天使×××――《ツミとバツ、それとアキラ》



「みんな、わかってくれないんだ」


「アキラは正しいことをしているわ。大丈夫、自信を持ちなさい」


 そう言う母親の顔は、なぜか半分悲しそうだった。


「アキラは昔から、〈悪いこと〉を嫌悪して許せない子供だったから」


「だってそれが当たり前じゃないの? 〈正しいこと〉をして生きるのが、人間のあるべき姿でしょ?」


 自分がそんな悩みを相談するとき、相手の目を見ないのは悪い癖だと、自覚はしていた。


 それでも母親は、自分の名前を呼ぶときに柔らかな声を出してくれる。


「みんながみんな、そうできるわけじゃないの。でも、アキラは心の中に天使を住まわせているの。それは他の人にはない、特別なことなのよ」


「天使……?」


「そう、天使。アキラは天使の声を聞けるのだから、それを守って生きていればいいの。そうしていれば、きっと幸せになれるから」


 母親はいつもこうやって優しく言い聞かせるように薄く微笑む。幼いころからそうしてきたように。


 そうされるとアキラは何も反論できなくなる。無理やり納得して、頷いた。


 これがいつものプロセス。それを信じるしかなかったから。


 だから、アキラは行動した。







「お前さ、少しは空気読めよ」


 高圧的に見下ろされ、アキラは壁際まで後ずさりした。


 校舎裏の物陰で、クラスメイトのユージは不満げに距離を詰めてくる。


「うぜーんだよ。そうやって何回も何回も指図してくんのが」


「だって、それが規則ルールだろっ」


 アキラは反論して喚くが、ユージは一層威嚇するように顔を近づけてくる。


「それがうぜーって言ってんの。誰に迷惑かかるってんだよ」


「み、未成年がしていいことじゃないって、法律で決まってることじゃんか……」


「いちいちいちいちさ。今日のことだけじゃねえんだよ。なんでお前に髪の長さとか毎回毎回文句言われなきゃなんねえの? 俺の勝手だろ」


「それだって校則で決まってることだろ。それを指摘して、何が悪いんだよっ」


「あ? あー、はいはいはい。わかったわかった」


 ユージがわざとらしい笑い声をあげる。すぐに厳めしい目つきになって、アキラを睨んだ。


「じゃあ、お前はこういうこともできねえよなぁ!」


 ユージは大振りに腕を引くと、アキラの頬に殴りかかった。


 ユージの拳はアキラの頬に真横からヒットし、面白いくらいに身体が飛んだ。


 倒れた拍子に、胸のポケットからスマホが飛び出て、壁にぶつかった。パキンと嫌な音が割り込んだが、ユージには聞こえていなかったようだ。


「おら、殴り返してこいよ。できないよな? だって暴力はコーソク違反でホーリツ違反だもんな?」


 ユージの挑発に後ろの男子生徒たちからも笑いが起こる。


 だがアキラはその程度で怖じ気づきはしなかった。


「しない。人を殴ったりするもんか。暴力は最低の違反行為だ」


 ユージはアキラが逆上してくるとでも思っていたのかもしれない。予想した反応をしないアキラに冷めたのか、ユージは大きく舌打ちする。


「んなこといって、お前だって信号無視くらいしたことあんだろ? いるんだよな。自分のことは棚にあげて、他人の悪いとこばっかあげつらうやつ」


 地面に尻をつけるアキラを見下ろして、ユージは馬鹿にするようにハッと息を吐いて笑う。どんな小さなことでもアキラの瑕疵を見つけて、揚げ足を取るつもりだったのだろう。


 しかし。


「ないよ」


「あ?」


「一回もない。信号無視だって校則だって、どんな小さなルールも、僕は一回も破ったことはない」


 断言した。心の底から。


「……気持ちわり」


 蔑まれた。心の底から。







「事情はわかった。明日シシクラには話を聞いておく」


 シシクラとはユージのことだ。あの後すぐに職員室に向かい、担任にユージが法律違反と校則違反をしていたことと、殴られたこととスマホを壊されたことを報告した。


「お願いします」


 違反行為にはそれ相応の処罰がふさわしい。当然、見つけた自分にも報告する義務がある。明日というのが気に入らないが、もうユージも帰宅してしまったのなら仕方が無い。


 話を聞き終えると、教師は渋い顔をした。


「だがなぁ……」


 教師は数秒言い淀むと、座った状態からアキラを見上げる。そこにはなぜか、憐みに似た、可哀想なものを見るような光があった。


「お前の方にも何か問題があったんじゃないか?」


 意味がわからなかった。なぜこの男は突然そんなことを言い出すのか。


「僕は違反を指摘しただけです」


「そりゃわかるんだが……」


 担任は足を組み直してから続けた。


「お前が規律に対して自分にも他人にも人一倍厳しいことは知ってる。俺はその姿勢を好意的に見てきたし、模範的な生徒だと思ってるよ。ただな」


 教師はいかにもアキラのことを慮っているというような態度を崩さずに言い放った。


「こういう言い方はどうかとは思うが、お前のために言っておく。潔癖症も過ぎると、周りに敵を作ることになる。あんまり余計なことをしてるとこの先過ごしづらいぞ?」


 なんだよ、それ。






 ふざけた教師だ。なぜ〈正しいこと〉を行った自分の方が注意されないといけない?


