汗、涎、鼻水、



 刃物で、人を。血が、あんなに――――――――僕が。



「がああああああああああああッッッ‼‼‼」


 強烈無比な頭痛が、次々と記憶を蘇らせる。


 痛みは顔中の筋肉を強ばらせ、渓谷のような皺を幾本も刻んだ。


「痛いッ、頭がぁッ、むり、無理、痛いムリムリムリ痛い痛い痛いいいいぃぃぃぃ……」


 アキラは床の上を転げまわり、ほんの少しでも痛みから逃れられる場所を探した。


 四方を壁に囲まれたこの空間上には、そんなものは、どこにもなかったが。


 ここは青年団が所属する建物にある雑居房だ。


 といっても堅牢な鉄の牢屋というわけではなく、普通の扉に鍵をかけただけの簡易的な部屋で、村で酔っ払い騒ぎを起こしたりなど、軽度の迷惑騒ぎを起こした村人が放りこまれる場所だ。


 アキラはハンスに自ら懇願した。自分を閉じ込めてくれと。


 ハンスはなだめようとしてくれたが、アキラは引き下がらなかった。


 人を刺したのだと自ら申告してくる以上、彼も無下にするわけにもいかなかったのだろう。刺された血と肉も残っていたわけで、証明には事欠かなかった。


 その結果、アキラはこの反省部屋のようなちゃちな一室に放り込まれる流れとなった。


 幸いにも他に入っていた者はなく、この十二分に広い床を一人贅沢に自由にのたうちまわることができた。


「なんで、なんでだよっ! なんで、僕がッ!」


 わからないことが多すぎて、アキラは悲鳴のように悪態をつく。


 何もかもがおかしい。


 他害など、天使がいる自分にはできるはずがないのに。


 異世界の身勝手な人間が、逆恨みをしてナイフを向けてきたせいなのに。


 天使と異世界。この二つに論理的な繋がりなんてないはずなのに。


 全てが全て、道理が通っていない。


 自分の自己尊厳を無視されて頭に機械を埋め込まれたことも。


 自分の自由意志を無視されて異世界に転移させられたことも。


 なのに、自分は今、繋がったその二つにこんなにも苦しめられている。


 激痛の中で理不尽に対する吹き出た憤怒がアキラを突き動かす。それは暴力だった。


 拳を握った。目の前に壁があった。なんでもいい。殴りたかった。


「ああああああッ!!」


 振りかぶり突きだした拳は、壁に当たる前に止められた。


 天使が止めたわけではなかった。アキラの意思だった。


 本音では暴れたい。何もかもに当たり散らしたい。こんな目に遭えば、誰だってそれくらいのことはするはずだ。


 アキラがそれをしたところで、誰が咎めると言うのだろう。


 なのに、そうしようとする度、あの診断書の記述が頭に浮かぶ。


 暴力への抵抗。それがない。生まれつき人間として大事なものが欠落した子供。


 お前が、そうなんだよ。


 ――特に懸念されることは、本人は暴力行使に抵抗を表さないことにあり、何かしらの対策を講じない限り、幼少期から小動物や児童への暴力行為の有無を細かく監視する必要が――


