百八十度
「死ね、死ねよ。クソガキ。お前がいなきゃ全てうまくいってたんだ」
ナイフを握り、次第に歩調を上げて近付いてくる偽宣教師。その姿はまさに――
(悪魔だ――!)
あるいは偽宣教師自身が、本当は魔人とやらに取り憑かれていたのかもしれない。
あまりに人間からかけ離れた憎しみの表情で、アキラを睨み付けてくる。
アキラははっきりとわかった。これは生まれて初めて自分に向けられた、本物の殺意だ。
本物の、ナイフ。本物の、暴力!
それらを目の前にして、アキラは股慄しその場から一歩として身動きがとれない。殺意というものがこれほど身を竦ませるものだと知らなかった。
「アキラっ、逃げて!」
背後から聞こえたアルシャの声でようやくアキラはハッとした。後ろを振り向くと、彼女はあろうことか、アキラに向かって駆けてきていた。
(アルシャ、僕を助けようと――)
アキラはアルシャと偽宣教師に挟まれる位置に立っている。逃げるならばアルシャにいる方向へ、アキラが駆け出しているべきだった。
初動が遅かったのだ。アキラがすぐに判断を下し走り出していれば、二人とも逃げられる余地がまだあったのに。
今、偽宣教師に背を向けてもそのまま背中に刃物を突き立てられるだろう。
仮にうまく切り抜けたとしても、自分に向かって走ってきているアルシャがあの白刃の犠牲になる。
偽宣教師はたとえ相手がアキラでなくても、邪魔する者に容赦するような人間には見えない。
取れる選択肢はもう限られている。もう五メートルも距離はない。アキラは即断した。
自分はいくら傷つけられてもいい。だけど彼女だけは傷つけさせない。
――アルシャを、守れッ!
異世界に転移して、まだ何も能力が見つからない自分にはこれくらいしかできることがない。
いや、これだけはできなければいけない。
自分が盾になってでも、アルシャを守る。
アキラは駆けてくるアルシャに背を向け、両手を広げて庇った。
「こっちに来ちゃダメだ!」
制止するアキラに、しかしアルシャは足を止めなかった。
僅差で先にアキラに触れたのはアルシャの方だ。アキラの左腕にしがみついてきた。
これでは二人とも凶刃の餌食だ。
「アルシャ、なん……で」
聞いている暇なんてなかった。宣教師の貪戻に光るナイフはもうすぐそこまで迫っていた。
強く目を瞑った。
来たる刃が自分に与える傷を覚悟して。
――一瞬、時が止まったのかと思った。
刺されてしまったのだろうか。しかし痛みは感じなかった。
刃物で刺された傷は、痛いというよりも熱いのだと聞いたことがある。
今の自分は熱さを感じているか? 確かにあつい。でもこれは、熱いというよりも暑いだけだ。
じゃあまだ刺されていないのか。恐る恐る目を開く。
まず目に入ったのは、自分の頭より上の位置で夕日を反射するナイフだ。
宣教師は逆手にナイフを握った腕を振り上げたまま制止していた。
その銀色に赤は付着していない。つまり、まだ誰も刺されていない。
「止まって、くれた……?」
安堵して視線を少し下にずらす。宣教師は、なぜか苦悶の表情で歯を食いしばっていた。
どうして刺そうとしてきた方がそんなに顔を苦悶に歪めているのか。
アキラは疑問に思いながら、また少し視線を下げた。
「あがっ、き、さま……」
やけに水分を多く含んだような宣教師の嗚咽と共に、アキラはそれを見た。
ナイフを振り下ろせないのは当然だ。宣教師の右胸に何かの塊が生えている。
薄い青を帯びる銀色の塊。ぐにゃりと波打ったように歪んだその形に、アキラはゲームでも見覚えがあった。
フランベルジュと呼ばれる、炎のように刀身が波打つ種類の剣だ。
刃渡りは七〇センチ以上はあるだろう。
刃の部分から柄までが同色の一塊の金属になっていて、剣が生えたというよりも、剣の形をした金属が生えたという印象だった。
それが、偽宣教師の胸を貫いている。ナイフを振り下ろせないのは、振り上げた腕の方の胸を抑え込み貫き支えているからだ。
「ガハッ、ガ、プッ……」
直後、偽宣教師は大量の血を吐いた。
それでもなお、偽宣教師はアキラを睨み、強く食い縛っていた。血に濡れた彼の歯が、てらてらと光っていた。
アキラはわからなかった。
なぜ、宣教師の方が刺され、苦しんでいる?
彼を刺したのは、誰だ?
アルシャがやったのか?
僕を助けるために?
