狩られるもの
立ち込める白煙にギョクは思わず目を細めてしまう。鼻の奥もなんだかツンとして、くしゃみでもひとつしてしまいそうだ。
「ギョク! 出てきたよ!」
大きな葉をうちわのようにして、木すそにできたウロへと煙を送り込んでいたウバラがギョクのほうを振り返った。
ふたりとも手近な布で顔の下半分を覆っているので、細かな表情はうかがえない。それでもウバラがどこか緊張した面持ちであることは、ギョクにも伝わってくる。
もうもうと煙が立ち込める中、ギョクはウバラの声を聞くや愛用の銛を握りしめた。
「ウバラは下がってろ」
「気をつけて……」
ウバラが自分の後ろに回ったのを見ると、ギョクはゆっくりと小さなウロへと近づく。穴の前には立たず、木の根元のでこぼことした部分に素早い身のこなしで乗り移ると、ウロの上で銛を構える。
さすがに目は覆えないので煙がもろに眼球に当たり、悲しくも嬉しくもないのに涙が出てくる。ぐい、とそれをぬぐってギョクは足元にあるウロの入り口へ神経を集中させる。
ややあって入り口から長い触角が見えたかと思うや、それは素早い動きでウロから飛び出す。
ギィ――ッ!
ギョクが放った銛の切っ先が触覚の持ち主の胴体をみごと貫いた。
ウロから燻り出された虫は、ギョクの銛に貫かれてもんどりうつ。長い脚をバタバタと動かして抵抗するが、すぐに頭を銛で突かれ、ややあってからピクリとも動かなくなった。今度こそ絶命したようだ。
「仕留めたぞ! ――ゲホッ」
ウバラに向かってそう声をかけるが、同時に立ち込める煙を吸ってしまい咳が止まらなくなる。
そうしているあいだに気を利かせたウバラが葉うちわで周囲の煙を散らせながら、水の入った革袋をギョクに差し出す。ギョクはそれを受け取ってカラカラになっていた喉を潤した。
なぜふたりが朝方から虫を燻し出していたのかと言えば、彼らの暮らすヤモリの木のウロにそれがいつの間にか住み着いてしまっていたからである。
これが普通の虫であればギョクの銛でとっとと仕留めているところであるが、運の悪いことに闖入者は毒虫であったのだ。なれば真正面から追い出そうとして噛まれては大変である。
仕方なくふたりとも面倒だと思いつつも、虫の動きが鈍くなる香草を焚いて燻りだすという戦法を取ったのであった。
「お疲れ様」
「ああ、ちょっと時間がかかりすぎたな」
「なかなか出てこなかったもんね」
ウバラから布を渡され、ギョクはそれで手早く毒虫の死骸を包む。あとはこれをどこか遠くに捨てるだけだ。そうすればあとは森が自然へと還してくれるだろう。
この虫が持つ毒は死んでも体内に留まったままなので、水辺から離れた場所に穴を掘って埋めるのが定石だとウバラはギョクに説明する。一年のほとんどを水中で暮らすギョクには、考えたこともない処分方法だった。
「それじゃ、さっさと捨てに出かけるか」
毒虫の亡骸が入った袋を手ごろな枝の先に結びつけ、さらに携帯香炉を同じ枝に吊るす。最初のころよりも堂に入った手つきでウバラはそれを済ませた。
最後に香炉に入れた練り香に火を入れれば出かける準備は万端である。
ふたりはいつものように手を繋いで森へと入った。手を繋ぐのにちょうどいい握力というものにも、そろそろ慣れたころあいである。強すぎず、しかしするりと外れるほど弱くはない力でふたりは手を繋ぎ、銛を持ったギョクがやや先行する形で進んで行く。
