アニム・アルモニカ


 異世界ファンタジーなのに、十日も経たず最初の村を永久追放されるとか、ある?


「ないだろ……なんだよこの展開……」


 チュートリアルはどこにいったんだ。不親切設計にもほどがある。


 内心で異世界の神に憤っていると、


「ここを真っ直ぐ進んでいけばいずれ大きな街道に合流する。そこに沿って北西に向かえば、交易街として有名なコルトリに着くわ。まずはそこを目指しましょう」


 晴天の下、タルキスの目印になっていたオベリスクも丘に隠れて見えなくなってからしばらく、当然のようにアキラを先導するのは白紫の髪を背に揺らす悪魔だ。


「なぜ君の言うこと聞かないといけない?」


 いけないとは思いつつも、どうしても口に棘が生える。


 行くあてなんてないからここまでは彼女に大人しくついてきた。しかしそれは彼女への警戒心を解いたということにはならない。


「あのとき言ったでしょう? 知ったら、私についてこないといけない、って」


 確かにアルシャは、偽宣教師が現れる前にそんなことを言っていた。


 彼女は冗談のように笑っていたが、まさか本当に言葉通りの意味だとは。


 それ自体が皮肉のように可笑しくて、アキラは馬鹿にしたように笑う。

「タルキスの商人だって馬車で向かうような距離なんだぞ。旅に慣れてない僕がついていけるわけないだろ」


 馬車でも二日もかかるような隣町に、なんの準備もなく行こうだなんで無謀にすぎる。せめて馬車とはいわず馬の一頭でも欲しいが、乗りこなせるとも思えない。


 そう、無理なんだ。いきなり追い出されて旅をしろだなんて。


 今からでもハンスに頭を下げよう。切実にお願いすればまたあの穏やかな生活に戻れるはずだ。


 そんな甘い打算も、早々に打ち砕かれた。


「それなら問題ないわ」


「問題ない? どこかで乗り物でも調達するってこと?」


 アルシャは首を振った。


「言ったでしょ。私は霊人だって」


「いやだから僕はそもそもその霊人が何なのかってことが……アルシャ?」


 文句たらたらのアキラの前で、アルシャは急にしゃがみ込む。


 いそいそとアキラの足首から裾を巻き上げてくるアルシャ。膝が露わになるとそこに手を当てて、なにやら集中するように目を瞑る。


「……なんでいきなり人のズボン脱がそうとしてんの?」


「っ、ち、違う! ちょっと黙ってて!」


 赤面するアルシャに気圧されて言われた通りに黙った。その間に彼女はアキラの膝に指先を触れさせ、文字を書くようになぞる。


 ぞぞっとするくすぐったさを我慢しながら待っていると、


(今一瞬、光の波みたいなのが僕の脚に溶け込んでいったような)


 目を凝らしてよく見ようとしたら、その前にアルシャが立ち上がり、


「さ、歩いてみて」


「なんで?」


「いいから。多分転ぶと思うけど」


「はあ? いいけど――さあああ⁉」


 景色が一瞬でぶれた。


 吹き飛ぶように前のめりに転んで、ようやく動いたのは景色ではなく自分だということに気がつく。


「っつ……一体、何を」


 と言いかけてまた気づく。自分が今いる場所が、アルシャから大分離れていることに。もちろん動いたのは彼女ではない。アキラの方だ。


 一歩踏み出しただけで、身体が十メートル近くも前に進んでいた。


 アルシャは倒れたアキラのところまでゆっくり歩きながら近づき、


「どう? これが霊人が使える法術と呼ばれる力よ。実際に見た方がわかりやすいと思って」


「す、すごい」


 前のめりにつんのめったせいで鼻を思いきり擦ったが、そんなことも忘れるくらい、物理法則を越える超自然の力を前に、さすがのアキラも感嘆の声を出さずにはいられなかった。


「移動はこの走狗(カルプ)の法術で馬車に頼らなくてもなんとかなる。もちろん体力は相応に消耗はするけど、そうね、半日くらいでコルトリに着けるはずよ」


 通常人間が利用する馬車の四分の一で済むのなら、それはまさに驚異的な速さだ。


「ほ、法術……。こんな力が……」


 ないと思っていた異世界の魔法が、こんな形でお披露目されるとは。


 自分がいかにこの異世界の中でも狭く限られた空間でしか生活していなかったのかと思い知った。


 驚愕一辺倒のアキラを見かねてか、アルシャがフォローしてくる。


「人間にはない力だから驚くのも無理もないわ。霊人の存在を知っていてもその力を直に経験する人の方が稀だし」


「精霊とか、そんな感じみたいな存在なんだな。人間とは全然違うのか……」


 アルシャと人間は、見た目には違いがわからない。飛び抜けた美貌を持っているのは確かだが、まさかそれが区別の根拠になるということもないだろう。


「霊人は、あなたたち人間とは成り立ちも違うの。生まれ方も、社会の作り方もね。霊人には種全体を統率する女王様が一人いて、女王様だけが唯一子を産むことができるの。つまり私は女王の子。と言っても、みんなそうなんだけど、ね」


