天使×××――《電子レンジと黒い影、それとアキラ》(2)

 

 天使を破壊することも不可能だし、自分をまるごと殺すことも不可能だ。


 電車の前に飛び出ようと思えば足は動かず、飛び降りようと思っても踏み切れず、アキラがそこに自分の死が待っていると認識すれば、天使もそれを理解して抑制する。


 なら方法はもう一つしかない。


 アキラが頼ったのは、悪魔だった。


 ――誰かが、僕を殺してくれれば。


 自分の意思が、認識が、企図が、及ばないところで死が向かってくれれば、天使は為す術もなく壊れてくれるだろう。アキラと共に。


 それを探してアキラは徘徊した。家の中ではよほどのことがない限り不慮の事故は起こらない。


 だが幸いにも、街中には悪魔と同居している人間がいっぱいいる。


「なあ。だから、僕を殺してくれよ。お前らには悪魔がいるんだろ……」


 と、道行く人に面と向かって言えるほどの度胸はなかったが、ぶつぶつと呟きながら、アキラは足が向くままに歩いていた。


 夕暮れ時までアキラは歩き回ったが、こういうときに限って都合のいい悪魔は現れない。


 悪魔を飼っているはずの人間たちは、アキラを気味悪がって近付いてこなかった。


「なんでだよ、なんでなんだよ……」


 理不尽と不道理を呪いながら彷徨っているうちに、寂れた団地の公園に迷い込んでいた。


 誰も居ない公園。砂場は昨今の子供の騒がしさへの圧力からブルーシートが被されている。滑り台にも黄色い縞模様のロープが巻かれ、遊べないようになっていた。


 ここはなんのための場所なのだろう。


 人が住んでいるはずの土地の中で、不自然に切り取られた不思議な場所だった。


 勝手に生んでおいて、理想にそぐわないからと封じられた、自分のような。


 公園を囲む全ての木が、幽霊のように空に伸び公園とそれ以外とを断絶している。


 その高さは自分を吊す自由への階段にも見えた。しかし自分から昇ることはできない、生殺しの状態だ。


 辺りを見回したのは、「どれにしよう」と吟味するためではなく、虫の知らせに近いものだった。


「あ……?」


 最初は、他に誰かいたのかと思った。近所の住民か、あるいはホームレスか。ぼうっと突っ立ってこっちを見てくるような感じで、公園の中央付近に突っ立っている。


 だがそれは、人ではなかった。


「なんだ、あれ……」


 そこには、顔がなかった。全てが黒かった。影だけでできたような空間に浮き出る人型が、確かにそこにいる気配を伴って立っていた。


「こっちを、見てる?」


 表なのか裏なのか。自分に向いているのがどちらなのかは見た目ではわからなかったが、感覚でその人型が自分を見ているのだと確信できた。


 その証明は簡単だった。人型が、アキラのいる方向へ一歩踏み出したからだ。


 歩く速さは人並み程度だが、迷いもなくアキラに向かってくるその迫近感に、アキラは自分が身震いするほどの恐怖を覚えていることを自覚した。


「わああああっ!」


 アキラは公園の入り口に向かって踵を返し、走り出した。


 あるいはそれは、アキラが望んでいた自分を殺してくれる存在だったのかもしれないと、逃げながら考えた。だが一度竦んだ身体は止まることを許してくれなかった。


 どこに逃げればいいかなんて思い当たる場所はなかった。とにかく迫ってくる影から距離を取り振り切ろうと出鱈目に道路を選んだ。


「あああ! 痛い! 痛いいい!」


 交通ルールなんて守ってる余裕はないのに、天使は律儀にアキラを罰してくる。


 痛みと追われる恐怖で、もう周りは見えていない。


 曲がり角にあった空き缶のゴミ箱を蹴飛ばして、さらに頭痛が起きた。頭を抑えながら、それでもアキラは逃げ続ける。


「なんでこうなるんだ! なんなんだよ一体!」


 どうやらあの影人間は他の人には見えていないらしい。アキラが必死の形相で走り抜けても、すれ違う人たちは皆怪訝な顔をして立ち止まるだけだ。


(あれは、天使、なのか? 天使を壊そうとしたから、出てきた?)


 痛む頭でそんなことを考える。自分にしか視認できていないのだから、そう考えるのが妥当だと思った。


 やがてアキラは袋小路に入り込む。道を選ばなかったのが災いした。


 壁際でこけてなおも後ずさりしようとするアキラを、影人間は容赦なく追い詰めていく。


「やめろっ! 僕は何も悪いことしてないじゃないか! 天使に従って生きてきただけなんだ! 僕は悪くない! 悪くないんだ! だから、来るなぁっ!」


 ふいに、聞き慣れない不思議な響きを持つ音が、自分の叫び声を掻き消すほどにくっきりと、だが静かに聞こえた。


『ガリウ、……ラタ、トゥ……』


「……え?」


『……ウルゼウル……ゴ……イシュカ……ウル…………テルタ………………』


 そんなぶつ切りの音が漏れてくるのは、影人間からだった。


 それはただの音なのか、言葉なのか。自分に起きた異変に混乱を隠せないアキラにその判断は不可能で、影人間はアキラの眼前にまで迫っていた。


「寄るな。天使なんかいらない。もういらない! 僕は悪くない! 僕はただ、天使から逃げたいだけなんだっ!」


『ジュ……ピすテ、……カりス……ビラーた……』


 影人間は意味不明の言葉を紡ぎ続ける。


 そこで一つ気づいたことがあった。影人間の言葉が、次第に明瞭さを得ていたのだ。


『……シャすタ……エイし、エる……だが…………王に……まだ、足りない…………』


(なにを、言って――)


 意識的に聞き取れたのはそこまでだった。不思議な声は残響のようにアキラの中に入り込み、アキラの意識もまた、その声に誘われるように狭まっていく。


 その最中でも、アキラは納得することはなかった。


 将来犯罪を犯すと予言された子供。


 社会には不適合だと見做された脳みそ。


 確かに自分はそう診断されたのかもしれない。


「それでも僕は、僕には――天使なんかいらないんだ」


 影の腕がそう呟くアキラの顔面を掴み、視界は完全に暗闇に閉ざされた。










 ――そして、気づけばいつの間にかこの異世界に来ていた。


 だが、その前後の記憶が一部失われていた。


 あの同意書や診断書のことも。天使リーゼのことも黒い影のことも。


 おそらくショック性の一時的な記憶喪失だったのだろう。





 今、全てを思い出した。





 そして僕は、この異世界で、あの偽宣教師を――











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