剣の柄にはまだ手が握られていた。
アキラは視線を動かしてその腕を辿っていく。
指、手首、肘、腕、肩へと。
その刃を握り、宣教師の胸を貫いた人物は、今どんな顔をしているのかを知るために。
だがひとつおかしなことに気がついた。何度、目で柄を握る手に繋がる腕を追っても、最終的に自分の肩に行き着くのだ。
アキラは驚愕し歯の根が震えだした。
宣教師の胸を貫いている凶器を握っていたのは、アルシャではなく、自分自身の腕に他ならなかった。
「はぇっ……?」
間抜けな声を出すと、隣からこの場で最も理性的な声がアキラにかけられる。
「アキラ! 大丈夫 しっかりして!」
アルシャがアキラにしがみついたまま、慌てた声を出していた。
しかし彼女の声もアキラに冷静さを取りもどさせるには足りなかった。だが、アキラに思考を再開させるだけの刺激にはなった。
僕が刺した? 偽宣教師を? だから、血があんなに、流れて……?
「うわぁぁ……うわああああ……うわああああ――」
おかしい。これはおかしい。
「うわあああっ、うわあああっ! うわあああああっ‼‼‼」
だって、おかしい。おかしくないわけがない。だって、おかしいんだ。
口元の震えが身体全体に波及していった。後ずさりしながら、硬直したように動かない指をなんとか柄から剥ぐ。
支えを無くした途端に宣教師は力なく傾き、膝をついて頽れる。意識は辛うじて残っているのか、呻き声が口の端から零れていた。
確認するまでもなく重傷だ。即死していたとしてもおかしくない。
おかしい、おかしい、おかしい。
この異世界で、倫理に悖る行為だけは避けようとしていたのに。
天使の声をだけを聞き、悪魔の声を拒絶してきたのに。
なんで、よりによって、人を刺――
「うわああああぁぁッ!」
「アキラっ!」
アキラはアルシャの腕を振りほどき、その場に放置して駆け出していた。
転げそうになるほど身体を前倒しにして、貰った靴が何度も砂利の上を滑りそうになるのを感じながら、アキラは考える。
(これが、これが僕が異世界で得た能力なのか?)
あの鋼は確かに自分の腕から伸びていた。生物を裂き、臓物を貫く形をしていた。
誰も傷つけたくなかった。平穏こそ最も欲しいものだった。
こんな力は望んでない。こんな暴力的な能力は欲しくない。
異世界ファンタジーの中で敵を果敢に倒していくのに爽快感を覚えるのは、あれが物語の中だからだ。
実際にやれば生臭い血の臭いと命の流れを失った肉が残る。
それがわかっているから、アキラは人を傷つけるくらいなら魔法や能力なんていらないとすら思っていた。
だというのに、出てきたのは暴力の象徴とでも言うような、歪な剣だ。
だがあの剣が出てきた瞬間の記憶がないのも不思議だった。あの薄青い金属は、気づいたときにはもう手の中にあった。
魔法的な力が働いて呼び出されたのだろうか。
自分の窮地に自覚していなかった才能が呼び起こされ、あの剣を産み出したのだろうか。
でもそれだったら、もっと何かしら自分の身体へ変化を感じてもよかったはずだ。
あの剣の出現はあまりにも唐突で、そう、自動的だった。
理由を探ろうとするのに思い浮かぶのは、手に残る、人体に突き刺さった金属の触り心地。
なぜだか急激に頭が重く、痛みすら感じるようになってきた。それとともに湧き出てくる情動と衝動が、アキラを支配し突き動かす。
――償え! 償え! 償え!
(償う? なぜ?)
決まってる。罰が来るからだ。
(来る? 来るってなんだ? 何を僕はこんなに恐がってるんだ?)
わからない。わからないのに、確信がある。
確信があるから、焦りが大量の汗を表出させ走る風圧に飛ばされて地面に染みをつくる。
止まらない。
身体中が――を求めて止まらない。
(走れ! はやく! 今すぐに――するんだ!)
でないとここにいられなくなる。
目的の場所に着くと、アキラは体当たりする勢いで扉をノックする。
あまりの五月蠅さに辟易したらしい中にいた人間が、躊躇いがちに開けた。
「って、なんだ。アキラじゃないか。一体そんなに慌ててどうしたんだ?」
出てきたのはハンスだった。ここはタルキス村青年団の宿所。ハンスの仕事場だ。
言い換えればこの村で最も、小規模とはいえ警察機能を持ち合わせた組織が詰まっている場所だともいえる。
アキラは出てきたハンスの胸ぐらを叩き必死の形相で訴えた。
「昼間に広場にいたっ、宣教師の人が、さ、刺されてっ! 血を、流して! 助けてあげてくださ、お願いしま、お願いします!」
「なんだって? わかった、すぐに人を向かわせる」
アキラの顔と服が返り血に濡れていたのを見て、すぐに察したのだろう。ハンスの緩んだ顔が一瞬で引き締まる。
彼が団員に素早く指示を飛ばすと、数人の青年団員が宿所を飛び出していった。
「ひとまずアキラが無事でよかった。事情は後で聞くから、お前さんはここで待っていろ」
ハンスもまた自ら赴こうとしたが、アキラは彼の袖を掴み離さなかった。
怪訝そうな顔でハンスが見返したアキラの顔には、事件を目撃しただけとは思えない、追い込まれた人間の表情が張りついていた。
「刺したのは、僕です。僕を、僕を拘束してください……っ」
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