 憤りながら下駄箱のある玄関口まで続く廊下をアキラは歩いていた。


 部活に所属していないアキラは本来ならすぐに帰宅できるはずなのだが、ユージに呼び出されたことと教師に報告していたこともあって、帰りが多少遅れてしまった。


 今は部活のない生徒たちが一通り帰ってしまった時間帯で、生徒の姿はほとんどない。


 その中を、アキラ以外に横切る人影があった。


(あ、カナちゃんだ)


 恋愛とは無縁の高校生活が続いていたが、そんなアキラにも気になる女子は一人だけいた。


 サイトウ・カナ。


 アキラの隣のクラスのB組。校則通りのきっちりした格好でありながら、彼女には可憐さが醸し出ていた。


 同じ制服なのに、どうしてここまで印象が違うのだろうと不思議になる。


 髪も染めず真っ黒で、ショートボブで切り揃えた髪型は清楚さを感じさせる。


 生徒手帳に書いてある服装規定の絵が、可憐になって飛び出てきたような。


 アキラの理想的な女子像が、現実に同じ学校に生徒として存在しているのだ。見かける度に、アキラの胸は高鳴った。


 でも、アキラはまだ彼女と一度も話したことがない。もう二年生の後半にも入っているのに、学年全体で分けられる移動教室でさえ一緒になったことがない。


 すれ違ったり、通りがかる彼女を離れた場所から見つめるだけで、なんとか話せるきっかけを掴みたいといつも思っていた。


 転機は今日このとき、ふいに訪れた。


 カナが下駄箱の前で立ち止まり、耳にかかった髪をかき上げた。形のいい耳の中に、黒っぽい塊が嵌まっていることにアキラは気づいた。


 それは、今若者の間で流行っているとニュースでも有名な、外耳道に取り付けるタイプのモバイルデバイスだった。


 視覚的なインターフェースを介さず声だけで自由にメッセージ送受信などの操作ができるということもあって、高校などでは試験の際に耳に機械が嵌まっていないか確認されるほどになっている。


 特に女子は髪で隠せるため、学校で秘密のやり取りをしたがる女子生徒に人気があった。


 アキラのいる高校では、スマホなどの明らかに操作していることがわかるようなデバイス以外のものは、普段でも持ち込みが禁止されている。それは生徒手帳にも明記されていることだ。


 カナのつけているデバイスの持ち込みは明確な校則違反。彼女がそんなことをしているのを信じられなかったアキラだが、逆に「これだ」と思った。


 靴を履き替えようとするカナにそろそろと近付いて、「あの」と声をかけた。


「それ、校則違反だよ」


「え?」


「持ってこない方がいいよ。気持ちはわかるけどさ、やっぱり、決まってることだから」


 やった。初めて話しかけられた。


 アキラが耳を指さしていることに気づき、なんのことかわかったのだろう。カナが口を開く。


「え、あんたに何か関係ある?」


 あれ?


「いや、僕に関係あるとかそういうのじゃなくて、学校に持ってきちゃいけないもので」


「だから、なんでそんなことをいきなりあんたに指図されないといけないの?」


「いやだから、僕がどうとかいう問題じゃなくて……」


「あーもう、話になんない! なんなの、こいつ?」


 会話が狙った通りにならない。どうしてカナはこんなに怒り出すんだろう。


「何を騒いでいるんです?」


 横から割って入ってきたのは、中年の女性教師だった。


「なんでもないでーす。先生」


 アキラの背が死角になっていて近付いてきていた教師に気づかなかったのだろう。カナは教師に気づくと誤魔化すように笑顔を向ける。


 しかし教師は咄嗟に耳を庇ってしまったカナの動きを目ざとく見ていたらしい。


「ちょっと。今隠したものを見せなさい」


 観念したのか、カナは自分の耳を教師に見せた。


 カナのつけていたデバイスは授業中でも手ぶらで操作できる上、発信される音は骨伝導のため周囲にはほとんど聞こえない。


 呟き程度の声量でも操作可能のため、教壇に立つ教師からは、生徒が真面目に授業を聞いているようにしか見えない。


 アキラの高校では教師間でも問題視されていることだ。


 特にこの女教師はそういった話題に過敏で、生徒間でも取り締まりが厳しいと噂される学年主任だった。


 教師はカナにデバイスを取り外させた上で、自ら渡すように手を差し出した。


「これは没収します。まったく、何度言えばわかるのかしら。なんなの、その目は。何か文句がありますか?」


「……ありません」


「期末考査が終わってから親御さんに報告した後に返却します。じゃあ、真っ直ぐ帰りなさい」


 恨めしい目で教師を見送るカナに、アキラは横から声をかける。


「残念だったね」


 余計な茶々は入ったが、まあ仕方ないことではある。カナとはこうして話す機会もできたわけだし、結果としては上々だ。


「はあ?」


 カナは敵意が惜しみなく上乗せされた音波を吐いた。


「こんな帰り際にさ、あんたが余計なこと言ってこなきゃ取られなかったのにどうしてくれんの?」


「いや、だって、校則違反……」


「あんた生徒会長? それとも風紀委員? 違うでしょ。なら、あんたの仕事じゃなくない?」


 なぜカナはこんなに怒っているんだろう。


 何か〈悪いこと〉をしたなら、罰を受けて、それで終わりでいいはずじゃないか。


「そうだけど……」


「もう二度と話しかけてこないで。あんたちょっとおかしい」


「…………」


 失敗してしまった。あんな風に嫌われるとは思わなかった。


 ただ話すきっかけになると思っただけなんだ。軽く注意して、そこから何か話が繋げられると思っただけなんだ。


 カナにも自分と同じように〈正しいこと〉をして、清廉でいてほしかったから。







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