来訪者

 ギョクは不意に目を覚ました。空気の感覚からまだ夜半の時分だということがわかる。そのまま寝相を変えようと横を見やれば、隣にいるはずのウバラがいない。足で掛け布団を蹴って起き上がると、びっくりした顔のウバラと目が合った。彼女はちょうどウロの出入り口、引かれたカーテンの前で正座をしている。


 ぴるぴるとウバラの耳が忙しなく動く。ギョクもピンと立った耳をぐるりと動かす。


「どうした」


 異変に気づいたギョクからはまどろむような眠気は瞬時に消え失せ、すぐさま毛並みを立てて周囲を警戒する。ウバラはそんなギョクを見てちょっと申し訳なさそうな顔をした。


 よくよく見ると彼女の膝にはギョクの服がある。今日、出先で果実を採る際に枝を引っ掛けて袖を破ってしまった服だ。どうやらウバラはギョクが寝たあとにその破れた袖を縫ってくれていたらしい。


 ゆえに、先に異変に気づいたのも彼女だったのだろう。


「なにかいるみたい」


 眉を下げるウバラの顔は不安に満ちている。


 ギョクは耳を澄ませて周囲の気配を探る。彼女が言った通り、なにものかがこのヤモリの木の周囲をぐるぐると周っているようだということがわかった。足音は軽い。ときおり間隔が開くのは、ヤモリの木の巨大な根本を飛び越えているからだろう。


 土を蹴る音、木の根元に足をつける音。その音の振動がヤモリの木を伝って、ウロの中にいるふたりまで伝わってくるのである。


 思わず、ウロの出入り口に吊るした香炉を見やる。香炉に入れた練り香の火がまだ消えていないのを確認して、ギョクはちょっとだけ安堵する。


「……こっちをうかがってる」


 ギョクに比べ、小心で臆病な性質たちのウバラは、周囲の気配に敏感だ。狩りをするときや、森を行くときなどはギョクもずいぶんと助けられている。よって「こっちをうかがっている」というウバラの言葉は、真実なのだろう。


