出会
使い込まれたつげ櫛の歯がギョクの黒い毛並みを
穏やかな日差しも相まって、ギョクはウバラに背を向けたままひとつあくびをした。
依然として蝕の季節ゆえに太陽は見えない。空を見ても墨をこぼしたかのような黒一色で、太陽はもちろん月も星もその空には上らない。
けれども奇々怪々な蝕の季節のこと。朝と呼ばれる時間帯になれば自然と日の光を感じられるようになるし、周囲も徐々に明るくなって行く。不思議なこと極まりないが、答えを持つものはいないので、森の民たちは「そんなもの」として納得している。
今日は偶然にも森の中で泉を見つけたので、ふたりはそこでひなたぼっこをすることに決めた。
湧き水から形成される泉は、蝕の季節のあいだはあちらこちらで見られる。しかしこの季節特有の現象として、位置が定まらないのが常である。昨日見つけた場所に、今日も泉があるとは限らないのだ。
よって森の民たちのあいだでは、蝕の季節に泉を見つけるとその日一日はツイている、というジンクスがあるのだった。
なれば狩りにでも出かけようかという話になりそうだったが、今日は大変に日差しが穏やかで、心地よい。なのでふたりは狩りには出かけずに泉のそばでこの日差しを堪能しようという話になったのだった。
隣り合って泉のそばの大木に背を預け、ギョクはまぶたを閉じる。もちろん手は繋いだままだ。
「ん……?」
さわさわと毛並みを撫でる感覚に目を開けば、ウバラがこちらへ左手を伸ばしていた。目が合うと、ウバラはちょっと気まずげに視線を泳がせる。
「ごめん。毛並みに葉っぱがついてたから……」
そう言いながらウバラはギョクの毛並みから一枚の葉を取り除いた。
「んー? いいよ、放っておいて」
「えー、ダメだよ。せっかくきれいな青毛なんだから」
ギョクはパチパチと何度か瞬きした。それからちょっと笑ってウバラを見る。
「きれいって……初めて言われた」
「え? そうなの?」
「ああ」
「うーん、水狼ってみんなきれいな毛並みだから、わざわざ言わないのかな……?」
本気で不思議そうに首をかしげるウバラが面白くてギョクは喉で笑った。
「俺の毛並みってけっこうごわごわしてると思うんだけど」
「まあ、ちょっと固いかな? でも梳いたら結構変わると思うんだけど」
水狼に限らず毛並みの良さはステータスである。特に雄にとって、自身の毛並みは雌へのアピールポイントとなるので、みな毛の手入れには余念がない。
翻ってギョクはというと、口を酸っぱくして毛並みの手入れをしろと家族から散々言われていたものの、性成熟して間もない彼はあまりピンと来ず、手入れをサボりがちであった。
もとから毛が太く固いこともあって、ギョクの毛並みはしなやかさからは程遠かった。美しさから縁遠いことを知っているゆえに、余計やる気というものがわかないのである。
「じゃあウバラがやってくれよ」
それは特に深い意味もなく発せられた言葉だった。
けれどもウバラはギョクが思っていたよりも張りきって、腰に提げた袋から櫛を取り出したのであった。
そして場面は冒頭へと戻る。
「櫛とかいつも持ち歩いてるのか?」
毛並みを整えて行くウバラの丁寧な手つきは心地よい。穏やかな日差しも相まって眠気も誘発されてしまい、ギョクは睡魔に負けるまいとウバラに話を振る。
「うん、一応。おばあちゃんがお守りにもなるからいつも肌身離さず持っておけ、って」
「へー、櫛ってお守りになるんだ」
「らしいよ。いつも身につけてるものは身代わりになってくれるんだって」
「じゃ、俺の場合は銛か」
ギョクはあぐらをかいた膝の上に乗せた銛を触る。
「ギョクの場合は……銛があれば大丈夫そうだけどね」
暗にギョクの銛捌きを認めるウバラの言葉に、単純にも彼の機嫌は上り調子になる。
「まあな」
気恥ずかしくも、やはり銛の腕に信頼を置かれるのはうれしいものだ。特にいずれも愛用の銛と共に生きている水狼ならばなおさらである。
「はい、終わったよ」
「おー。ありがとうな」
「いえいえ。わたしも楽しかったし」
ウバラがギョクの毛から手を離したので、再びふたりは横に並んで座り手を繋ぐ。
ギョクは自分の毛並みを確認するように指で梳く。いつもと違って引っかかりがなく、たしかにウバラが言った通り、毛並みの表面を撫でるとすべすべとしていた。
「おお……」
その出来に感動しているとウバラがくすりと笑った。
「これからはちゃんと毛並みを整えたほうがいいと思うよ」
「それは……まあ、考えとく」
毛並みが美しいと気分がいいのはたしかである。しかしそれを維持する日課を思うと、途端に面倒くさくなってしまうのがギョクの性格であった。
