異世界ボランティア生活
翌日、ミトに叩き起こされたアキラは導かれるままに教会に向かった。
「ミト、こんにちは。今日は来てくれたのですね。私はとても嬉しい」
両手を胸の前で組んで優しげな笑顔を向けてくるのは、シスター、フィアナ・グラーニャ。
修道服に似た質素な青い服を纏い、頭にかけた白いケープからは金髪が零れている。ミトの話からはもっと歳のいった女性を想像していたが、見たところメイリンとそう変わらないほど若く、素朴で幼く見える顔立ちは親近感を呼ぶが、胸は結構ありギャップが激しい。アキラよりも背が低いため自然と視線を下ろす形になるが、そうすると否応にも二つの盛り上がりが目に入ってしまい妙にどぎまぎする。
この異世界での教会というのは、ある宗教を信仰する団体が所有する建造物のことを指す。逆三角形の枠の真ん中に小さな円が書いているあるシンプルな紋章が目印になっていて、その中心の丸が神を表しているらしい。魔人信教のようなカルト集団とは異なり王都にも教会があるほどのメジャーな宗教なのだそうだ。
(霊人とか魔人とか、そんな存在が実際にいても宗教ってできるんだな。僕にとっちゃ霊人だけでも神さまみたいな力を持ってると思えるんだけど)
むしろアルシャのような力を持つ存在が他にいるからこその、人間のためのよすがなのかもしれないが。
人間が大いなる理不尽への抵抗のために神を選ぶのは、脅威が実在でも非実在でも変わらないということだ。
長い歴史がある宗教はその中で儀礼を大衆のために日常に溶け込ませそれを礼儀に一般化する。目の前にいるシスターはきちんとした佇まいで、ひとめに王国の中で普く育まれてきたそんな規律を重んじる礼儀正しい人物に感じられた。
「はい、シスター・フィアナ。こんにちは!」
そんな人物を前にして、ミトの態度がどうもおかしい。溌剌とした発音で元気よく挨拶を返し、背筋は真っ直ぐ踵を揃えてやけにお行儀がいい。
アキラはミトの後ろからぼそっと訊いてみる。
「なんか性格変わってないか?」
「うるせ。シスター・フィアナはアタシが悪態つくと注意してくるんだよ。ここ専用の処世術だ」
読み書きなどの勉強だけじゃなく、礼儀や所作も教えているのだろう。ミトの性格からして苦手意識を持つのはわかるな、と彼女の後ろで苦笑する。
「こちらの方は?」
シスターがアキラに目を向け、ミトに訊いた。
「こっちは、えーっと、その、超絶失礼男、あっ、違った。女の敵、じゃなくって。なんというか…………アキラです」
最後には説明を諦めたミトに一応突っ込んでおく。
「もっと他になにかあるんじゃないかっ⁉」
「無茶言うなって。他に兄ちゃんの説明しようがないだろっ」
いや、あるだろ。なんでいかにも必死に考えたのにって感じで焦ってるんだよ。
シスターの前でこれ以上醜態を晒すまいと、突っ込みたい衝動を必死で抑えているのはミトに伝わっただろうか。
「アキラさん、ですか? 本日はどのようなご用件でしょう」
ミトの紹介に突っ込もうとしない優しいシスターだった。
「実は僕にもできる仕事を探していまして、短期間のものでいいんですが、ミトに頼んだら教会を紹介してくれて」
言うと、シスターはアキラとミトを見比べて薄く微笑んだ。
「ミトと仲がいいのですね。ご友人ということでよろしいですか?」
傍目から見ても兄妹には見えないだろうし、無難な印象だろう。実際は財布を奪われかけて否応なく客になった間柄なのだが。
「あ、はい。そんなところです」
アキラが肯定すると、横でミトが「仲が良いとかマジやめて」と思っていそうな顔してるがスルー。
「コルトリは交易街として有名ですが、その性質上、貧富の差が大きいのです。利益追求が優先される風土のために雇用から切り捨てられる人も多く、生活が立ちゆかなくなる人も少なくありません」
そう話すシスターの声音は、まるで自分のことのように沈痛だった。
「私はここでそういった街の人たちへの支援と、事情があって学校に通えない子供たちに物書きや計算を教えています。時には職を無くした市民の方に、中央グラニア商会を通じてお仕事を繋げさせていただくこともあります」
「ほんとですかっ」
まさに教会は街のセーフティネットで、アキラにとってはハロワみたいなものだ。
しかしシスターは「なのですが……」と続ける。
「ちゃんとしたお仕事をご紹介したいのはやまやまなのですが、街が閉鎖されている影響で教会を頼る人も以前より多く、すでに紹介できる仕事は尽きておりまして」
「そうだよなあ。はぁ」