 誇らしげに胸に手を当てるアルシャから聞こえてくるのは、どこかで聞いたような社会構成だ。アキラは記憶を掘り起こし、一つの例に思い至った。


 ああ、生物の授業で習ったことがあるあれだ。


「思い出した。真社会性動物ってやつだ。アリとかハチみたいに、女王を中心にして子供が女王のために働くってやつ」


 立ち上がりながら思いついたことを正直に口に出したアキラに、アルシャはむっとして眉根を寄せ頬を膨らませた。


「私たちが虫みたいだって言いたいわけ?」


「い、いや! そうじゃなくて! ほら、哺乳類でもいるだろ。ハダカデバネズミとかさ」


 と、アキラは本気でフォローしたつもりだったのだが。


「裸? 出歯……? ネズミっ…………⁉」


 彼女はまなじりをひくつかせて睨んできた。


 この世界にハダカデバネズミが存在するかどうかはわからないが――少なくともアリやハチ、ネズミはいるようだ――ハダカデバネズミという生物の名前と一緒くたにされたことは、少なからず彼女にとって侮辱的であったらしい。


「ええと、続けて? さっきメイリンさんたちの前で話せなかったのは、僕以外に聞かれたくないことがあったからだろ?」


 誤魔化しつつ先を促す。アルシャは納得がいかないといったように、むう、と数秒睨み続けていたが、諦めたように肩の力を抜くと、指を三本立てた。


「……もうちょっと落ち着いた場所で話そうと思ってたけど、もうこの際だから話すことにする。あのね、霊人――私たちには、魂が三つあるの」


「魂? 三つも?」


 魂というあやふやな存在をあると断言するだけでもアキラには信じがたかったが、それがさらに三つもあると言われれば間抜けな返事になるのも致し方ないだろう。


「ええ。一つはお母様……霊人の女王ラジエル様が、私たちが生まれたときに一つを預かっている。一つは私、私が私であるためのもの。そして最後の一つは……今はアキラの中にある」


 彼女は立てた三本の指を薬指、中指と順に折っていき、最後に残った人差し指でアキラの胸を指した。


「僕の、中?」


「あのとき、その契約と履行が行われたの。私の魂の一つがアキラの中で法術の力を媒介し、アキラの身体を通して武器となったというわけ」


「法術が僕を通して武器になる? どういうことなんだ?」


 アルシャの言葉が理解できず、アキラは首をひねる。


「わからないなら試してみればいいでしょ」


 頭の巡りが悪いアキラに、アルシャはずい、と左の手のひらを上に向けて差し出してきた。


「えっと?」


「手」


「え?」


「いいから今度は手を出して」


 ほら、と差し出された綺麗な手のひら。悪魔とはいえ完璧なまでに女性の細さと柔らかさが表現されているそれを、アキラは唾を飲み込んで見下ろした。


「ほらはやく」


 躊躇いなく肌の接触を求めてくるアルシャに、アキラは気怖じする。


 さっきの法術といい、霊人の力は直接触れないと発揮できないものらしい。


 有無を言わせぬ様子に仕方なく、恐る恐る、触れたら自分のせいで汚れてしまいそうなその華奢な手に、自分の手を重ねてみる。


「うわ」


 奇妙な感覚だった。アルシャの人肌の温かさ滑らかさに加え、反対に空気で冷えたさらさらな表面の心地よさも伝わってくる。


 それと同時に、触れた部分から流れこんでくる何かがあった。血流とは確実に異なるものなのに、身体の中を流れるそれはむしろ清爽で、不快ではない。


 変化はアルシャと繋いだ右手ではなく、反対の左手に現れていた。掌の中心から鍾乳石が超高速で上に伸びていくように、硬質の薄青の結晶が生成されて、歪な刃物の形になった。


