣はアキラの手前で軽く跳躍し、爪を大きく開いて周囲の地面ごとアキラを巻き込もうとする。
地に伏せ姿勢を低くした状態からアルシャは爪の間を縫って切り抜ける。敷き詰められた煉瓦が砕けながら四方に飛ぶが、彼女はそれすら避けながらバランスを保ち、体勢を整える。
これだけの動きができるのも、アルシャがアキラの身体を支配しているからだ。アキラは何の邪魔もしていない。なのに、彼女はまだアキラに要望があるらしい。
「これ以上僕にどうしろって言うんだよ!」
『アキラの、意思がほしい』
「……意思?」
『私が操作していると言っても、結局はアキラの身体なのよ。アキラが抵抗を示せば、それだけ動きは鈍くなる』
追ってきた魔獣を躱しながら、アルシャは魔獣が慣性の反動で動きが止まった隙に大きく退がり、アキラに説明を続ける。
『今は一つの身体の中にある二つの魂が、相反する意思を持っている状態なの。だからアキラが私と同じ方向性の意思を持てば、私はもっと動ける』
これだけの攻防戦を繰り広げていながら、彼女はまだ動きが鈍いという。
「んなこと……言われたって」
頭の中で応援しろとでも言うつもりだろうか。
そんな子供向けのヒーローアニメみたいなこと言われたところで納得できるものではない。
つまりアルシャは言っているのだ。アキラに、殺す意思を持てと。
できるわけがない。頷けるわけがない。だって。
いるんだよ。僕には。天使が。
『アキラの協力が必要なの』
「でも……」
どうして皆自分の話を聞いてくれないのかと心に怒りが燻ってくる。
「さあ、もう諦めなさい、アキラさん」
シスターは魔獣が優位を保っているとみているのか、その笑みには嗜虐的な色が増していた。
「ぐ……」
唇を強く噛んで、口を噤む。
シスターとの対話を諦めたわけではない。アキラとてわかっているのだ。
魔獣はアキラを殺すまで止まらない。こんな動き回っている状況では、シスターを説得することも不可能だ。
今の事態を打開するには、魔獣を下す以外に、方法はないと。
『お願い、アキラ。目を開いて、逸らさないで。魔獣の呼吸を聞いて。私の声を聞いて。私たちは、あの魔獣を倒せる』
脳を掻くようなアルシャの真摯な声が、アキラを揺るがせる。
アルシャの言葉を丸ごと呑み込めたわけではない。反論できるなら、いくらでもしてやりたい。それでも、
「っう、うわあああああッ!!!」
その叫びは、悲鳴ではなく、破れかぶれの覚悟の雄叫びだった。
目を見開いた。閉じるつもりもないほどの決意で。
もう目を逸らすつもりもない。どこにいたって視界に捉えてやる。
そのわずかに滾らせただけの魔獣への敵意の変化が、アキラの身体にも表れていた。
アルシャの同調法術は、霊銀で剣を作るだけのものだと思っていた。しかし今は、アキラの手足を覆うように、さらに霊銀が滲みはじめていた。
それは鎧というにはあまりにも頼りなく、ただ手首と足首を鱗のように包むだけのものだったが、ただそれだけの変化が、不思議なほどにアルシャにも影響を与えたらしい。
『……!』
彼女も変化を感じ取ったのか、頭の中でアルシャの意識が瞬いたのを感じた。
天使のことは今は忘れよう。
アルシャが望むなら、今だけは悪魔の支配を完全に受け入れてやる。
「アルシャ、また来るよ」
言うと、彼女はだらんと両腕の力を抜いて構えを解いた。
「えっ、なんで?」
決意の直後での戦闘行為とは真逆の動きに、アキラは間抜けな声を出す。
宣言通り魔獣から目は離さなかったものの、迫り来る魔獣の巨軀にアキラは思わず悲鳴をあげる。
「わあああっ!!」
直後、視界が飛んだ。
目を見開いていてさえ、何が起こったのかわからなかった。今のすれ違いの一瞬で、両手で握ったフランベルジュが魔獣の脇腹を大きく切り裂いていたのだ。
「そんな、どうして!」
シスターにも動きの変化は掴めたのか、初めて動揺した声をあげていた。