そんな予感はバシバシしていたが、現実はそんなもんだよなとがっくり肩を落とすアキラ。ミトが「やーい」とでも言うように足先でこっそりつんつん突いてくるが、抗う気力も湧かない。
そんなアキラを見かねたのか、シスターが遠慮がちに言う。
「あの、仕事の紹介はできないのですが、アキラさんがもしよければ、この後の配給を手伝っていただくことはできませんか?」
「配給、ですか?」
「はい。街が封鎖されてから、教会では領主からの物資の一部を預かり、食事に困っている市民の方へお配りしています。街の清掃や教育、それに連なる教会の大事な活動の一つなんです」
「そんなこともしてるんですね。シスターだって今は大変なのに」
「こんなときだからこそ、街への奉仕活動に意味があるのだと私は考えています。人手は欲しいのですが、今の街の状況ではなかなか加勢してくださる方もいらっしゃらなくて」
困ったように両手を豊かな胸の前で組んで、俯くシスター。
「ただ、お礼としてできるのは一日分の食事だけなのですが……」
シスターは遠慮がちに提案してくれたが、よく考えるとアキラには願ったり叶ったりだ。要はボランティアだが、短期でしやすいし、食費を節約することもできる。
「いいですよ。どうせ他にやることもないですし」
「本当ですか?」
「僕で助力になるなら、是非お願いします」
「わかりました。ありがとうございます。――それでは、ミトも一緒にどうですか?」
急に話を振られて、油断していたミトは素で驚いていた。
「えっ! ええっとぉ……」
気が乗っていないミトの本心が垣間見えたアキラは、ここぞとばかりににまりと笑う。
「いいじゃないか。せっかくだしミトも一緒にやろうよ」
「なんでアタシまで……。兄ちゃんを連れてくるだけのつもりだったのに」
ぼやくミトに、アキラは耳打ちする。
「僕を客にした経緯をシスターに黙っててあげるからさ」
「あぐ。いい性格してんな、兄ちゃん」
ミトに敵意の笑みを向けられながら、そんな流れでアキラの異世界ボランティア活動が開始された。
配給は昼過ぎにコルトリ市と教会の協力体勢で行われる。今は魔獣騒動の最中であるが故に配給を求める人が多くなったための臨時的な処置らしい。
教会で配給しているのは物資の一部だが、なぜ教会が絡むのかというと、信者の中には敬虔な教徒も多く、信ずる神以外からの施しは受けられないと考えている人たちが一定数存在しているからのようだ。
(申し訳ないな。僕は信者じゃないんだけど)
アキラから渡すことを彼らが嫌がるのではないかと懸念したが、シスターが止めなかったのだし、つまるところ「教会からの」という名目さえあれば問題ないのだろう。
時間も近づいてくると奥の街路から数人の男たちに先導されて大きな影も広場に入ってくる。コルトリの役人が教会前の広場に乗り寄せてきたのは、荷台が設けられたカーゴタイプの馬なし車だった。
「おおっ。さすがは大都市の役人。設備が整ってるなあ」
アキラが感嘆の声を上げると、隣で同じように突っ立っていたミトが怪訝そうに訊いてくる。
「何の話だよ?」
「あれって、廻因鉄で動いてるんだろ? 今物資を運んできた改造した馬車みたいなやつ」
こうしてまじまじと見てみると、その構造がよくわかる。てっきり車輪そのものが廻因鉄でできているのかと思ったが、どうやら違うようだ。
クーペ型の四角い車体の底に、大きくゆっくり回る廻因鉄のリングが備え付けられ、端の方がはみ出ている。廻因鉄は車体の下でどうやら歯車のようなギアに繋がっているらしく、そこから鉄のパイプが前輪の車軸に動力を伝えていた。
いくつかのギアを通して大きな横の回転運動を小さな縦の回転運動に変換しているわけだ。異世界ファンタジーにしては、大分高度な技術が使われているような気がする。
「アキラって、廻因鉄車(リング・キヤリツジ)を見るのは初めてなのか?」
「廻因鉄車って言うのか。まともに見るのはそうかな。街に入ったときに遠目に見たのと、轢かれそうになってすれ違ったときだけ。本当に馬がいなくても動くんだなあ」
剥き出しの鈍色のギアの群れにアンティークレトロの華美な車体。男の子なら誰だって胸にこみ上げてくるものがあるだろう。
「いったいどんな田舎から出てきたんだよ……」
ぼそりと言って呆れるミトだが、彼女に地球の車を見せてやったらどんな風に驚くんだろうと、心の中でその姿をイメージしてくつくつと笑った。
「……何ひとりで笑ってんの?」
目ざとく見つけてくるミトから逃げるように顔を逸らす。
