ご近所さん
その日はとても暑かった。よって今日は水辺に行こうという話になったのは、ごく自然な流れだった。
森へ入るために手を繋ぐも、ふたりともちょっとだけ手汗が気になるくらいには、今日は空気が蒸している。じっとりと毛並みの下に汗をかきながらも水辺を目指す。
せっかくだから、小川ではなく湖を目指そうというところに落ち着く。それでも暑いものは暑いので、水辺の近くをぶらぶらと歩きながら進んで行くことにした。
ときおり吹く風に乗って、川から水の匂いと冷気が運ばれて来る。
「これ好きだったよな」
時間に余裕があったので、湖にはまっすぐには向かわず、そんな風に寄り道をしつつの道程であった。
ギョクは偶然見つけた果実をもいでウバラに渡そうとして、彼女の手がふさがっていることに気づいた。右手はギョクの左手とつながっていたし、もう片方の手は携帯香炉を吊るした枝を握っている。
「ほら」
ちょっと考え込んだあと、ギョクはウバラの口元に橙色の果実を持って行ってやった。ウバラは少しだけ目を瞠ったあと、ギョクの手ずから果実をかじった。プチリ、と果肉の弾ける音がして、果汁が柔らかい皮を伝ってギョクの指先を濡らす。
「あ、ごめん」
「いいよ」
ギョクはウバラの口元に果実を軽く押しつけた。ウバラは一瞬目を泳がせたあと、大きく口を開け、ふたくちでそう大きくない果実を食べ切った。
もぐもぐと頬の中のものを咀嚼しているうちに、ウバラは指先についた果汁を舐め取る。甘酸っぱくて、ちょうど食べごろだったことが知れた。
「ありがとう、ギョク。おいしかった」
「どういたしまして」
思い出せはしないが、もしかしたら昔にこういうことがあったかもしれない。そんなことをギョクが考える程度には、ふたりの関係はごく円滑なものに変わっていた。
季節のはじめは不安もあったが、ウバラは大変に気が利くので、今度は逆に自分がなにかしら彼女の気を害してはいないかと心配する始末である。なにをするにしてもウバラのほうが行動が早かったし、なにかの準備をするにしても彼女のほうが的確だ。
気になるところはと言えば、ウバラ自身の自己評価の低さくらいだろう。これがなにに起因しているかを、ギョクは薄々悟っていたので、あまり自己卑下をするなとも強く言えずに悶々としている。
それはさておき、今日水辺に行こうと言い出したのは、単にギョクの欲求を満たすためだけではない。土中で暮らすゆえに暑さに弱いウバラが、この気温に参ってしまっているのを見ての言葉でもあったのだ。
よって湖へ行く道中は迷わない程度に水辺の近くを通り、できるだけ木陰を通ることにしている。もちろんウバラの体調を気遣うのも忘れない。しかしそういう気遣いがくすぐったいウバラは、声をかけられるたびにちょっと困ったように笑うのだった。
道程の途中でそれを見つけたのは、先導するギョクだった。
「ヤモリの木だ!」
思わず、うれしそうな声を上げてしまう。蝕の季節が始まってこっち、いわゆる「ご近所さん」にふたりは出会ったことがなかった。
これが、ヤモリの木がそこそこ集まっている場なら違うのだろう。そういうところでは自然と互助会のようなものが形成されると聞く。
しかしふたりはパートナーを決めるのが遅く、早々にヤモリの木を確保するということもしていなかったので、残っていた家は辺鄙な土地に立つものだけだったのである。
なにぶんそんな土地にいるとご近所さんとは顔を合わすことがない。すると蝕の季節という時期も相まって、世界にはお互いしかいないような気分になってしまう。もちろん、そんなことはないということは、ふたりともわかってはいるのだが。
ふたりともが早足でヤモリの木に駆け寄る。けれどもヤモリの木から漂って来る異臭に気づいたのもまた、ギョクだった。
ギョクは鼻が利くので、こういう異常を察知するすべには長けている。次いでウバラもおかしな臭いが漂って来ていることに気づき、晴れやかだった顔を曇らせた。毛並みに咲く花も、警戒するようにピンと花弁を張り詰めさせる。