 それは、あのとき自分の手に収まっていたフランベルジュに間違いなかった。


「私の魂の一つがアキラの中にあることで、こうして私はアキラの身体を通すことでも法術を使うことができる。本来、法術の力は結晶になるものではないけど、人間の身体を通すことでこうしてこの金属のような結晶、霊銀になるの」


「人間の身体を通す?」


「この霊銀は私たち霊人だけでは作ることはできないの。本来法術の力に適さない人間の身体を媒介させることで、力が濁って霊銀になってしまうらしいわ」


「人間の身体は霊人の力にとって不純物みたいなものってことか……」


 逆濾し器みたいなもんだろうか。


「さっきの走狗(カルプ)の法術みたいに、私がアキラに対して直接法術を使うと問題なく効果は発揮できるけどね。あれは体内というよりも表面的なもので、経過ではなく結果だから。でも、アキラの身体を通して発現させようとすると、この結晶が生まれる。これは自分の魂を移した人間相手としかできないの」


「わかったようなわからないような……」


 曖昧に頷くアキラをフォローする気はないらしく、彼女はさっさと続きを話した。


「人間を媒体にすると霊銀ができるってことを発見したのは女王ラジエル様らしいわ。といっても、数百年も前の話だけど」


「母親が数百年前って……。じゃあ君は――」


 アルシャは手を払うように振った。


「お母様が特別なだけ。私のような女王の子は、まあ、人間よりかは多少は長生きだけど、歳はアキラともそれほど変わらないはずよ」


 ますますハチやアリめいてきたものだが、それを口に出してまた反感を買うのは憚られたので、代わりに自分の手に生えた剣を軽く振る。見た目ほどに重さは感じないが、その刃先は触れるだけで自分の皮膚など簡単に切り裂けそうなほど鋭く見えた。


「君の力はよくわかったよ。そろそろ解いてくれないかな。刃物とか見たくないんだ」


 人の肉を貫く感触は今もなお手に残っている。あのときと同じものが自分の手に握られていると思うと、それだけで天使の罰の苦しみが蘇ってくるようだ。


 意を汲んでくれたのか、結晶はぼろぼろと朧豆腐のように崩れ落ちた。


「法術の力の源は霊人にとって生命力みたいなものなの。だから魂を共有している人間にしか通せない。大量に使わない限り寿命が縮むようなことはないけどね」


 いわゆるマナとかエーテルとかみたいなものなのだろう。酷使し過ぎると自分の生命を削る結果になるというファンタジーによくあるあれだ。


 ともあれ二度と自分の手から刃物が生えてくるような体験は御免こうむりたいところだ。アルシャと手を繋ぐ機会もなくなるだろうが、それもしかたなし。名残惜しい彼女のぬくもりにさよならしつつ、手を離す。 


 だが、すぐさまアルシャは指を折り曲げて強く握り返し、手を離させなかった。


「アルシャ?」


「アキラには知っておいてもらわないといけないの。霊人の魂を宿した人間が、どんな力を得るのかを」


 その直後、アキラは自分の目を疑った。


 目の前で空間が収束し、弾けるような衝撃が起こる。バチンと割れるような破裂音と共に、アルシャの姿がかき消えていた。


「き、消えた……」


 一人空中握手状態のアキラは、アルシャが忽然と消えたことに理解が進まず凝然と口を開けるだけだったが、


『どう、かな?』


「うおわっ! アルシャ? ど、どこだ?」


 突然彼女の声が聞こえて振り向こうとするが、アキラは異様なことに気づいた。


 妙に身体が重い。重いというか超絶重い。というか動かせない。


「か、身体が、うごか、……な」


 まるで首から下を全て砂の中に埋められたような感覚だった。


 首は捻ることができるものの、動くのはそれだけだ。


「アルシャ、一体何をしたんだ?」


『不思議でしょ? 私がどこにいるかわかる?』


 とまたアルシャの声が聞こえてきて、アキラはその感触に奇声をあげる。 


「ほわわっ!」


『ねえ、聞いてる? そんなにびっくりしなくても』


「ひいんっ!」


 どこからともなく聞こえてくるのは間違いなくアルシャの声だが、それは聞こえているというよりも、頭の中に響いているという感じがした。耳といわずもっと奥に直接息を吹きかけられているようで、非情にこそばゆい。


(これは、マズい……!)