どうにも彼女は配給の手伝いが決まってからテンションが低い。しかもアキラの呼び方が「兄ちゃん」から呼び捨てに変わっている。ミトの中での自分の評価が凄まじく低まったような気をひしひしと感じながら、シスターの呼ぶ声に応えて近付いていった。
配給の時間はいつも決まっているらしく、時間が近くなると教会前の広場にはどこからともなく市民が集まりはじめた。魔獣騒動のせいもあってか、領主からの物資配給には長蛇の列ができ、シスターの他にも教会の司祭や武装した警邏兵まで駆り出されていた。
アキラとミトの役割は、荷台から下ろされて荷ほどきされ、近くに運ばれてきた個別紙包装の食料を直接並んだ市民に手渡すことだ。
並ぶ中には信者もいるため、食料を渡すと感謝の印を込めて胸の前で教会のシンボルである逆三角形を描く人も多く見られた。
信徒ではないアキラにも同じ動作をしてくる人がいて内心気後れしたものの、配給の手伝い自体はやってみたら結構楽しい。案外、こういうボランティア活動は性に合っていたようだ。
そんなアキラに水を差すように、ミトは隣でいまだにぶつぶつ言っていた。
「ったく、あーあー、客にする人間間違えちまったなー。これはもう紹介料だけじゃ割に合わねーなー。アキラがあとで氷菓子でも奢ってくんないかなー」
聞こえよがしに言ってくるミトにアキラも苦笑する。巻き込んだ手前それくらいはいいかと約束してやると、途端に笑みに転ずるのもミトらしい。
「どうせ今は仕事がないんだろ? 何もしないよりは、これで夕食の一回分でも貰えた方がいいじゃないか」
ミトは「そーだけど」と口を尖らせる。
「だあってさあ、自分のメシのためにタダでメシ配ってるって、バカみたいじゃん」
ぶうぶう言いながら、ミトも紙袋に包まれた配給の食糧を並ぶ市民に渡していく。
配給される食事はパンに具を挟んだだけの簡素なものだ。シスターからお礼としてもらえる食事はスープや肉もついてくるそうだから、全くの無駄な活動というわけでもないのだが。
「そういうこと言うなよ。こういう活動はさ。もらえる報酬の多さじゃなくて、活動を通して得られるほかのところに一番価値があるんだ」
「ほかのところー?」
疑わしげにこちらを見上げてくるミトに手本を見せるように、アキラは眩しい笑顔を向けながら配給の食事を市民たちに配ってまわる。
「ありがとねえ」
「助かるぜ、兄ちゃん!」
アキラが元気よく食事を渡せば、子供たちやおじさん、おばさん、お年寄りたちが、アキラに負けず劣らずの嬉しそうな笑顔を返してくれる。
「これだよ! これこれ! こういうの!」
「え、なに、気持ち悪い。アキラが」
帰っていく市民を見送り、目を輝かせて奇声をあげたアキラに辛辣なミト。
「笑顔が報酬ってか? あほくさ。ふつー、こんなことしてて喜ぶやついないって」
「シスターだってやってるじゃないか」
「シスター・フィアナは教会の仕事の一環だろ。信者を集めるための布教活動の一つってこと。兄ちゃんは信者でもないのに、どうして無報酬で喜んでんだよ」
ミトの考え方はある意味で交易街の人間らしくはある。対価を求めるのは当然だという考えが根付いているのだろう。
「そんなに変なことかな?」
「変だね。ちょっと兄ちゃん、頭に何か変なもんでも棲んでんじゃねえの」
「――――っ!」
顔が強ばるのを抑えきれなかった。
今のミトの発言は不満の弾みで出た思いつきのものなのだろうが、それはアキラには笑い飛ばせる域を超えていた。
「どういう意味だよ。それ」
「べっつに。ただの冗談だよ。そんな本気にしなくてもいーじゃん」
アキラの剣呑に歪んだ顔を見てさすがに言い過ぎたと思ったのか、ミトは気まずそうに顔を逸らす。
それから活動が終わるまで、ミトはふて腐れたようでアキラと話そうともしなかった。
ミトの何気ない冗談は、浮かれていたアキラに天使の存在を思い出させた。そんなことでミトを責めても意味はないことはわかっている。
それでも、浮かれていた自分に大きな釘を刺されたことは事実だ。
あの同意書や診断書に書かれていたことを、忘れたわけではない。忘れたわけではないが、与えられる罰にのみ目が向いていたのは否定できない。
生まれつき共感能力に欠ける人間だと、高度なコンピュータが診断を下している。丸呑みいして信じているわけではないが、あの文面を完全否定するだけの材料が今のアキラにはない。
天使がいる限り、自分には、自分の善性を証明しようがない。
――じゃあ、今こうして異世界の住民たちの笑顔を喜んでいる自分は何なのだ。
(この気持ちも、天使に作られた偽物ってことなのか……?)