「水辺はダメなんだよな」
「うん。毒が流れて魚が死んでしまうから……」
「それは困る」
魚を主食とする水狼らしく、ギョクは大変に真剣な様子でうなずいた。
ギョクとウバラが暮らすヤモリの木の近くには小川が数え切れないほどある。鼻の良いギョクがいるのもあって、蝕の季節にあっても水には困らないのだが、今回は水辺を避けなければならない。自然と水の匂いがしない方向へと進むことになる。
それはふたりにとってはなかなか新鮮な道程であった。いつもは水の匂いをたどっていった先でギョクが魚を捕まえたり、水の恩恵によって花を咲かせ虫を寄せつける木々のそばでウバラが虫捕りに励むからだ。
「あっ、わっ!」
ちょうど川を横断する形で散乱する石に足をかけたところ、左うしろからそんな声がしてギョクの左手が引っ張られる。
「あ、おいっ」
ウバラが足を滑らせたのだ。ギョクはあわててその無駄のない筋肉がついた腕でウバラを引っ張り上げる。ぱしゃり、と水しぶきが小さく上がるが、ギョクがウバラを引っ張り上げたおかげで彼女はひとまず転ばずに済んだ。
それでも一度滑らせた足元はふらついておぼつかない様子だったので、ギョクはウバラの手を今度は自分のほうへと引っ張る。ウバラの小さな体が、それよりひとまわり大きいギョクの体に飛び込む形になる。
「ご、ごめんなさい……」
ウバラはギョクの胸元から顔を上げると情けない目で彼を見上げた。足は滑らせても荷物は死守しようとしていたらしく、毒虫の死骸が入った袋はウバラの腕の中にある。
「いいって。ちょっと急ぎすぎた」
ギョクからそっと体を離したウバラは、川から足を上げて今度こそ石の上に立った。
「ううん……わたしがどんくさいから」
「なら、なおさら俺が気をつけるべきだった」
「でも――?!」
謝罪合戦になりそうな雰囲気の中で、先に言葉を切り上げたのは意外にもウバラのほうだった。しかし詮ない言い合いをやめようと思ってのことではないのは、彼女の顔色を見れば明らかだ。
急に顔色が悪くなったウバラにギョクは怪我でもしたのかと、あわてて彼女の体を見回す。血が出ている様子はないが、もしかしたら足裏でも切ったのだろうかと、顔を青くしているウバラに近づいた。
「どうした、ウバラ。足でも切ったか?」
ぶんぶんと顔を横に振ったウバラは、怯えた表情でギョクの背後を指差す。なにごとかと銛を構えて振り返れば、太い木の枝からなにかがぶら下がっているシルエットが目に留まる。
「!」
よくよく見れば、それは首吊り死体であった。太い木を覆うようにツタを伸ばしたそのツルで、器用に首をくくっている。足はぶらりと下を向いていて、ぴくりとも動かない。それでもなんだかその黒いシルエットが動いているように見えたのは、表面に虫がたかっているからだった。
「なんだこりゃ……」
死体くらいはギョクだって見たことがある。森の中で運悪く命を落としてしまうものは珍しい事柄ではない。森は民たちに恩恵を与えると同時に、容赦なく牙をむくこともある気まぐれな場所なのだ。
それでも自殺体を見るのは初めてだった。よくよく見ると木の根元には鉈が立てかけられている。この遺体が持ち主だったのだろうか?