 ある危機感が、アキラに焦りを募らせる。


 アキラは十七歳故に、そして天使がいるが故に、十八禁の類いは御法度だった。十八禁というのはつまり十八歳未満お断りの十八禁のことだ。


 しかしアキラも健全男子であるからして、そっち方面にも興味は湧く。だが少年誌のみでは露出は多くても物足りない。物足りないのだ。アキラは工夫を懲らす必要があった。


 その解決策が健全動画サイトの音声作品だった。


 そう、ASMRだ。臨場感のある吐息。艶やかな語りかけ。アキラは大変お世話になった。


 アキラに聞こえるアルシャの今の声質は、限りなくヘッドセットで聴いているそれに近い。


 いや、それよりもさらに直接的に響いて頭の中を電気的に走るような――


『アキラは私の姿を見ることはできないの。今私は、アキラと重なっているから。霊人と人間の魂は――』


「あッ、ちょっと待って。あんま喋んないで。くる。これはクる」


『……はあ。さっきから何を言ってるの?』


 呆れているような、憐れんでいるような、悪魔とはいえ絶世の美少女の溜息混じりの声が、直に脳に吹きかけられているようで。


「はふんっ」


――天使も悪魔も、この一分間はとても静かだった。


「た、耐えきった……どうぞ。続けて……」


『……耐えたって、何を? なんか反応が気持ち悪いから、ヤダな……って言いたいところだけど、ともかく』


 アルシャはアキラの中で咳払いをする。 


『これが霊人と人間が組むことで可能になる法術の最秘奥。私たちはアニム・アルモニカと呼んでいる魂の同調法術よ』


「同調? アニム・アル……?」


『人間に渡された霊人の魂は、コーダ……二人を繋げる紐のようなものなの。その紐を通じて、霊人である私は全ての生命力をアキラに譲渡できる』


「でも、僕、そんなことされても身体がぴくりとも動かせないんだけど……」


 いまだアキラは一人で空中に手を差し出しているまぬけな格好のままだった。


『それは仕方ないわ。霊人と同調して自由に身体を動かせる人間の方が稀だもの』


 要はアキラは霊人の力の噐じゃないということだろう。迂遠にそう言われてるのだとわかってむっとする。


「それじゃやっても意味ないじゃないか」


『人間の方はそうかもね。でも霊人はこの法術で人間と同調すると――』


「すると……?」


 途端に、アキラの身体が動き出した。ひとりでに。


「うお、うお、うおおおおっ??」


 腕を振って足を踏み出し、アキラは走りだしていた。自由に動かせる首と顎ががくがくと揺れる。


『どう? 無理やり止めようとしてもできないでしょ』 


くすくすと笑っていそうな声音で言うアルシャの言葉通りで、アキラが自分の身体の動きに自分の意思で抵抗しようとしても、全く言うことをきかない。


「ちょ、こんな、僕の身体を、動かして、なんの意味ががが」


『もちろん、ただ動くだけじゃないよ』


「……え」


 嫌な予感。


「わああああぁぁっ!」


 悲鳴をあげるアキラだが、身体は動きを止めない。


 アクロバットとかパルクールとか曲芸だとかそんなレベルの話じゃない。跳躍は軽く数メートルを超え、強化された脚力による踏み込みが土を沈ませる。空中では大気を踏み台にしているかのように自在に身体の向きを変え、走る速度は車を優に超えていながら、その最中で宙返りや回転を繰り返す。


 まるで自分が跳ね飛び回る鞠にでもなった気分だった。


(吐くっ! 吐くっ!)