善行を行っていい気分なのは天使の効用だと認めるには、その気持ちがあまりにも自然に感じられて、疑問の余地を持てなかった。
(違う。これは僕が選んで、僕が欲しがった結果だ。誰だって善いことをすれば気持ちよくなるのは当たり前じゃないか。だから、僕がここに立っていることに、天使は関係ない)
自分に生まれつきこの感覚が備わってないなんて信じられない。自分は今、確かにここにいて、人々が喜ぶことを喜び、心を満たしているはずだ。
この気持ちまで人工的なものだなんて、絶対信じられるものか。
配給が終わって片付けも一段落した後は、シスターに誘われて教会の奥にある一室で一緒に食事を摂ることになった。
教会にしてはやけに生活感のある部屋だと思ったら、どうやらこの教会には住居部分も端の方に併設されていて、シスターは生活の大部分をそこで一人で過ごしているらしい。
変わった生活スタイルだと軽く疑問を投げかけると、シスターは薄く微笑む。
「困った人々が教会を頼るのに、時間は関係ありません。いつでも支援と天助を送れるように、私はここに住むことを決めているんです」
それは仕事というよりも、ひとつの生き方なのだろう。
「アキラさんとミトのおかげで今日は大分円滑に進めることができました。ありがとうございます。それでは、食事にしましょう。みなさんに、私たちの神のご加護がありますように」
信者たちがやっていたように胸の前で逆三角形を描き、テーブルの上で祈りの形で両手を置くシスター。ミトも食事前には同じように祈るよう教えられているのだろう。だがその動きはシスターよりも大分雑でさっさと料理に手をつけはじめていた。
「シスター、明日も配給はあるんですか?」
見よう見まねで祈りを捧げた後、アキラが訊く。
「はい。おそらく街の封鎖が解かれるまで領主からの支援物資は届くでしょうから、教会としては市民のみなさんに行き届くように尽力したいと思っています」
「なら、明日も僕に手伝わせてくださいっ!」
鼻息荒く、アキラは身を乗り出す。
あまりの勢いに戸惑うシスター・フィアナ。慣れていない積極性なのか、顔を赤くしてアキラを見返していた。
「えっと、アキラさん?」
「またやりたいんです。だめでしょうか?」
「しかし、お礼としてできるのは見ての通りさほど豪華でもない料理くらいですし、見返りはほとんどないようなものなのですが……」
「構いません。むしろ報酬なんていらない。僕はこの活動を続けたいんです」
「でも……」
「いーんじゃないですか。シスター・フィアナ。アキラは善行したいらしいし」
スプーンを咥えながらぼやくように言うミトの言葉の裏には、はやく終わらせて帰らせろという主張が見え見えだったが、そんな投げやりな言葉でもシスターの躊躇いを打ち消してくれた。
「そういうことでしたら。わかりました。ではまた明日、よろしくお願いします」
「はいっ、任せてください!」
微笑んで快く引き受けてくれたシスターに、アキラは自分の胸を叩く勢いで立ち上がり、ミトが五月蠅そうに小指で耳を塞ぐほどの声でそう返答したのだった。
「知らなかった。ボランティアって、良いことをするのって、こんなにも気持ちのいいことだったんだな」
教会を後にしバルカズ・インの自室に戻ってからも、胸に湧き浮かんでくるのは配給の間に得られたあの快感と解放感だ。ぽわっと呆けた目で、アキラは誰ともなしに呟いた。
尾を引いた爽快感がいまだに頭を突き抜けている。古びた壁の染みや割れて隙間が生まれている床板すら、何もかもがきらきら輝いて見えるくらいに。
脳汁がドバドバ出てるというのはまさにこういうことなんだ。
「シスターもいい人だよな。綺麗だし、優しいし。それに、似てるっていうのかな。僕とシンパシーがあるんだ。あんな人と一緒に活動できるなんてラッキーだ。うん、僕はついてる」
また明日の活動が楽しみだ。ほとんど無償奉仕とはいえ、シスターや市民の喜ぶ顔が見れるならプライスレスというものだ。
だがアキラは、何もただそのためだけに手伝いを願い出たわけではない。
アキラ自身にも個人的なメリットがあると打算を踏んだ上での申し出だ。
ミトの一言で改めて自覚させられた天使の存在。アキラは規則さえ破らなければ何も天使から影響は受けないと思い込んでいた。
違う。天使は、アキラの元の世界が保有していた技術は、ただ違反者に罰を与えるだけの装置を造り上げるほど単純で優しくはない。
アキラは注意深くまたあの診断書と同意書、そして天使リーゼの説明書を思い起こす。
(確かあの説明書には、見慣れない単語も多かった。オプトなんとか……だったか。脳を生きたまま人為的にいじって、記憶や感情面も操作できるらしい)
天使が与えてくる罰は、その技術が生み出す側面の一つにすぎないのだろう。
配給の手伝いをしている間、アキラの心は確かに満たされていた。その事実は、アキラのいた元世界の技術が明らかにした事実と背反するものだ。
ならあれは、やはり人工的に造られた感情だったのか?