 しかしこちらの様子をうかがっているとは、なんとも不気味である。


「……香を焚いてるから、『神』は入ってこないだろう」

「うん……そうだね」


 ウバラの不安をやわらげようとそうは言ったものの、ギョクも不気味な感覚をぬぐえないのが現状だった。


 ウバラはこのまま寝てしまおうというつもりはないらしい。ギョクも同じだ。


 ギョクはウバラのそばに行こうと思った。パートナーがいれば少しは不安もマシになるかもしれないと思ったのだ。


 生物として、花鼠は水狼よりずっと弱い。それゆえにギョクの中にはそんなウバラを守らなければ、という気持ちが自然と湧いて出てくるのだった。


 ウバラを弱者と見下しているのではなく、ギョクの彼女に対する庇護欲は半ば本能によるものなので、そこに他意はない。


 枕元に置いていた愛用の銛を片手に、ギョクはウバラへと近寄る。カーテンの分厚い布越しにも、夜の冷気が感ぜられる。


 ヤモリの木を周るなにものかは、先ほどから足を止める様子もなく、ぐるぐると周回を続けているようだった。


「ウバラ」


 彼女の顔にそっと顔を近づけて、ささやくように名を呼んだ。ぴるぴるっとウバラの丸い耳が動く。毛並みに咲いた花は怯えるようにしおれていた。


「ここ寒くないか」

「……ううん」

「そうか。えっと……俺の服、縫ってくれてたんだな」

「うん。なんか目が覚めちゃって、することがなかったから……お節介だった?」

「いや、助かる。俺はそういう細々したことは苦手だからさ。……いつもありがとうな」


 普段はなかなか言い出しにくいお礼の言葉を口にすれば、ウバラの顔色が心なしか良くなったように見える。


「ギョクも……いつもわたしを助けてくれるから。ちょっとでもそれを返したくて」

「気にすんなよ。こういうのはお互い様ってやつだ」


 蝕の季節。この不安定な季節を乗り切るのに、たったひとりでは心細い。ゆえにパートナーの存在はひどく大切なものだというのがギョクの認識だった。


 これまでのギョクは蝕の季節を兄姉たちとパートナーを組んで越して来た。それはつまり、ギョクは群れの中ではまだ子供だったということである。


 兄姉たちとパートナーを組み、蝕の季節を乗り切るのに必要な知識と礼儀を伝授され、晴れて群れの外へ出られるようになったのがこの年……だったのだが。


 結果はすでに述べたとおり、ギョクは見事に相手にフラれた。しかも蝕の季節が始まるギリギリという最悪のタイミングで。


 そんなときにウバラに出会えたのは、不幸中の幸いというやつかもしれなかった。


 疎遠になっていたとはいえ、もともと幼馴染という知らぬ仲ではない間柄である。加えて、ウバラはこの通りの性格だから、自己評価の低さに目をつむればなかなか快適で、相性の良い相手と言えた。


 相手の好意にあぐらをかくようなパートナーでは、気短なギョクはすぐにいさかいを起こしてしまっていただろう。そういう点では、ギョクは大人しいウバラに甘えてしまっているのかもしれなかった。


 まあ、蝕の季節が始まってからこっち、幸いにもウバラにいらだつようなことはなかったのだが。


 ウバラが自身を卑下する点は、ギョクは怒りより先に戸惑いや憐憫といった情を抱いていた。彼女が以前の蝕の季節の出来事を引きずっていることは明らかだったからだ。事情を知っているので、怒る気にはなれない。そんなところである。


 ただいつかはウバラはパートナーを組むのに不足のない相手なのだと、彼女自身に理解してもらいたいとは願ってはいるが。


 ちなみに元パートナーにフラれたにも関わらず、ギョクがウバラのような思考には陥らなかったのは、単に生来の性格の差だろう。ギョクは前向きで、良くも悪くも物事を深く考えないのである。ウバラはまったくの逆の性格だというのは、明白だった。


 互いに眠る気になれなかったふたりは、掛け布団だけ持って来て肩にかけた。そして灯火虫の明かりの下で、顔を寄せ合っておしゃべりに興じる。


 話すことは他愛のない内容だ。あのとき見つけたあの果実がおいしかっただとか、そろそろこの前作った干物が出来上がるころあいだとか。あえてそういうことを話した。


 ギョクが隣にいることで安心したのだろう。ウバラの白い顔にも朱が戻って、毛並みに咲く花も今は元気に花弁を開いている。


 あとはヤモリの木をぐるぐる周る正体不明のやつがどこかへ行くか、朝を迎えれば万事つつがない。


 ――しかし、物事というのは上手く行って欲しいと思っているときに限って、障害にぶつかってしまうのである。


 その不穏な音を聞いたのは、どちらが先ということもなかった。ふたりともすぐにその異音に気づいた。


 ――ごり、ごり、ごり。


 それはまさしく木を削る音。――なにかがヤモリの木をろうとしている音だった。


 その音はヤモリの木を伝って、ウロの中にいるふたりに異変を伝える。


「なにやってるんだ?」

「伐ろうとしてる……?」

「いや……伐るのは無理だろ」


 ギョクの言葉はもっともだった。ギョクとウバラ、ふたりが入ってもそれなりに広いウロを有する巨樹である。ヤモリの木を伐採するのはほとんど無理と言って良かった。それゆえに森の民たちは蝕の季節の住居に、この巨木を選んでいるのだから。