 目が回って嘔吐感がこみ上げてくる。肉体は超人のように動き回るが、頭の感覚は変わっていないのだ。目の動きは身体についてこないし、呼吸のタイミングもずれま

くる。


「ひょおおおおぉぉぉぉぼええっ!」


 人間として使える筋力の限界を遙かに超えている身体的挙動の中で、アキラは間抜けな悲鳴しか上げられないでいた。ついでにちょっと空中で吐いた。


 アルシャは脚力を溜め一際深く踏み込むと木よりも高く跳び上がった。空中で優雅に転身しながらアルシャはアキラに語りかける。


『同調している間は、私はアキラの身体を自由に操作し、法術を使いながらこうして霊銀を生み出すこともできる』


 着地すると同時、アルシャが伸ばしたアキラの右腕の先には、またあのフランベルジュが瞬時に生み出され、切っ先を天空へと向けられていた。


『あのときアキラを守ったのはこの同調法術の応用。私の法術だけではアキラをあの男から守るには間に合わなかったから』


 アキラは未だ頭がぐわんぐわん揺れる感触の中にいながらも、認めざるをえなかった。


 これは、恐ろしい術だ。


 身体は勝手に動くのに、触感は残ったままなのだ。剣を握る堅さも、土を踏む柔らかさも、まるで自分がやっているように刺激を脳に伝えてくる。


「僕に、こんな動きが……」


 驚きばかりが口に出てくるが、対して彼女の反応はそっけない。


『説明は終わり。同調法術を解くわ』


 剣が崩れたと思った瞬間、何かが身体から抜け出た感覚がした。同時に、アキラの身体が車の中で急ブレーキをかけられたようにがくんと動いて地面に倒れ込む。


「うべっ、ぺっぺ」


 草を吐き出しながら見上げると、そこにはさきほどと変わらない姿のアルシャが立っていた。


「これで私たち霊人のことはわかってくれた、かな」


「……ああ、うん」


 理解した。嫌になるほどに。


 悪魔の方から懇切丁寧に悪魔自身の仕組みを説明してくれたのだ。本当に、不都合な事実だけがどんどん鮮明になっていく。


 この世界では、自分がいた世界の倫理が通用しない。異世界には異世界の決まりがあり、異世界の住人たちはそれを基準にして生活している。なのに、天使はいまだ元の世界のルールを押しつけてくる。


 それだけならまだよかった。なのに、今度は身体を霊人とかいうわけのわからないものに支配されてしまった。


 どちらも経験してわかっていることだが、アキラは天使と悪魔に支配されながらも、アキラという個と意思は保っている。


 いっそ全てが操り人形のようにされてしまえば楽だったかもしれない。


 しかし、天使はアキラの自由意思そのものは尊重し、悪魔は思考を乗っ取りはしない。苦しむのは、その間で揺れ動くアキラという個の意識のみなのだ。


 アキラが最も恐れるのは、自分が両方に同時に支配されたとき一体何が起こるのかということだ。もしアルシャが自分の肉体を操作し、また取り返しのつかないことが起きたら、自分の頭には人工知能リーゼの天罰が下される。


 そうなったら、今度こそ狂ってしまうかもしれない。それが何よりも恐ろしい。


 アルシャはアキラにとっての悪魔だが悪人ではない。


 それはわかっている。偽宣教師に反撃してしまったのも、アルシャの中では正当な防衛行動だったのだろう。しかし、アキラには違う。


 どんなに正当性があろうとも、彼女はアキラにとっての禁忌を躊躇いなく実行できる人物なのだ。


 天使と悪魔。


 人工知能と霊人。


 何も知らない異世界で、自分以外の誰かによって自由を雁字搦めに絡めとられていく恐怖に苛まれて、アキラは腹の底に鈍く重い苦みを感じて小さく呻く。


 しかしこんな状況下でも唯一の救いが残っている。それは頭の中に埋め込まれた天使と違い、悪魔とは話ができるということだ。


「アキラから何かまだ聞きたいことはある?」


「ああ。最後に教えてくれ。僕の中から君の魂を取り出して、元に戻すにはどうしたらいい?」


 アルシャは数秒言い淀んだ。桜色の瞳を半分閉じて、躊躇いがちに聞き返す。


「……どう、してそんなことを聞くの?」


「え? 当たり前だろ。アルシャも僕と契約したのは不本意だったはずだ。だったら僕の中から君の魂を取り出して、お互い元の生活に戻った方がいいじゃないか」


 至極当然といったようにアキラは言った。


 自分の身体に悪魔が追加されたことで、皮肉なことにこの異世界で生きる目的が明確になった。問題の整理もできるとアキラの顔から迷いも消えた。唇を固く引き、強い意志に満ちた表情で彼女を見返す。


 反して、アルシャはどんどん表情を曇らせていった。 


「……一度契約を交わしてしまったら、私自身にも自由にとはいかない。人間から霊人の魂を取り出すには、フェレスラリアにいるお母様……女王ラジエル様の御力が必要になる。人間と霊人の法術はそれほど強力なものだから、制約も同等に強く、なるの」


 契約というのはどこの世界でも結ぶのは簡単なのに、解約するのは面倒なものらしい。これがただの携帯端末であればもっと楽ではあったのだろうが。


「つまり、そのフェレスラリアってところに行かないといけないってことか」


「……そうなる、けど」


 視線を完全に落として、彼女は肯定した。


「じゃあ決まりだ。フェレスラリアに行って、この関係をさっさと終わらせよう」


「…………」


 アルシャは返事をしなかったが、アキラの意識はすでに前を向いていた。

 

 悪魔との契約を解除し、天使だって壊す。


 自分の、自分だけの人生は、そこからしか始まらない。













  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る