 ――中にはその機能がぶっ壊れちゃってる人間もいるみたいだけどね。暴力を振るうことに抵抗がない人間っていうのも、稀にだが存在す――


「違う! 違う、僕は違う。違う違う違う! 僕はそんな人間じゃない‼」


 日本と異世界。診断書の記述と兎獣人の言葉。


 全く異なる場所で出会った全く同じ意味合いの言葉が交互に記憶に再生される度、アキラは即座に否定し、拒絶した。


 記憶を消し去るように、アキラは自ら床に頭を打ち付けた。自分の髪を千切れそうなほどに掴んで、幾度も頭で床を派手に鳴らした。


 痛みを痛みで打ち消そうとするような蛮行だが、アキラの意識はもはや論理をかなぐり捨てるほど悲鳴を上げていた。


 一番わからないのは、あの剣の正体だ。


 あのときアキラは、逃げる余裕はなく裸の腕で自分を庇うことしかできなかった。


 自分の危機に瀕した際に潜在能力が開花したのだと考えるにしても、あまりにもあの剣はアキラの心情には不釣り合いの命を狩る形をしていた。


 まさか、あの診断書にあったような自分の特性が異世界で能力として芽吹き、あの剣を生み出したのだろうか。


 だが、アキラはあの偽宣教師に反撃してやろうなんて思ってもいない。


 あのときの自分はアルシャを庇うことしか頭になく、暴力的な感情なんて皆無だった。


「っぐ、うぐぅぅっ――ぉええっ」


 激しい嘔吐が止まらない。部屋の隅に次々と酸っぱい臭いが充満していく。


 考えれば考えるほどわからなかった。


 わかるのは、いつの間にか異世界に転移させられていた自分に、間違いなく天使も同伴していたという事実のみだ。


 アキラには異世界でチートできるような知識も道具も持っていない。


 スマホの一つでもあればどれだけこの世界の住人を驚かすことができただろう、と考えたことは一度きりではない。


 よりによって、一番いらないものがついてきた。


 この痛みもよく覚えている。よく、思い出している。


 自殺しようとしたときも、同じ痛みが襲っていた。でも、比にならない。


 それを何十倍にもした激痛が、今アキラを蝕んでいる。この差の理由は明らかだ。自殺よりも他人を傷つけることの方が重罪だと、天使は見做している。


 罰から逃れようと青年団の宿所まで走ったのは、記憶がなくても身体がこの痛みを覚えていたせいだ。


 天使の罰が来るのを、身体が予感していた。だから赦しが欲しかった。素直に悪いことをしたと自白すれば自首すれば白状すれば、罰が軽減されるような気がしていたから。


「もうしないから、もうしない、もうしません、しませんしませんしないからああァァッ!」


 罰を受けている今だからこそ、そんな行動になんの意味もなかったのだとわかってしまった。


 全身を強ばらせて堪えなければいけないほどの激痛に、アキラは無意味でも子供がするように反省の言葉を繰り返し叫ばずにはいられなかった。


 耐えるしかない。終わるまで。


「むり、だよぉ、死ぬ、こんなの。死ぬって。くっ、ごぉぇ……うっ、うっ……いだいよぉ……! ……だすげてっ、おがあさ……!」


 どこかで、半信半疑だった。


 両親がそんなことをするはずがない。脳の人格矯正チップなんて何かの間違いだ。


 頭痛が起きているのは、ただの気持ちの問題だ。多少頑固な自分の性格が引き起こした、ストレス性の痛みでしかない。


 人間関係の不和で起きる生き辛さだってそうだ。自分が人より少しだけ下手くそなだけ。大人になれば気にならなくなる。


 きっといつか気の合う親友だって、できるって。


 そうであってほしかった。


 そうであってほしかった。


 そうであって、ほしかった。


 見知らぬ世界につれてこられて、たった数日で許されざる最大の罪を犯してしまった。


 人工知能=天使リーゼは今も頭の中で微弱電気パルスを発し、アキラの脳の神経伝達物質の量をいじくりまわしている。


 その影響は腹の内臓にまで及び、自分で腹を引き裂いて取り出したいほどの激痛を生み、自分のものではないかのように蠢いていた。


 こんなことになるなら、生き辛くても元の世界の方が数倍マシだった。


「やだよぉ……! 頭が、割れちゃう……爆発しぢゃうぅ! きゅ、救急車っ。救急車呼んでよぉ! 病院、行かなきゃ、こんなのしんぢゃうからああッ」


 ここが異世界だという事実はもはや頭から抜け落ちていた。どんなに呼び求めても、寄り添って痛みを和らげてくれる母親も、駆けつけてくれる救護隊員も、親身に診てくれる医者もいやしない。


 子供が床に寝そべって駄々を捏ねるように、アキラは頭を抱えて両足を何度も振り回し、ジタバタと足掻き続けた。


 いつまで耐え続けなければいけないのだろうか。


 惨苦のトンネルに、出口の光はいまだ見つからない。











 異変を感じて雑居房に集まってきたのは村の男たちだ。


「アキラの様子がここ一日ずっとおかしい。一体、どうしたんだ」


「わからん。痛みを訴えるから痛み止めを多めに飲ませたんだが、一向に利く気配がない。こんな症状は初めて見る」


 わかるわけがない。この痛みを生んでいるのは、頭の中の機械なのだ。


 男たちの中には村医者もいたらしい。アキラの瞼をこじ開けて焦点の合わない瞳を覗き見たり、顎を引っ張って口内の異常を調べたりと触診を重ねるが、原因がわからず唸るばかりだった。


「原因がまるで特定できん。もう、あの子に頼るしか……」


「しかし、彼女は――だぞ。極力関わらないって決めていたじゃないか」


「わかっている。だがこの苦しみ様は俺たちにはどうしようもない」


「あの宣教師も一命は取り留めたが、昏睡状態だ。彼女に頼るしか」


「彼女は彼の受け渡しを要求しているそうじゃないか。いっそ交渉材料にしてしまってはどうだ」


「アトヴァルグ盟約か。確かにそれなら穏便に片付けることができるかもしれない。内々でやってしまえば領主からの余計な注目も浴びずに済む」


「待ってくれ。彼はここに迷いこんできただけだ。それを交渉材料にするっていうのは……」


「しかし、我々がそこまで気に掛けてやる必要が本当にあるのか?」


「彼が偽物とはいえ魔人信教徒を刺したのは間違いないんだろう?」


「それは、そうだが……」


「そもそもこの少年は何者なんだ?」


「わからない――」


「わからない――」 


 しばらく男たちは盛んに意見を交わし合っていたが、時間が経つにつれて次第に黙り込む者も増えていった。


 三十分程度で一通りの議論が終結したらしく、男たちは一様に深く息を吐いた。


「――仕方ない。彼には悪いが……」


 最後に聞こえた会話は、そんな終わり方だった。















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