 けれども、ごりごりという明らかに木を削っている音は止まる気配を見せない。それどころか削る速度が増したようだ。

 たちまちウバラの顔が曇って、ほとんど泣きそうになる。ギョクも、伐り倒すなど無理な話とわかっていても、心臓がどくどくと早鐘を打つ。


「――俺が見てくる」


 ギョクは腹を括り、ウバラに向かってそう言い放った。


「だ、ダメだよ! 外に出るなんて危険すぎるよ……。このまま朝まで待とうよ」


 一番この異音を不安に思っているのはウバラだろうが、さすがにギョクが外に出るとなれば止めにかかる。


 けれどもギョクは意外と頑固なのであった。


「携帯香炉持ってく。銛も持ってく」

「そういう問題じゃないよ」

「でもこのまま木に傷がつけられるのを黙って聞いてるわけにもいかないだろ。季節の途中でヤモリの木が枯れたって話は聞かないけど……なんにせよ、この音は良くない」

「でも、ギョクになにかあったら」

「大丈夫。ちょっと見てくるだけだ。ヤバそうだったらソッコーで帰ってくるから、ウバラはここで待ってろ」


 結局、折れたのはウバラだった。こういう場においてウバラは強く出られないので、自明の理とも言える。


「ぜったい、ぜったいだよ」


 ――「危なそうだったら戻ってくる」。その言葉を何度も念押しして確認するウバラに「大丈夫」とギョクは繰り返す。


 そうして愛用の銛を片手に、携帯香炉を吊るした枝を腰紐に差し、ギョクはウロから地上へと伸びる綱を伝って降りて行った。



 *



 ウバラは祈るような気持ちでギョクの帰りを待った。彼に言われたとおり、いざというときのためにそばには包丁を置いている。


 座り込んだ体をおおう掛け布団のすそをぎゅっと握り締める。手のひらは、緊張で汗をかいていた。きっと、今毛並みに咲く花もしおれていることだろう。


 ――ごり、ごり、ごり。


 木を削る音は続く。そこにギョクの足音が混ざる。するとその異音が消えた。ギョクの存在に気づいたのだろうか。ウバラの背筋を冷たいものが駆け抜けていった。


 どれほどそうしていただろう。体感よりずっと短い時間しか過ぎていないだろうとは思ったものの、その時間はウバラには永遠にも思えるものだった。


 不意に、ウロの中に固定してある綱の結び目がギシリと音を立てる。次いで弛緩していた出入り用の綱がピンと張った。どうやらギョクが戻ってくるらしい。そのことにウバラは安堵し、肩の力を抜いた。


 ウロの出入り口にギョクの影が映る。ウバラはカーテンを引いてギョクを迎え入れようとした。


「ギョク! 怪我してるの?!」


 首元から血を流す彼を見て、ウバラは仰天した。


「は、早く手当て!」

「待て。話がある」

「それは今じゃないとダメなの?」

「今じゃないとダメだ」


 ウロの奥に取って帰ろうとしたウバラをギョクの声が引き止める。ウバラはしぶしぶギョクの言葉に従って、なぜか出入り口から顔を出したまま中に入ってこない彼に近づいた。


「よく聞いてくれ。今すぐここを離れよう。ここから出ないと危ない」

「……ギョク?」

「黙って聞いてくれ。今ここは囲まれてる。なにかはわからないが……とにかく逃げよう」


 ウバラの中に疑念が生まれる。はたして、ギョクはこのように不正確な物言いをする相手であっただろうか? 夜に外へ出ないのが得策だと彼はよく理解して、その上で確認に出たのだ。それが、急に、この変わりようはなんなのだろう。


「なにかわからないって……なに」

「そのままの意味だ」

「ねえ、ギョク。銛はどうしたの?」


 黙り込んだギョクに、ウバラは始めて手の届く距離にいる彼が、彼ではないという可能性に気づいた。


「……投げたら……持って行かれた」

「銛を?」

「ああ」


 そういうこともあるだろうと言われればそうだろう。けれどもウバラはギョクの銛捌きには一定の信頼を置いている。ギョクも、おどけた調子ではあったものの、よく父親直伝のその技術を自慢していたし、実際に彼の腕はピカイチと言って良かった。


 そもそも危険であればすぐにウロに帰って来ると言ったのはギョクである。だというのにその「なにか」にギョクは手を出したのだろうか?


