花棚

 花鼠の主食は虫である。果実や木の実も口にするが、概ね地中に生息する虫を食べて生活している。


 よってウバラの口に運ばれるのも虫であった。


 やたらに足の多い赤黒い虫がウバラの小さな唇の向こうへと消えて行くのを、ギョクはなんとも言えない顔で見送る。


 水狼であるギョクの主食は魚であったが、雑食性のため魚以外も食べられないことはない。慣れているか、いないかの違いくらいである。


 そういうわけでギョクの皿にも調理された虫が鎮座していた。


 虫はギョクやウバラたち森の民と違い、蝕の季節に多くが繁殖期を迎える。相手を見つけ、卵を産み、それが孵って幼虫たちが跋扈する。よって虫は蝕の季節にはかかせない、容易に手に入る食糧という位置づけなのだ。


 そのことでギョクに否やはない。生きて行くためには仕方のないことだということも、わかっている。


 けれどもどうしても、虫を食べることには慣れない。ただ、それだけの話だ。


 そういうギョクの心情をウバラは理解しているのか、あからさまに虫虫むしむししい虫は彼女が食べている。単にそういう虫が好みだからという理由もなきにしもあらずな状況だが、ギョクは違うということを確信していた。


 昔からウバラは他者の心の機微を読み取ることに長けていた。しかしそれで上手く立ち回るといった小賢しさをウバラは持ち合わせておらず、どちらかと言えば自ら貧乏くじを引くことが多かったように思う。


 これは、ウバラと暮らしていて徐々に思い出された昔の記憶だ。花鼠ほど忘れっぽくはなくとも、疎遠になっていた相手である。鮮明な記憶を引っぱり出すのにはどうも時間がかかってしまうのは、仕方のないことだろう。


 ウバラはウバラで、同じようにギョクの好みを思い出したので、率先して虫虫しい食材を口にしている。得意なことは相手に任せて役割分担をするという決めごとのもと、料理はもっぱらウバラの仕事であったから、食材の分配は彼女の好きなようにできた。


 本日の朝食は甲虫を蒸したものと、昨日森で採って来た木の実がいくつか。それから野草を水で煮込んだスープ。


 ギョクとウバラは今日はどうするか話し合いながらゆっくりと朝食を――ギョクの場合は虫料理以外を――楽しんだ。


 食糧となる虫を捕りに行こう――という話はウバラから控え目になされた。丸い耳はかすかに垂れて、花も心なしかしおれ気味な気がする。相手が苦手な食材を捕りに行くことを提案するだけでも、小心なウバラにとってはストレスなのである。


 ギョクはあえてそのことには触れず、努めて気軽に「いいな」と答えた。


「虫ならしばらく生かしておけば貯蔵できるし。じゃあ今日も森の奥に行ってみるか?」

「――あ、あの、わたし虫がたくさんいるところに心当たりがあって!」

「そうなのか?」

「うん。昨日の夜思い出したの。このあたりには立派な花棚はなだながあって、そこには虫がたくさん集まるんだって」


「へえ」と感心した声を出してギョクは野草のスープを飲みほした。できるだけ単調な料理にならないようにと、ウバラが入れたハーブの香りが鼻をすーっと通って行く。不快ではなく、むしろ好ましい感覚にギョクの気分はちょっと上向きになる。


「花棚って……あの、花鳥はなどりが祭りのときに作る藤棚みたいなもの?」

「そうそう。棚木たなぎっていう四角い枠を作るように生長する木に、寄生性の花がツルを伸ばして自然の藤棚みたいになってる場所」

「そんな場所があるんだな」

「わたしも聞いただけだけれど……。それがこの近くにあるって、前に西へお嫁に行ったが言っていたの」


 ギョクは祭りのときに見た美しい藤棚を思い浮かべる。あれは花鳥が丹精込めて作り上げられたものだ。それが、大自然の中で出来上がるとは……森はやはり不思議である。


「それにそろそろ灯火虫も捕らないと」

「そういえばそうだった」


 ここへ引っ越して来る途上で捕まえた灯火虫の明かりは、ここ数日でめっきり弱々しいものになっていた。そろそろ寿命が近いのだろう。新しい灯火虫を捕まえる必要があるという話は、ここのところ何度がふたりの議題に上がっていた。


