はい正常

 


 運動は苦手、完全文化系の新は走った。


 持久力は無い、瞬発力はもっと無いが、遅いなりに一度も歩かずに自宅まで走り抜いた。


 玄関のドアを閉め鍵をかけると、靴も脱がずに小上がりに転がる。


 そして、息を切らせながら携帯を取り出し、血走った目で操作を始める。



『もしも――』

「みやびぃぃっ!!」

『――わっ! ちょ、ちょっとどうしたの!?』


 電話に出るなり大音量で呼びつけられるみやび。



「ハァ……ハァ、ハァ……」



 荒い息遣いで、名前が出なければ完全に変態状態の新。

 みやびは心配そうな声で状況を尋ねる。


『どうしたの? 息が荒いよ?』

「……て、くれぇぇ……」

『なに? ちょっと聞き取りづら――』

「助けてくれぇぇ~~……」


 人はこんなに情けない声が出せるものか、そう感じる程に悲壮感満点の声を聴いたみやびは、


『わ、わかったから、今どこにいるの?』


「………家」


 今度は迷子の子供のように萎んだ声になる。


『すぐ行くから、待っててね!』



 電話を切り、僅か一分とかからずやって来たみやびは、まだ玄関に仰向けで転がっている虫のような幼馴染に目を見開く。



「だ、大丈夫あらた!?」


 急いで駆け寄ると、新は半泣き状態でみやびを見て―――


「きゃっ……!」


 しがみ付くように抱きしめ、通話中に聴いた声を再現する。


「みやびぃぃ~、こっ、怖かったよ~~……」

「ちょ……えっ? えっ?」


 突然の抱擁に戸惑いながらも、浮き立つ思いに頬を染めるみやび。


「ふぇぇ~~」

「と、とにかく落ちつ――」


 途中で言葉を止め、そのまま新に身を任せる。



( ……もう少し……いっか…… )