さっきまでは避けることが精一杯だったというのに、アルシャは避けると同時、中空で剣を構え直し、飛び散る瓦礫を足場にすらして魔獣の導線に剣を置くように切り裂いた。
今までの動きとの解像度が違うとでもいえばいいだろうか。同じ時間内で起こした行動の数が、明らかに増えている。直前で力を抜いたのは、加速のための準備だったのだ。
あれだけ一撃を与えるのに苦戦していたというのに、アキラの心持ちが変わっただけでこうも動きが変わるものなのか。
驚くアキラの前で、大量の血を流す魔獣は、それでも鈍らず傷を気にした様子もない。
『こっちから攻める』
宣言が、アキラの鼓動を早くした。
魔獣に劣らない大きな踏み込み音を残して、アルシャは突撃する。風圧にアキラの頬がたなびくが、目を逸らさない誓いだけは背かなかった。
握る霊銀の塊は、重さすら変わっている気さえした。もはやアルシャの動きを阻害する外力は何もない。空気の抵抗も、重力も、全てがアルシャの理想を叶えるための補助になった。
走り寄る青年の身体を押し潰そうと魔獣の掌が正面から迫る。
アルシャはそれを走る勢いを殺さないまま、片足だけの軽い跳躍と反転で難なく躱し、魔獣の腕を駆け上った。魔獣は身悶えして掴みかかるが、わずかに遅い。アルシャはそのまま首を通り抜け、背中側から地面に着地した。
初めからそれが狙い。魔獣が振り返る間に、局面を詰めに至らせるだけの一撃に転ずるための時間を得た。
『あああアアアッ!」
二人の重なった声とともに、フランベルジュが一閃される。
その一撃で決した。魔獣は両の脚を切断され、身体を支えられずに地に伏せる。
そんな状態にあってなお、魔獣は苦悶の悲鳴をあげることなくアキラに腕を伸ばそうとするが、アルシャの高い跳躍に阻まれて届かない。
「やめて!」
シスターの悲痛な叫びがアキラにも聞こえた。だがもう止められない。
屋根の高さまで跳び上がったアルシャは、空中でフランベルジュを逆手に持ち替える。
落下のエネルギーを得て真っ直ぐに地に伏せた魔獣の首へ落ちていく。フランベルジュの切っ先が、いとも容易く魔獣の首に突き刺さった。肉を裂いていく感触。骨を砕く感触。生々しいその感触が鍔まで続くのに、アキラはそれが一瞬とは思えないほどに長く感じていた。
アルシャはそこで止まらなかった。突き立てた状態からさらに身体全体を回転させた。
『たあああッ!』
彼女の気合いの一声が頭に鳴り響く。法術で強化されたアキラの筋肉が軋みフランベルジュが魔獣の首の中から真横に薙がれる。
血の弧を空中に描くアルシャの一振りで、魔獣の首は完全に断絶されていた。
転がる生首は上下感覚など持っていなかったかのようにごろんとひっくり返り、断面から噴出する血は石畳の溝に流れていく。
アルシャはゆっくりと立ち上がり、息をつく。それが終わりの合図だった。
アキラは辺りを見渡した。巨大な獣の死体が街路の真ん中に沈んでいる。
一時は天使を忘れたアキラだが、現実に自分が起こしたこの結果を目の当たりにしてしまうと、やはり無抵抗では受け入れがたかった。
「こんな、こんなの、悪魔だ。悪魔の所業だよ。いらないんだよ。僕には悪魔なんて、いらないんだ……」
『――アキラ、あなたがいなければ魔獣は倒せなかった』
「それでも、僕には――」
悪魔の慰めの言葉など、聞き入れたりはしない。
空き家の半分ほど割れたガラス窓に目が向いた。背後の小さな廻因鉄の街灯に照らされて、そこには一人の男が映っている。
ガラスに反射する、血塗れの剣を下げながら涎と涙を流すその姿は、まさにシミュレートされた未来の自分の姿そのものに思え、
「これじゃまるで……あの予言書(診断書)、そのものじゃないか」
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