「寿命が尽きる前に新しいのを捕まえないとな」

「花棚は虫が集まりやすいから、灯火虫もいる……といいんだけど」

「あいつらは蝕の季節にはめちゃくちゃ活発になるから……まあ、見つけられるだろ」


 ヤモリの木すそで食事を終え、しばらく休憩したのち、ふたりは今日の目的地である花棚へ向かって出発した。


 今回の行き先は水辺ではないものの、自衛のためにギョクは愛用の銛を手にする。あとはいつも通り、ギョクの左手とウバラの右手とをしっかりと繋いで鬱蒼と木々が生い茂る森の中へと足を踏み入れる。


 互いに手を繋ぐことへの気恥しさはない。これは命綱も同然であると、幼少期から父母に教えられるからである。


 そしておおむね、その成長過程で「命綱」を自ら切ってしまったものの末路を見ることになる。好奇心は猫をも殺す。面倒だから、大丈夫だから、どうなるか見たかったから――。そんな理由で帰らぬものになるのを、彼らは見て覚えて行くのである。


 だからふたりはぎゅっと手をにぎりしめる。自分の命を失わないために。相手を失わないために。


 花棚へはウバラの記憶とギョクの鼻を頼りに進んだ。蝕の季節の気まぐれな森の中も、多少は歩き慣れて来たためか、花棚へは昼前にたどりつくことができた。


 ウバラの言った通り、まるで人為で作られたような光景が広がっていた。四角い枠を作るようにして伸びる木枝と、それにつるを巻きつかせて大輪の花を咲かせる種々たちが、武骨なチャコールグレイの木肌に彩りを添えている。


 天井から垂れる花々はいっそ幻想的ですらあり、ふたりはしばしその情景に見入った。


 花棚もまた森の一部であることに変わりはないため、手を離すのは得策ではない。しかし狩りをするには両の手が必要だ。ギョクもウバラも、片手でできるほどの巧者ではない。


 よってふたりは互いの腰を紐で結び、繋いだ。これなら両手が空く。


 これを普段しないのは、「迷子」を防止するのに一番適しているのが手を繋ぐということだからだ。あとはお守り程度に相手の持ち物を持つくらいか。だからこのときも、ふたりはお互いの虫籠を交換した。


 虫捕りについてはほとんどウバラの独擅場と言って良かった。さすがに平素より虫食をする種族だ。虫の性質を心得ており、どうすれば確実に捕まえられるかをわかっている。


 ギョクはそんなウバラを尻目に灯火虫を探すことにした。灯火虫はギョクの予想通り簡単に見つけられたので、家で使うのに必要な三匹ほどを捕らえるとやることがなくなってしまう。


 虫捕りはおいてギョクは門外漢だ。繁殖期で虫たちの気が立っていることもあって、なかなか上手く捕まえられない。


 それでも雄の意地で何匹か食用に適しているとウバラから教えられた虫を捕らえはしたが。


「ん……?」


 ふと顔を上げれば二十重はたえ咲きの見事な花が目に入る。ちょっと見ないような大花たいかに、芸術を解さないギョクも目を奪われた。


 ウバラにも見て欲しいと思って紐の先をたどったものの、彼女は虫を捕るのに夢中で、声をかけるのは忍びない。


 いつになく生き生きとした様子のウバラを見ているのも飽きなかったが、自分だけ仕事を放棄するのもギョクの性格上ためらわれる。仕方なくウバラの姿を見送って、ギョクも虫捕りに戻った。



「もし」


 呼ばわる声にギョクは顔を上げる。


「もし」


 再びの声にきょろきょろと周囲へ視線をやる。どこかに「ご近所さん」がいるのかもしれない。


 ぎりぎりでパートナーになったがゆえに、ふたりが暮らすヤモリの木は辺鄙な土地にある。そのせいであろう、今まで他の森の民とは出会したことがなかった。


 遠くへ足を伸ばしに来た森の民か、あるいはこの時期に不運にも森へ迷い込んでしまった部外者か。


 前方では姿を確認出来ず、うしろを振り向く。するとあの二十重咲きの花がすぐ目に入った。あっ、と声を出しそうになる。巨大な花の下に揃えられた足が二本見えた。ああ、そこにいたのかとギョクが声をかけようとする。