 泣く子が治るまで数分を要し、二人は新の部屋に移ろうと階段を上る。


 思えば今日、みやびから部屋で話そうと言われ渋っていた新だったが、皮肉にも自分から懇願する形としてそれは実現する事になってしまった。



「落ち着いた?」


 無言で頷く新。 みやびは先に帰っていたので、モスグリーンのシャツワンピに着替えを済ませている。


「それで、何があったの? 森永くんに何かされた?」


「――っ!!」


 もはや “答え” のリアクションをする新を見て、みやびは眉を寄せる。 何故か今日は新の膝に置かれているシャチくんもどこか不機嫌そうだが……。



「……そう。 いくら森永くんでも、新を傷つけるのは許さない……! で、何されたの?」


「そ、それは……」



 言い難そうに目を逸らす新。


「まさか、乱暴された?」

「いや、違う」

「じゃあ、ひどいこと言われたの?」

「そういう訳じゃ……」


 具体的な被害を言わない新に考え込むみやび。



「言いづらいのかも知れないけど、話してもらわないと……」



 いざ話を詰めた時、何をしたのかを知らないのでは困る。 だがそう促しても、なかなか新は喋ろうとしない。


「うーん。 暴力でも、文句でもないなら……―――恥ずかしい……こと?」


「――ッ!!」


 さっきから正解は態度で示す方式を採っているようだ。


「……な、なにされたの?」


 まさかの正解にみやびも慎重な姿勢を取っている。 新は眉尻を下げ、ぼそぼそと話し出した。


「みやび……口堅い?」

「なにを今更っ……! 私はあらたが最後におねしょした小学――」

「そーれーはっ! 忘れてくれ……っ!」


 幼馴染ならではのエピソードだが、恥ずかしい過去を声を大にして掻き消す。


「ちゃんと話して? なにがあっても私は新の味方だよ?」


 覗き込むように話すみやびの前髪が揺れる。 それ以上に揺れ方の酷い精神状態の新は、信頼している筈のみやびを持ってしても疑う目で視線を送り、


「絶対、誰にも言うなよ……」

「もちろんっ!」


 真剣な顔のみやびを見て大きな溜息を吐くと、新は少しずつ話を始めた。



「まぁ、最初は予想通りの話だったんだよ。 みやびを堕とした俺に興味があるって」


「う、うん……」



 さらっと『堕とした』などと言われ、恥ずかしそうに俯くみやび。 少しデリカシーの無い言い方だが、新の抱える問題はそれを気にさせない程に大きいのだろう。


「それで、俺はなんの変哲もないつまらない男だと言ったら、それでも俺を知りたいから自分の絵を描いてくれって言われたんだ、俺が美術部なの知っててさ」


「そう」


 この時点で少し微妙な話だが、話の腰を折っても仕方ないとみやびは呑み込む。


「で、仕方ないから描いたんだ、俺」

「それで?」


「それで………ぅ、ううぅ………」


「あ、あらた?」


 またも様子がおかしくなる新。 両手で顔を隠し、呻き声を上げ出した。

 心配そうに寄り添うみやび、折角の美少女からのご厚意も、今の新には美味しく頂けない。


「無理しないでいいよ? ゆっくり話そう?」


 優しく背中を撫でると、その身体が小刻みに震えているのを感じる。


「……りだ」

「えっ?」


 何かを呟いた新に顔を寄せるみやび。




「男は無理だぁぁぁ!」

「きゃっ!」




 突然顔を覆っていた手をずり下ろし叫ぶ新。



「急に近寄って来たと思ったら俺の膝に触ってきて……すごい赤い顔で見つめてなんか言ってたぁぁ!!」



 完全に冷静さを失った新。 どうやら泰樹の言った台詞は聞き取れなかったらしい。



「わかった、わかったよ? 大丈夫だから、もう怖くないからっ」



 取り乱す新の顔を抱きしめ、なんとか落ち着かせようと宥めるみやび。




 暫くクールダウンの間を置き、落ち着いてきたと思われた新が、みやびの腕に包まれながら呪いの呪文を唱えるように話し出す。



「そ、その時俺、俺、あいつの顔を見てちょっとドキッとしたんだよ……てことはさ、俺もあいつと……なのか? あいつと同じ……ホ、ホ……ぁぁぁああッ!!」


「あっ……! あ、あらたぁ!」



 みやびの腕から抜け出し、蹲って頭を抱える新。


 その見るに耐えない姿を暫く見つめるしかなかったみやびは、決意を込めた瞳で言い放った。




「森永くんが趣味の人なのかはわからないけど、新はきっと大丈夫っ!」


「……なんで……そんなことわかんだよぅ……」


 僅かに顔を上げ、恨めしそうな流し目でいい加減な事を言うなと訴える新。



 みやびは立ち上がり、凛々しい表情で新を見下ろす。



「ベッドに座って」



 決して強い口調ではないが、抗い辛い強い語気を感じる。 それでも新は、


「なんでそんなこと――」

「座って!」

「ひぃっ……!」


 ぐちぐちと渋る新に、今度は完全に抵抗させない勢いでベッドを指差すみやび。


 重い身体を起こし、のろのろとベッドの手前に腰掛ける新。 みやびは長いシャツワンピを両手でたくし上げ、


「動かないでねっ!」


 そう言って新に近寄って行く。


 そして―――




「な、なにを?」


 新の目の前に立つと、その膝に腰を下ろし座り始めた。


「おお、おいっ……!」


 制服のスラックスから伝わる温かさは、みやびの生足と発育の良いお尻。 みやびは頬を染めながらも表情を引き締め、新の首に手を回す。



「新が大丈夫かどうか、私が試してあげる」


「た、試すって――」



 真剣な表情のまま新の身体に身を寄せ、回した手で新の顔を引き寄せる。 二人の顔がお互いの肩の上まですれ違い、上半身が重なり、温もりと豊かな胸の膨らみを伝えて来る。



「ミ、ミアビ……?」



 ――声を裏返す新。



 膝から、上半身から、みやびの温もりと柔らかな感触が伝わり、それに味を付けるように、きめ細かく艶のある薄茶色の髪が、甘い香りを振り撒き脳まで浸透していく。





「……なにも感じない? 子供の頃から知ってる私じゃ……」





 囁く声はか細く、その中身を濃く艶やかにする。



「そ、そんなこと―――はぁ……ぁ……」



 重なった身体を擦り寄せながら密着度を増し、まるでお互いの身体が一つになった錯覚を思わせる。





「私は……感じるよ………私とあらたのことを……」





 愛おしそうに紡ぐ声、それと、みやびの女性全てが新を包み――――







「――えっ……」







 触れない筈の場所に触れた感覚がみやびに声を上げさせる。




 その存在の正体にみやびが気付いたのとほぼ同時に新も―――





「あ゛……」





「ヤ………やぁぁぁッ!!」




「――おわぁッ……!!」





 全力で突き飛ばされベッドに仰向けになる新。



 魅力的な美少女に目覚めてしまった少年の春にはなんの罪もないとは思うが。





 真っ赤な顔で荒い呼吸をするみやびは、余裕の無いドヤ顔を作り言い放った―――






「ほ、ほらねっ、あらたは大丈夫……だよっ………」





「………はい、自覚しました」




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