「違う!」
自分の頭の中で組み上げていった推測を、アキラは大声で否定する。
アキラの心の根っこに菌糸のように絡みつき、共生という名の科学的な精神支配を仕向けてくる天使リーゼ。
それは、自分と自分ではないものをあやふやにして混ぜ合わせてくる聖なる調伏だ。
アキラには、未だに自分の中に本来あるべき自己というものと、天使が作り出した人工的な自分との区別が明確にはついていない。
天使を完全に否定したいなら、その部分を確かめることは必須の条件となるだろう。天使なんかに、人工知能なんかに、自分の根を腐らせてたまるものか。
「あの気持ちも、この衝動も、僕のものだ。僕だけのものだ」
そう断言するが、現時点では反証材料がないのも事実。
だからこそ、アキラはシスターに頼み込んだ。この絶好の機会を逃したくはなかったから。
今感じているものが機械的な人工物であるとするなら、同じことを繰り返していけば必ずどこかで自然のものとの乖離を感じる瞬間があるはずだ。元の世界で担任やユージやカナも薄ら感じ取っていたアキラの人工的でどこか歪な不自然な部分。それが見つかれば天使のものということになるし、見つからなければ、それは自分のものということになる。
証人は異世界の住人たちだ。
善行をすることで、あの診断書を否定してやろう。この気持ちが自分のものであると証明する。天使が頭の中にあることを認めた上で、それを乗り越えてやる。
ここでなら、それができる。雲が一瞬にして晴れ渡っていくような心地だった。
そんな風に冴え渡っている頭だと、今まで見えていなかった希望も見えてくるものらしい。
ふと、アキラは思いついた。
「アルシャの同調法術対策にいっぱいいっぱいで考える暇がなかったけど。それで、これはあくまで可能性だけど」
部屋で独り言ちながら、アキラは自分の言葉を指で数えて確認していくようにゆっくりとその推測を口にする。
「ここは異世界なんだ。霊人だっている。魔人だっている。僕には想像のできない力がまだある。それなら、今はまだ見当もつかないけど、あるんじゃないか。天使だって壊せる方法が」
ここにきてようやく至った異世界への希望。
未知の力に溢れているのだ。この異世界は。
ならば、必ずあるはずだ。
物理的な脳外科手術による除去や、電磁波のような危険な壊し方ではなくて。
この異世界にしかない方法で、天使を安全に除去するか、あるいは壊す道が。
「僕が異世界に来たのは、きっとこのためなんだ」
だって、それ以外に自分が異世界に来られた理由がない。きっとこの世界にはまだ見ぬ神さまのような存在がいて、不憫な自分を連れてきてくれたのではないか。
「なぜ異世界の神さまが僕なんかにそうするのかって疑問が湧きそうだけど、答えは決まってる。僕は本来天使なんて必要ない人間だからだ」
だって、それが異世界ファンタジーの定番ではないか。
元の世界で事故ったり事件に巻き込まれたりして、異世界の神さまがチート能力をお詫びに与えてくれたりするのは。
「まあ僕の場合は能力はなんも貰えてないっぽいけど、天使を壊してくれるならそれで十分だ。地球の技術力でもリスクが高いことを、異世界ではできるんだから」
組み上がっていく異世界でのロードマップ。都合の良い思考で生まれた光明が、アキラを照らす。
「異世界自体が僕にとってボーナスチャンスなら、これまでの一連の流れも筋が通ってる。うん。僕の人生はまだ終わってない」
自分の思考に自分の声で返事を繰り返しながら、アキラは前を見据える。そこにある、輝かしい本来の自分だけの人生が見えているかのように。
だがアキラは知らなかった。
人間は苦痛と同じくらい、快楽にも耐えられない動物であることを。
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