「ギョク……」
うかがうようにウバラがギョクを見る。こういうときに判断を下すのはギョクの役割だった。
ウバラに判断力がないからという話ではない。しかし彼女はその性格上、なにかしらの事象に対し、迅速に判断を下すのにはあまり向いていない。よってほとんど消去法で、こういったときに判断を下す役割はギョクが担うことになっているのだ。
「出入りの綱は垂れてるな」
「……覗く?」
「……まあ、気になるし」
恐らく住居にしているだろう木のウロの出入り口からは、上り下りするための綱が地上へと垂れている。この綱をウロの中へ引き上げるのは概ね夕方と決まっていた。というわけでこのヤモリの木の住民たちが、在宅なのか外出中なのかはわからない。
いずれにせよこの異臭はただごとではなかった。そしてふたりとも、異臭の正体には気づいていたので、家の中を覗くことにはあまりためらいがなかった。
まず、先にギョクがウロの中の様子を見ることになった。手を離しているあいだ、ウバラはヤモリの木の根元に立つ。不安定な蝕の季節の森の中にあって、ヤモリの木だけは決して迷子にならないから、こうして森の民たちの一時の住居として使われるのである。
ギョクは何度か綱を引っ張り、それがウロの中へしっかりと固定されていることを確認した。愛用の銛を腰紐に差したあとは、手慣れた動きでするすると綱を上って行く。
「気をつけて!」
下からウバラの声がかかる。
「わかってる!」
これからなにを見ることになるのかは、ギョクもウバラもわかっていた。
ウロの入口はカーテンが引かれており、すぐには中が見えない状態だった。けれども上へ上へとのぼるに従い、例の異臭は強くなって鼻の奥を刺激した。鼻が利くギョクにはなかなか辛いものがある。けれどもギョクはそのままウロの前まで手足を動かした。
カーテンの布越しに、虫の羽音が嫌というほど聞こえる。
ギョクは意を決して、ひと息にカーテンを引いた。途端に顔になにか細かいものがぶち当たり、ぶーん! という怒りを体現したかのような羽音が、ギョクのピンと立った耳元を駆け抜けて行った。
「わっぷ……」
細かい羽虫がカーテンを引く音におどろいて飛び出して来たのだ。それらは外へ出たっきり、ウロの中へは帰って来なかった。それでもまだ羽虫のいくらかはウロの中に留まって、ぶんぶんと不快な音を撒き散らしていた。
ウロの中ではふたつの影が床に突っ伏していた。羽虫にたかられたふたりは、片や苦しげに首を押さえ、片や胸をかきむしるようにした姿勢のまま絶命していた。
ウロの出入り口に手をかけて、ギョクは中に降り立つ。ぐるりと周囲を見渡してみても、血痕の類いは見受けられない。代わりに、床に敷かれたクロスの上に青白い卵が乗っていた。それは上部の殻が崩されている。
ギョクは腰に差していた銛を抜いて構えると、恐る恐る卵の中を覗き見た。幸いにも中はカラで、殻の内側が一点の曇りもない黒だということが知れただけだった。
ウロを下りる途中で貯蔵庫も確認しておいたが、多少備蓄は少なかったものの、切羽詰まって卵を食べたわけではなさそうだということがわかった。
「……まあ、知らずに食べたんだろう」
以前、ふたりが青白い卵を目撃した例の湖から、このヤモリの木はそう離れていない。
今まで行き来する中でこのヤモリの木を見つけられなかったのは、この季節のあいだ、森の姿が安定しないからだろうとふたりは結論付けた。
そしてこのヤモリの木の住民は、うかつにも卵を持ち返って食べようとしてしまったのだと。
「あんなに不気味なのに」
あの卵を食べるなんてまったく理解できない、というウバラの顔は、怯えのためか青白い。ギョクはそんな彼女を元気づけるように、再び繋いだ手に軽く力を込めた。
「そういうやつもいるさ。俺も今までいくらか見てきた。絶対に危ないってわかってるのに、どうしてもそうしなきゃ済まないやつって、いくらかの割合でいるんだよ。あいつらもそうだった。けど、俺たちはそうじゃなかった。それだけの話だ」