疑問は尽きないが、ずっと眺めているのも気分が悪くなる。ギョクはウバラのいるほうへと振り返った。
相変わらず、ウバラの顔は青白くなったままである。もとから土中で暮らしているゆえに色白だというのに、今はそれよりなお白くて、ちょっとすれば倒れてしまうんじゃないかとギョクをハラハラとさせた。
「早くここから離れよう」
あの様子であれば早晩森に還るであろうことは目に見えていた。ふたりとも、彼――あるいは彼女――を葬送してやりたい気持ちはなくもなかったが、そんなことをしている余裕は今のふたりにはない。
ふたりにはこれからも生活がある。今日は毒虫の死骸を遠くへ埋めて、さっさと家に帰らなければならないのだ。
そのことはウバラも十二分にわかっていたので、ギョクの言葉に素直にうなずいた。
ふたりは足早に川を、自殺体のあった場所を離れて森の奥へ奥へ、水の匂いから逃げるようにして進んで行く。
「どうしたのかな、あのひと」
不意に会話が途切れたときにウバラがぽつりとそう漏らした。それはほとんど独り言に近かった。
あのひと、が先ほどの首吊り死体を指していることは、ギョクもすぐに察することができた。なぜあんなことをしたのか、それはギョクも気になるところであったから、ウバラと他愛ない会話を交わしながらも、頭の隅にはあの出来事がこびついたままだったのだ。
「なんだろうな。なんかトラブルでもあったかな」
「そうなのかな」
どんなトラブルかはわからない。ギョクが真っ先に頭に浮かべたのは、パートナーに追い出された末路だった。
けれどもそれをウバラの前で話す気にもなれず、結果的に曖昧な答えになってしまった。
ウバラも自分から言葉にしたあとでそれに気づいたのか、すぐに話は虫の燻し出しについてに変わって行った。
「ここまで来ればいいかな」
「うん。水の匂いもないし、家からも離れてるし。ここでいいかな」
「だな。じゃあ掘るか」
「任せて。穴を掘るのは得意だから」
そう言ってウバラは水かきに似た皮膜が指の間についている手を見せて笑う。ちなみにこれに似た皮膜は、ギョクの手にもついていた。
ただその機能はギョクとウバラでは違う。ギョクのものはそのまま水かき、水を捕まえるためのもの。ウバラのものは効率よく土を掘り出すためのものだったから、ウバラの皮膜のほうがずっと分厚かった。
穴を掘るのはウバラのほうがずっと早く、手馴れていた。毒虫を埋めるための穴のほとんどはウバラが掘ったと言っても過言ではない。
自分をどんくさいと言っていたにも関わらず、穴掘りではギョクよりずっと役に立つのだから、彼女の自己評価は信用ならないとギョクは思った。
だれかが掘り返してしまわないよう、ある程度の深さまで掘り下げると、ウバラは包みをほどいて毒虫を穴へと放り投げる。
「やっと終わったー」
「お疲れ。ウバラがほとんどやったようなもんだったな」
「ううん。ギョクが手伝ってくれたから、思ったより早く終わったよ」
「だったらいいんだけど」
「本当だって」
腰に下げていた布で、ふたりとも額に浮いた汗をぬぐう。今日は平年よりも少しだけ温かい。散歩をするにはいいが、なにか重労働をするには少々暑すぎた。
「穴を掘るのは得意なのか?」
ギョクがふと頭に浮かんだ軽い疑問を口にすれば、革袋から水を飲んでいたウバラは困ったように笑った。
「どうだろ。単調な作業は好きなんだけど」
「そうなのか? 俺はダメだな。狩りのときもなかなか獲物を待っていられない」
「意外。ギョクはそういうときはどっしりと構えていそうな感じだと思った」
「そうか? 俺は結構気短だと思うぞ」
「そうかなあ。わたし、ギョクは結構気が長いほうだと思ってるけど」
どこでそういう評価になったのかわからないギョクは首をひねった。その様子がおかしかったのか、ウバラはふんわりと微笑む。ぎこちなくも、困った風でもないウバラの笑みは貴重なので、ギョクはいいものが見れたと思った。ウバラからの評価はさっぱりわからないが。
帰りしなには作業するときにつけていた腰の紐を外し、また手を繋ぐ。いつもウバラの手は少し冷えている。冷え性なのかもしれない。けれども今は体を動かしたばかりだからなのか、指の先端までぽかぽかと温かかった。
「あっ……」
またしてもそれを先に見つけたのはウバラだった。
「また……」
ギョクにとってもそれは気分の良いものではなく、前方の樹上にぶら下がる自殺体に眉をひそめる。