「なあ」

「ねえ」


 いらだった様子でこちらを呼ばわるギョクの言葉をさえぎり、ウバラは口を開いた。手には包丁を握り、ギョクへと突き出して。


「なんでさっきからわたしの名前を呼ばないの?」


 ギシリ。綱が音を立てた。


 ――ギシッ、ギシッ、ギシッ。


 素早く、何者かが綱を伝って上ってくる。


 ――ギョクだ!


 綱を引く重量感、手足を動かすタイミング、体重を移動する間隔。そのすべてが聞き慣れたものであったから、ウバラはギョクの帰還を確信した。


 ウバラにできるのは、この正体不明のなにものかをふたりの家には――ウロには入れないことだ。


「答えてよ!」


 包丁の切っ先を偽者へと突き出して、ウバラは叫んだ。


 それと同時に、ギョクの偽者の体がぶるりと震えるように揺れる。それから偽者は操者を失った人形のようにウロの中へと力なく上半身を突っ伏す。ようやっと見えた背中には、ギョクが愛用している銛が、深々と突き刺さっていた。


 ひょいと偽者のうしろから本物のギョクが顔を出す。その頬には赤黒い返り血がついていた。


「……ごめん」


 そうしてちょっと所在なさげに謝るギョクを見て、ウバラは包丁を持ったままその場にへたり込んだ。




「あいつはたぶん『神』の子供だと思う」


 ギョクの偽者の死骸を地上へと下ろしたあと、ようやくふたりは無事を喜び合うことができた。


「だから香炉があっても近づいてきたり、ヤモリの木を伐り倒そうとしたんだと思う」

「なんでそんなことを……」

「さあ? しいて言うなら子供だから、かな? ……まあなんにせよ、『神』のすることはわかんないね」


 ギョクが「神」の子供ではないのかと言い出したのには理由がある。


 ギョクが始めに見たときは、もちろんギョクと同じ姿をしていたわけではない。それは毛のないサルのような姿をしていたのだ。「神」の姿とサルの姿が似ているというのは有名な話だったので、ギョクもすぐそれが「神」に連なるものだと確信できたわけだ。


 先に襲ってきたのは「神」のほうで、応戦した際にギョクは地上に落ちてしまったのだ。ギョクの偽者の首元が出血していたのは、ギョクが応戦したときについたものだろうとのことだった。


 ギョク曰く情けないことにちょっとのあいだだけ気絶してしまい、助けに入るのが遅れてしまったとのことだ。


「ホントごめん」


 ウバラは首をゆるく横に振る。


「……ギョクは悪くないし、謝らないでいいよ。香炉を気にしない相手だったし、『神』なら本当に木を伐り倒していたかもしれないし」

「だけど」

「『終わりよければすべてよし』――って、こういうときに使うんだよね?」

「ウバラ……」


「お前でもそう言うこと言うんだな」。ギョクはちょっと笑ってそう言った。



 危機は去ったが、どうにも神経が昂ぶって眠れない。それはふたりとも同じだったが、蝕の季節はまだまだ続く。生活も、続いて行く。


 とにかく横にはなろうと、ふたりはいつもより強い芳香の練り香に火を入れたあと、布団に寝転がった。


「なあ、ウバラ」


 あんなことがあったあとなので、自身の名前を呼ばれることにひどく安堵する。そんなことを考えながらウバラは隣で寝そべっているギョクを見た。


「手、繋がないか?」


 どこか恥ずかしげに言うギョクの顔は、きっと昼間ならいささかの羞恥に染まっているのが見えただろう。


 けれども今は夜で、明かりは灯火虫のおぼろげな光しかない。


 どんな顔をしているのか良く見えないのは、ウバラも同じだった。だから彼女は、すぐに「うん」と答えられたのであった。その胸をどきどきと高鳴らせながら。

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