推測にすぎないが貯蔵庫の状況を見るに、あのふたりは好奇心で卵を食べてしまったのだろう。卵の存在を群れのリーダーから聞いていたギョクも、さすがに食べるとどうなるかまではわからなかったし、そもそも食べるという発想すらしたことがなかった。
結果は、あのウロの中の通りである。卵の身に毒性があったのか、あるいはまったく別の原因かはわからない。なんにせよ、不用意な好奇心があの結果を招いただろうことは、想像に難くなかった。
例の卵を目撃したことで、ふたりとも湖に行く気にはなれず、そのまま帰ろうという話になった。体なら途中の小川で冷やせばいいだけの話だったので、ギョクもウバラと話しあって決める。
弔ってやるほどの時間も余裕もなかったので、ふたりは住民を失ったヤモリの木をそのままに、帰途に就いた。
不意に、繋いでいたウバラの手に力が入る。手のひらがじんわりと汗をかいているのは、暑さのせいではないということに、ギョクは気づいていた。
ウバラはうつむきがちになっていた顔を上げて、横目でギョクを見る。ギョクもウバラを見る。
うしろになにかいる。
あのヤモリの木を離れてからずっと、ふたりのあとをなにか黒い影のようなものが、地面を這ってついて来ているのだ。
今のところ敵意や害意は感じられないが、不気味なことをこの上ない。下手に手を出して怒らせてもまずいかと、ギョクも放っておいていたのだ。
ウバラもそれはわかっているのだろうが、なにせ彼女は小心である。先のヤモリの木での一件も相まって、ちょっと参ってしまっているのだろう。そのことが気にならないギョクではなかったが、今のところはどうしようもない。
「家まで遠回りするか?」
「……そのほうがいいよね」
いつもの歩調で歩きながらも、ふたりは顔を寄せ合ってそんなことをささやきあう。
顔を近づけあっていたせいで、ウバラはすぐには気づけなかったのだろう。不意に影の気配が濃厚になったかと思うと、ぐぐ、と平らだったそれの表面が盛り上がる。
「ウバラ、俺のうしろにいろ!」
混乱した様子ながらもさっとギョクの後ろにウバラが下がったのを見るや、彼は渾身の力を込めて銛を放った。それは的確に影を突き、肉を引き潰したような嫌な音がふたりの耳に届く。
途端、身の毛もよだつような咆哮が上がる。それは、影のようなものの断末魔だったのだろう。
盛り上がっていた表面はしなびるようにして地面と平行になったかと思うと、影のようなものは黒い水へと変じ、地面を濡らした。そしてそのまま土へと吸収されてしまったようだった。
ギョクはウバラを背に隠したまま、銛を回収するために濡れた地面へと近づく。しかししばらく様子を見ても、その場は単なる濡れた土以外のなにものでもないようだったので、ギョクは警戒しながらもさっさと銛を回収した。
「なんだったのかな、あれ」
「卵の中身だったりしてな」
脅威がなくなったためか、いく分顔色の良くなったウバラと連れ立ってギョクは帰路を歩く。その道中での話題は先ほどの「影もどき」一色であった。
「じゃあ、親もあんな感じなのかな……?」
そう自分で言いながら、ウバラは想像したのか身ぶるいする。
「どうだろうな。まったく違う姿かもしれないし。それに、あの卵とはなんの関係もなかったりしてな」
「それはそれで怖いね……」
「まあ、なにが来ても俺の銛があれば大丈夫だ。見てただろ? おっとう直伝の銛捌き」
あえておどけた様子で言えば、ウバラはにっこりと笑った。
「うん。やっぱりギョクはすごいなあ……」
そう素直に褒められると気恥ずかしく、ギョクは「まあな」と言ってウバラから視線を外した。
繋いだ手も妙にくすぐったい気がして、ギョクはピンと立った両耳を、必要もないのにぐるりと動かす。
ギョクのおどけた自慢が呼び水になってしまったのか、そのあと家につくまでのあいだ、ウバラからの称賛をくすぐったく思いながら聞くハメになるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。