ぷらりと両足を地面に向かって伸ばし、首にはツルが絡まっている。幸いにもその遺体はギョクたちに向かって背を向けていた。どんな顔をしているかはわからないが、今度は虫にたかられていなかったので、その遺体がネズミであることに気づいた。
同族の自殺体を見てしまったからか、ウバラの毛並みに咲く花があからさまにしおれる。これは落ち込んでいるからというのもあるだろうが、怯えや恐怖が混じっていることは、彼女の大きな瞳を見れば明らかであった。
ギョクはウバラの手を引いて、自殺体へと近づく。うつむいて影になった顔は見えないが、中年のウサギの雄のようだ。
「……行きしなに見たやつとパートナーだったりしたのかな」
それはほとんど思いつきの言葉だったが、口に出してみるとなんだか真実味を帯びてきて、ギョクは不思議な気分になった。
「おろしてやるか?」
「でも」
「でも、気になるだろ」
「…………」
ウバラは黙ってしまった。大きな黒い瞳は逡巡に揺れている。ギョクの手を煩わせたくないという気持ちと、同族がこの先虫にたかられる姿は見たくないという気持ちがない交ぜになっているのだ。
「まだ虫にたかられてないし……えーっと、まだ新しいみたいだし――?!」
視界が急にぶれて、たちまちのうちにギョクはしりもちをついてしまった。尻の痛みにうめいていると、ギョクを押し倒したウバラが今度は彼を急いで立たせようとする。
「どうした?!」
「ギョク! ギョク! なんか出た!」
「なんかってなんだよ?!」
そんな風に叫びあいつつギョクはウバラに左腕を引っ張られ、引きずられるようにして自殺体から距離を取らされる。
しかしウバラが意味もなくこんなことをしないということは、これまでの生活の中でわかっていた。なにかしら切羽詰った状況ゆえにこんなことをしているのだということは、すぐに察せられる。
わけがわからないなりに、ギョクは愛用の銛を握る手に力を込めた。
「出たの! あの
ギョクが視線を走らせれば、自殺体のズボンのすそから、まるで鎌首をもたげたヘビのように、ハリガネもどきが顔――恐らく、たぶん――を見せていた。
目玉がどこにあるかわからないにも関わらず、そのハリガネからは強烈な視線と敵意が感じられる。
「なんだありゃ」
「わかんない。でも、なんだかすごく嫌な感じがして見たらあれが出てきてて……押し倒しちゃってごめん……」
「いや、たぶんそれでよかったんだと思う。謝んな」
「うん……」
じりじりとハリガネと対峙したままふたりは後退して行く。
「……もしかして、アレのせいじゃないよね」
――首を吊ったのは。
確信はなかったし、証拠もなかったが、ギョクはウバラのその言葉が正解のような気がして、ハリガネに向かって威嚇するように銛の切っ先をむけた。
森の民にとって、森から与えられた命をまっとうせずに捨てることは、
よって森の民が自ら命を絶つことはそうそうあることではないのだ。――しかし、ふたりは今日、じつに二回もそのような珍しい現場に遭遇してしまった。
――アレのせいじゃないよね。
ウバラの言葉がますます真実味を帯びたような気がして、ギョクはぞっとする。
あのハリガネがなんなのか、ギョクもウバラも知らない。特に虫に詳しいウバラも知らないとなればギョクにはお手上げであった。
「帰ろう、ギョク」
ウバラの言葉にギョクはうなずく。銛を構えたまま、ハリガネもどきを正面に後退して行き、しばらくしてからふたりは走り出した。
「――もしも」
その日の夕食――とは言っても日暮れにはまだ早い――の席はいつもより幾分か暗かった。立て続けに自殺体を見たうえ、妙なハリガネもどきと遭遇してふたりとも心身ともに疲れきってしまっていたのだ。その前には毒虫の退治もあったので、なおさらである。
「もしも、あのハリガネのせいで首を吊ったんだとしたら……怖いね」
「ああ。これからは民でなくとも、森にある死骸には近づかないほうがいいかもしれないな」
口数は少なかったが、ふたりとも疲労困憊していることは、互いにわかっていた。
その日の夜、ふたりはどちらともなく布団をくっつけて寝転がった。
ヤモリの木の中では必要ないのに、ふたりは手を繋いで眠ることにした。相手を失いたくないという気持ちが、ふたりともにあったから。それが単に蝕の季節のパートナーを失いたくないというだけの意味であったかは、定かではない。
ただその日の夜は、覚えてはいなかったけれども、ふたりともとても楽しい夢を見たと付記しておく。
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