天使×××――《ツミとバツ、それとアキラ》(2)
殴られた上に、気になる女子にも嫌われて。なぜか教師にも自分が悪いような言い方をされて。スマホも壊れた。最悪の一日だった。
ひとしきり校庭の隅で物思いに沈んで過ごしたあと、アキラは腰を上げて帰路に立つ。
ユージもカナも、相応の報いを受ければいい。停学になろうが知ったこっちゃない。
〈正しいこと〉をした自分を馬鹿にし、自分たちだけズルをしようとした罰を受ければいいんだ。
明日になればユージも顔を青くしているだろう。その姿を想像するだけで清々する。
帰り道の駅前に通りがかったときだった。
見たことのある背中をふたつ見かけた。片方は背の高い男子で、もう片方は黒髪の女子だ。
ユージとカナが二人並んで楽しそうに話していた。帰りがけにどこかに立ち寄っていたのか、二人とも同じ飲み物のカップを持っていた。
なんであの二人が一緒に歩いてるんだ、と思ってると、ふと、人目を憚るように自販機の影に入り込んでいった。
覗くつもりはなかった。ただ進行方向が同じだったから目に入ってしまっただけだ。
ユージが少し下を向いて、カナが背筋を伸ばして上を向く。お互いに向き合いながら。
二人の口が触れあうと、カナは頬を染めて照れくさそうに笑っていた。
その光景は、何か違反行為を見つけたときよりも心にきた。
不満だった。自分はルールを守っている。道徳を守っている。倫理を守っている。
人が、学校が、社会が、〈正しいこと〉だと言っていることは全て守っている。
なのに、なぜ自分の方が批判され、嫌われなければいけないのか。
違反行為を見つけて注意することは、アキラの日常だ。
駅でゴミのポイ捨ても糾弾した。大人に路上駐車違反を注意したことだってある。私欲のために働く転売屋に喰ってかかったことだって、ある。
だって、それが規則だ。
やっちゃいけないことをやっているやつらがいるから、口に出しているだけだ。
なのに、いつも損をするのは規則規範を守っている自分ばかり。
なんであいつらは心底楽しそうに笑っている?
なんであいつらは自分がなかなか得られないものを簡単に手に入れる?
ルールを破っているのに、悪魔の声を聞いているのに。
幸せになって笑っているべきなのは、〈正しいこと〉を行ってルールを守っている自分のはずじゃないのか。
それが道理のはずだ。それが道徳の存在意義のはずだ。
なのになぜ自分の心は、こんなにも悲鳴をあげて、よすがを探そうとしているんだ?
良心や規則の遵守精神が、彼らの怠惰な悪魔への寄りかかりに劣るというのだろうか。
それはおかしいことだ。人間社会で生きる上で、良心がハンディキャップであっていいはずがない。
考えても考えても、アキラは納得できなかった。
「天使の声を聞いて〈正しいこと〉をしてれば幸せになれるとか、嘘じゃんか……」
涙声で、つい文句を零すように呟いてしまう。
だいたい、馬鹿らしい。天使と悪魔なんて、一昔のアニメでありそうな表現で誤魔化されているだけだ。生まれ持った道徳心そのものに違いがあるだけなのに。
失望しかけて、すぐに軽く首を振った。母親を疑うのはよくない。
今はこの気持ちを閉じ込めて生きていくしかない。大丈夫。一年後に、十年後に、笑っているのは、きっと自分なのだから。
「はあ……」
幸福は未来に期待するとしても、さりとて直近の問題は解決しなければならない。
壊れたスマホのこと、なんて話せばいいだろう。殴られて落としたせいで壊れた、なんて真っ正直に話すのも抵抗がある。かといって嘘はつけない。
しかしアキラの心配は杞憂に終わった。母親は、スマホが壊れた理由まで問いただしてくることはなかった。それどころか、
「それもう五年くらい前のものでしょ。丁度いいじゃない。そろそろ新しいの買ったら?」
という鶴の一声で、アキラは今日の出来事も忘れて舞い上がった。
学校での不満を解消するように、何度も何度もカタログを見比べて厳選した。新しい携帯は週末に買いに行くことにした。丁度、新機種の発売日だった。
土曜は朝から仕事だという母親を連れていくわけにはいかなかった。
未成年が一人で契約しにいくにはどうやら親権者の同意書というものが必要らしいということはわかっていたので、前日にもらっておいた。
母親に印鑑を押してもらおうとしたが、どうにも抜けている母親は、どこにしまったのか忘れてしまったらしい。
「おかしいわね。ここにあったと思ったんだけど。ちょっと二階を探してくるから、もう少し待っててくれる?」
「僕も手伝おうか?」
「大丈夫よ」
母親に従い、リビングで待つことにした。廊下側からは、階段を上っていく足音が聞こえる。
手持ち無沙汰になったアキラは、自分も探してみようと台所を探った。が、それらしいものは見当たらなかった。あの母親のことなら、大抵のものはここにあると踏んだのだが。
「うーん。ここにもないとなると、後は、あそこかなぁ」
思いついたのは、廊下にある収納だ。
そこには家電の説明書や保証書など、普段あまり見ないような書類関係や、時期外れのインテリアなどが収められているのだが、どうやってか母親が昔そこに自分の財布を置き忘れて、家族中でないないと騒ぎになったことがあった。
母親はまだ降りてこないようだしと、アキラは廊下に出て収納の扉に手を掛ける。
開け放つと、多少埃っぽい臭さが鼻をついた。
「あ、これじゃないか? 大きさもそれくらいだし」
開けてすぐに、下段にあるブックエンドの端にある封筒が目についた。
A4サイズの茶封筒の底の方が、膨れたように厚くなっている。それは丁度ケースに入った印鑑と同じような大きさで、他の書類と比べて埃も被っていない。
何かの用事の際にここに置き忘れたのだろう。あの母親らしい。
苦笑しながら封筒を持ち上げて逆さにするが、中で何かに引っかかっているのか、なかなか出てこなかった。
一度書類を全部引っ張り出してしまおう。封筒の口を少し縦に広げて、十数枚の束になっている書類を一気に引き抜いた。
転がり出てきたのは、印鑑ではなかった。何が入っていたのかもわからない、透明の長方形のプラスティックケース。
それが書類の上を転がって、床に落ちてからんと音を立てる。
受け止められなかったのは、ふと目についた書類の文章のせいだ。
それが何の書類であれ、最初は読むつもりはなかった。家族とはいえプライバシーというものはある。
内容は両親の仕事関係かもしれないし、アキラの学校関係かもしれない。いくら親子とはいえ、子供に内情を明かしたくない部分もあるだろう。
それは親の見えない努力でもあり、子供に対する見栄でもあるかもしれないからだ。
ただしそこに、アキラ自身の名前が、手術という単語と共に書かれていれば話は別だ。
「なんだよ、これ……」
絶句するアキラだが、書類に落とした目が無意識にも文章を追ってしまう。理解が後追いして進むほどに、アキラの手は震え始めて紙に皺を刻んだ。
その封筒には、アキラを証明する書類が入っていた。
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