ウバラはそれを見通しているのか、仕方がないといった顔でひとつため息をついた。
「……ねえ、また毛並みを梳いてもいい?」
「俺は別に構わないけど……。でも俺のこと気にしてだったら遠慮しとく」
気を使いがちなウバラのことだ。その気持ちはありがたかったが、毛並みを整えなくとも死ぬようなことはない。そう考えるとその負担を彼女に課すのはさすがのギョクとて気が引ける。
しかしウバラはふるふるとゆるく首を横に振った。
「ううん。わたし他のひとの毛を整えるの、好きだから。させてくれる?」
「……まあ、ウバラがそう言うなら」
「うん。ありがとうね」
ウバラの微笑みは花が咲くというよりは、穏やかな日差しに似た空気を持っている。そう多くは見られないそんな笑顔をギョクは密かに待ち望んでいた。
そんな欲求を悟られたくなくて、ギョクはあわてて口を開いた。
「なんでウバラが礼を言うんだよ……」
「いいの。言いたかったから」
「ふーん……変なやつ」
それからふたりはまた隣り合ってひなたぼっこに興じた。太陽は見えないが、差し込む日がぽかぽかと毛並みを温めて行く。
そうやってふたりはまぶたを閉じてのんびりと過ごしていた。
たまにはこういう日があってもいいなとギョクは思う。
いつもはあくせくと食糧集めやらなんやらに奔走しているが、たまにはこうして体を休める日があってもいいはずだ。
そうやってふたりは手を繋いでまどろんでいたが、無粋なものはどこにでも現れるものである。
「ん……!」
先に反応したのはギョクの鼻だった。最近嗅いだ事のあるそのにおいに、ギョクの頭は一度に覚醒した。
次いでウバラが目を開けてぴるぴると丸い耳を動かす。
「サルだ」
ギョクの言葉に隣にいるウバラもうなずいた。
ちょうど藪をかきわけて泉のそばにサルが現れたところだった。ふたりとは泉を挟んで対角線上に出て来たのは、幸いと言えば幸いか。
サルは森の民たちからは忌み嫌われている。彼らは森の民たちの言語を解さず、鳴き声だけで会話をするからだ。
しかし森の民たちから忌避される最大の理由は、サルが「神」に似ているという点である。
体つきや顔の形、仕草に体臭。多くが「神」と共通している上に、森の民たちとは言語がまったく違うという点も相まって、彼らはサルを忌避しているのであった。
「……そろそろ帰るか」
「そうだね」
サルがこちらには興味がないのを認めると、ふたりはそう言い合って立ち上がった。
帰路ではサルに引き続き出会いがあったが、それは不幸な類いのものではなかったので、ふたりとも望外の僥倖に喜んだ。存外、泉のジンクスも当てになるものだなとふたりとも思った次第である。
「もうすぐ
年若い
いつもより遠出をしてここまで来たのだと言うふたりは、まだ子供から脱したばかりのギョクとウバラを見て、心配そうにそんな忠告をしてくれたのだ。
「虫吹雪のときは外に出ちゃいけないのは知ってるよね?」
「はい」
「それなら大丈夫だと思うけど……虫吹雪の経験は?」
「いいえ。初めてです」
ギョクの言葉にウバラが不安そうな顔になったのがわかったのか、葉鳥の雌はそれをなだめるように微笑んだ。
「食糧があるなら食糧庫から住居にしているウロに運んでおいたほうがいいわ。虫吹雪のあいだはちょっとの移動も疲れてしまうから」
「なにせ、虫が吹雪くんだ。虫の雨が続くようなものなんだよ。あれは大変だ」
それからいくらか虫吹雪の経験を語って聞かせてたふたりは、別れ際に木の実をふたりに分け与えて去って行った。
「虫吹雪か……」
ギョクはそこで初めてウバラの顔を見た。彼女の顔はいつになく青白くなっていて、葉鳥のつがいがやたらとふたりを心配していた理由を、そのときになって悟ったのである。
「食糧はじゅうぶんあるし、外に出なきゃ大丈夫だろ」
励ますようにそうは言ったものの、ギョクには虫吹雪の経験がない。虫吹雪は局地的なものなので、同じ季節を越えたとしても、住居が離れていれば経験の有無に差が出て来る。
ウバラが虫吹雪の経験者であることを、ギョクは彼女の母から聞いていた。
「……俺はあいつみたいなこと、しないから」
その言葉にウバラは弾かれたようにギョクを見た。
「……うん。……ギョクはそんなことしないって、わかってるよ」
けれどもウバラの震えは繋いだ手を伝ってギョクにも届く。ギョクはそれを打ち消すように、ウバラの手を強く握った。
「俺が守るって言ったこと、忘れるなよ」
蝕の季節の始まりに、ギョクが誓って言った言葉だ。
ウバラは白い顔のまま、緩慢な動作でうなずいた。
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