アニム・アルモニカ(2)
女王の座フェレスラリアは、人間が統治する王国領土の最北端、永久樹氷に閉ざされた極寒の地にあるらしい。二人で地図を見ていたときにアルシャが王国の外のことをあまり話さなかったのは、自分が霊人であることを隠したかったからだろう。
自分の正体を隠していた理由は判然としないが、追及はしなかった。これ以上余計な情報を知っても、自分の目的が変わることはないからだ。
目標が定まると俄然意欲も湧いてくる。足取りはタルキス村を出た直後よりも大分軽い。法術のおかげで足は速く、どこまでも続く平原の景色が車に乗っているかのように流れていく。
正午も数時間は過ぎたと思われる陽の傾き。もう数時間は歩いたと思うが、いまだ街らしき景色は見えてこない。
ふいに、歩く速度ががくんと落ちた。こけそうになるがなんとか踏み留まる。前を歩くアルシャが法術を解いたのだ。足を止め振り返ってくるが、視線は斜め下を向き、長い睫毛が憂いげに瞬いていた。
「休憩にしましょ」
「あ、う、うん」
「アキラは必要でしょ。ご飯」
「僕はって、アルシャはいらないの?」
「私たちは人間ほど食料を必要としない。一日に一度軽く食べるだけで済むの。私はタルキスで食べたから」
「そ、そっか」
思い返すと確かにアルシャは小食だった。一緒に食事を摂ったときははりきり過ぎて会話に夢中になり、気にも留めなかったが。
近くに葉の豊かな木が一本だけ立っていた。二人は木陰に入り込む。その木は根が地中からせり上がったような複雑な形をしていた。見たことのない種類の木だ。おそらくこの世界特有のものだろう。根は腰掛けるのにとても都合がよかった。
「何か食べて休んだらまた移動を開始しましょう」
アキラは頷いてハンスからもらった革袋の中身を漁る。しかし出てくるのは簡易治療キットや蝋燭などの日用品、そしてこの国のものと思われる通貨だけで、食べ物の類は何も入っていなかった。
「もしかして、何もないの?」
「うん、食べられそうなものは」
おそらく彼らも急ごしらえで用意してくれたのだろう。お金まで入れてくれたのだ。文句を言えばバチが当たる。それでも最後に一口でもメイリンさんの料理を食べたかったな、と思うのは贅沢だろうか。
タルキスのことを思い出すと気分が重くなる。厄介払いされたという事実は、しばらく自分の精神状態に闇を落としそうだった。
「自給自足するしかない、かな」
「でも、こんな草原のど真ん中に食べられるものなんてないよ。この木にも実はなっていないみたいだし」
「大丈夫。こういう木の根元には、ほら」
アルシャは木の根の間にあった穴に躊躇いなく腕を突っ込む。引っ張り出したその細い手には、土と一緒にモグラに似た小動物の尻尾が掴まれていた。
やっぱりいた、と呟いて、悶えるモグラをアキラの方へ突き出すように向けてくる。
「キノネアナウサギ。小さいけどこの時期は食べ物が豊富で丸く肥えてるから結構食べられる部分が多いんだ。アキラは調理できる? 火なら私の廻因鉄(リング)で出せるから」
旅人の習性なのか、顔に似合わずアルシャは躊躇いなくそんなことを言ってくる。
丸く肥えキーキーと鳴くそれはどうやらそれはウサギの一種だったらしいが――
「ま、待ってくれ。殺すのはだめだ!」
「はあ?」
「ど、どんな生き物でも殺しちゃだめなんだ。僕にそれは許されてない」
「菜食主義ってこと? 許されてないって……タルキスでもお肉食べてたじゃない」
もっともな指摘だったが、アキラにはもちろん通用しない。
「それとこれとは違うだろ! 調理された肉と、自分で殺して食べるのとじゃ!」
きっぱりと拒絶を示してみせたものの、変わらずアルシャは釈然としない顔で、
「意味わかんない」
細い眉をひそめ、急に女子高生のような文句をぽつりと零してきた。
「とにかく、そういうものなんだ。僕は生き物の命を奪いたくないんだよ。僕の前で殺すのもやめてくれ。頭が痛くなるんだ。本当に!」
天使の罰はもう二度と受けたくない。特に命に関わるものは罰が重くなるようだ。
食べるために殺すのは天使も許す可能性はあるが、そんな賭けにはのりたくなかった。賭けに負けてあの苦しみを味わうのはごめんだ。もう危ない橋は渡らないと決心している。
自分の脳機能の検査結果に、小動物への暴力行為に関しての記述もあったことが鮮烈に思い出される。天使がどんな意味合いであれ、生き物を殺すこと自体に抑制を働かせてくる可能性は非常に高い。
アルシャがやるならどうだろうか。いや、やるとわかっていて放置したら天使はそれも罪と見做すかもしれない。とにかく命に関わることは忌避すべきだ。
「じゃあどうするの。ラジエル様のところまで何も食べずにいる気?」
「今日中に街に着くならそこまでは我慢するよ。川はあったから水は充分あるし、途中で食べられそうな木の実とかがあればそれでいい。でも動物を殺すのだけは絶対だめだ」
「なにそれ。ならもういい。勝手に休んでて」
アルシャもさすがに気分を害したらしい。それだけ言い捨ててウサギを放し、アキラから隠れるように木の裏側に回ってしまった。
(まいったなあ)
なんだか険悪になる一方だ。間違ったことは言ってないつもりなのに。
(アルシャの言うことを全部聞けるわけがないしなあ。やっぱりこういうのってコミュニケーションの不足から起こるんだよな。これから一緒に旅していかなきゃいけないんだし、お互いの考えがわかるように、ちゃんと後で直接聞いてみた方がいいかもしれないな。なんでそんなに機嫌悪いのって)
古今東西、女性にそんなことを直接聞けば火に油を注ぐ結果になりかねないのだが、なにせアキラはどの世界でも女性との会話経験が少ないため、心の機微などわからない。
草の上に寝転んで解決策を思案していると、段々目蓋が重くなってきた。アキラはいつの間にかうたた寝を始め――草を踏む足音で目を覚ました。
音の方向に目をやると、アルシャが覗き込むように立っていた。その美貌にドキリとして一瞬で頭が覚醒したが、彼女はアキラが起きたことがわかるとまたすぐに目線を逸らして、小さく唇を動かした。
「まだ寝てたの」
「ああ、うん。ごめん。思ってたより疲れてたみたいだ。もう出発?」
すっかり寝入ってしまっていた。四、五十分は経っただろうか。
「私も少し寝る。起きたらすぐ出発するから、準備しておいて」
と言って間髪入れずにまた木の裏側に回り込んでしまった。
まだ機嫌が悪いらしい。
出発するわけでもないのに、どうして近くまで来たのだろう。不思議に思って聞こうとしたが、彼女はすぐに寝入ったようだった。木の裏から静かな寝息が聞こえてくる。
フェレスラリアまでずっとこの調子なのだろうか。
「うーん」
悩んで草の上にまた寝転ぶ。ふと、頭の辺りに何か丸みを帯びたものが転がっていたことに気づく。
「あれ、なんでこんなところに……?」
この辺りには見当たらないはずの、すぐに食べられそうなほどに熟した小さな果物が、三つまとめて無造作に置いてあった。
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