 けれどもそうする前にウバラがものすごい勢いでギョクの元へと走り寄った。


「うわっ」


 ぐい、と乱暴に左腕を引っ張られて、ギョクはたたら踏む。怒りよりも戸惑いが先行して、ギョクはその金の目を自身の左腕に抱きつくウバラへと向けた。


 疎遠になっていたとはいえ、この数日で彼女の素行が幼少期とそう大差があるわけではないということを、ギョクは理解していた。つまりウバラは引っ込み思案で、内気で、自己犠牲的な性格から変わっていないということである。


 今の行動にだってなにか理由があるのだろうとウバラの顔を見る。


 彼女の顔は恐怖に強張っていた。


「どうした? なにか出たか?」


 ただならぬウバラの様子にギョクは愛用の銛を持つ手を強め、毛並みを立てるようにして周囲へ気配をやる。けれどもこの場にいるのはギョクとウバラ、そして足しか見えない「だれか」だけであった。


 くん、と顔を上に向けて周囲のにおいを探ろうとしても、花棚の中にいるので上手くかぎ分けられなかった。


「帰ろう」


 理由も告げずにウバラはぐいぐいとギョクの腕を引っ張る。わけがわからずにギョクはその場に踏みとどまってしまう。


「どうしたんだよ」

「ダメ。静かにして。それから名前を言わないようにして」


 振り返ってギョクを見上げるウバラの大きな瞳は、明らかに怯えていた。その理由がわからずにギョクはさらに困惑する。


「もし」


 向こうから呼ばわる声がかかる。ギョクがそちらへ顔を向けると、左腕が強く引っ張られた。


「帰ろうギョク。ここはダメ。今日はもう帰ろう」

「それならご近所さんにも――」

「あれはご近所さんじゃないよ!」


 声を潜めたまま悲痛な叫びを上げたウバラに、ギョクはびっくりしてもう一度「ご近所さん」の足を見る。ごくごく普通の、ウサギの足に見えた。


「もし」


 もう一度、呼ばわる声がかかる。ギョクはそれが急に無機質なものに聞こえて、一度に毛が逆立つ。


 ウバラはギョクが動かないのを見て、一度彼から手を離す。そのまま、その手を虫籠の中へと突っ込むと、灯火虫を一匹、大輪の向こうへと投げ入れた。


「――!」


 すると大輪の向こうでウサギの足が揺れた。まるで操り人形のような動きで、ゆらゆらと宙を漂っている。


 そして大花が咲くその奥で、虫のつぶれるかすかな音がした。続いて、何度も甲虫の固い背を砕くような音が響き渡る。それは聞き慣れた、甲虫を食う咀嚼そしゃく音であった。


「帰ろうよ、ギョク。あとでちゃんと話すから。もう帰ろう」


 ウバラの声はいよいよ泣きそうであった。ギョクはすぐ近くにいるなにものかの不気味さに気づいてしまった衝撃も冷めやらぬまま、ウバラに引きずられるようにして花棚をあとにした。


「あのひと、たぶん死んでた」


 帰りしな、ギョクと繋いだウバラの手は指先が冷えていた。


「あれはたぶん森の民を食べる花で、見えた足は食べたひとのものを使っているんだと思う」

「そうなのか?」

「見ちゃった……というか、見えちゃった。ギョクのそばに行くときに、あの大きな花の裏で……足だけ、立ってるの」


 ギョクの脳裏をあの二十重咲きの花が駆けて行く。そしてその下から見えるウサギの足。投げ入れられた灯火虫。……それを咀嚼する音。


「花棚にはああいうのがいるって忘れてた。ごめんね」

「謝るなよ。お前がいなきゃ、俺が食べられてたかもしれないし」


 花棚の中では花の芳香のせいで嗅覚が役に立たない。鼻が利くギョクが気づかなかったのもそのせいだろう。


「危なかった。ありがとうな、ウバラ」


 ギョクがそう言えば、ウバラは何度かおどろいたように瞬きをしたあと、ぎこちない微笑みを口元に浮かべた。


 蝕の季節が始まるにあたって、ウバラは「頭が悪く物を知らない」と自身を評した。


 けれども実際に暮らしてみるとそれを感じさせるような言動はなく、むしろ粗暴なギョクよりも細々としたことによく気がつくし、虫食やスープの件を鑑みても、気が利いているほうと言える。


 ――それは、だれからの評価なのだろう。


 ギョクはそんなことを考えながら、ウバラと連れ立ってヤモリの木へと帰って行った。

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