水辺にて

 水辺が遠いと毛並みが乾くな、とギョクは自身の髪を撫でて思った。


 水狼は呼んで字のごとく水辺に生息するオオカミの一種である。彼らは人生の大半を水の中で過ごす。よっておかに上がり肺呼吸をすれども、やはり水から離れてはそちらが恋しくなるのも無理はない。


 毛並みが乾いたからといってなにか不都合はない。ただ、いつもと違う感覚に戸惑いが先行してしまっているだけの話だ。


 蝕の季節には水狼と言えども樹上で生活せねばならない。自らを守ってくれるのは産声を上げた水中ではなく、ヤモリの木と香炉なのだから。


 蝕の季節に入って最初の夜を無事に越したギョクとウバラは、日が上がるや朝食がてら周囲の散策に出かけることにした。


 木のウロを利用した貯蔵庫には、群れを崩すときに分けられた食糧がいくらかあるが、もちろんこれだけでは蝕の季節を越えることはできない。よってパートナーと共に季節を耐え抜くだけの備蓄を森の恵みから分けてもらわねばならないのだ。


「水辺に行くんだったよね。場所、覚えてるの?」

「ああ、もちろん。まあ、忘れていても水の匂いをたどれば着くだろ」

「そっか。ギョクは水狼だもんね」

「水には絶対困らないから、安心しとけ」

「うん」


 花鼠であるウバラも鼻が利かないわけではない。ただ、水を探すことにかけてはギョクのほうに軍配が上がるというだけの話だ。なにせ水の中で生まれ、水の中で育ち、水によってもたらされる恵みを元に生きていくのだ。こと水に関してはいかな種族といえども水狼には太刀打ちできないのである。


 ギョクは愛用の銛を右手に持ち、左の手ではしっかりとウバラの右手を握っていた。


 なにも、過保護ゆえにそうしているのではないし、また迷子を防止する以上の他意もなかった。


 蝕の季節に様変わりする事柄はたくさんある。そのひとつが平素はギョクたちを守り、慈しむ森の変化であった。


 この時期の森は厄介だ。ちょっとすれば木々が移動して、あっという間に居所がはっきりしなくなる。それは森で暮らす民たちも例外でなく、海千山千の熟練者をも飲み込むというから恐ろしい。


 特に太陽が見えない蝕の季節に森に入るからには、一等慎重にならねばすぐさま方角をも見失ってしまう。方角以外にも太陽が見えないゆえに、気がつけば夜になっていたなんてこともあるから、この時期の森は本当に曲者だ。


 それでも森に入らないという選択肢は取れない。森の民はその名の通り森で生きている。森からもたらされる恵みで生かされている。だから、森に入らないということはほとんど自殺行為と言って良かった。


 しかしそんな奇怪な現象に対して森の民たちにも一応の対抗手段はある。


 森も「神」と同じく強い芳香があると大人しくなるので、出かけるときは携帯香炉を棒の先に下げて持って行くのだ。そうすると少しだけ森の動きがにぶくなる。それでもまあ、ある程度帰り道は変わってしまうのだが、香炉を使うのと使わないのとではそれなりに利便性に差が出るため、たいていの民は携帯香炉を必需品としている。


 ギョクとウバラも例外ではない。ギョクは非常時に備えて武器となる銛を持ち、空いた手でウバラの右手と繋ぐ。ウバラはギョクと繋いだのとは逆の手で香炉を下げた棒を持つ。そうやって役割分担をして森の中を進んでいくのだ。


 ギョクの敏感な鼻先には香炉の芳香はきついものがあるが、それもすぐに慣れてしまう。今日の香りはウバラが選んだ。甘ったるい香りはギョクの好みではなかったが、ウバラがそれなりに気に入りのようだったので、特になにも言わなかった。


「髪、気になるの?」

「ああ……乾いてるなと思って」


 道中の会話は多くない。


 ギョクとウバラは一応幼馴染という間柄であったが、長じるに従い疎遠となっていた。


 幼少のみぎりを思い出せば、記憶にも残らないようなくだらない会話に興じていたような、おぼろげな感覚はある。けれどもそれを今なせと言われれば、無理な話と断る程度には、ふたりの距離は開いていた。


 毛並みが乾いているのが気になると言えば、隣を歩くウバラの、雫を反対にしたような耳がぴるぴると動いた。次いでくん、と鼻をちょっと上へと向ける。


「水辺に早く着くといいんだけれど。でももうすぐかな? 近いよね?」

「ウバラにもわかるくらい近いか」

「うん、近い」


 それからウバラはちょっと頭を下げて、灰色の毛並みの上で散り散りに咲く白い小さな花を見せる。


「花がちょっと湿っぽい感じがする。あと水のにおいもわかるようになってきた」

「なら、もうすぐだな」


 花鼠は毛並みのあいだから花が咲く。花の形や色、花弁の枚数などは個々人で大きく変わる。巨大な一輪を咲かせるネズミもいれば、ウバラのように小さな花をたくさんつけているものもいる。それらは花鼠たちにとっては健康を推し量るためのバロメータであり、一種のステータスでもある。


 ただ、花が大きければ大きいほどいい……という単純な話ではない。十人十色と好みが千差万別であるように、どんな花を持つ相手が魅力的に映るかは個人の好みの問題である。


 どちらにせよ繁殖のパートナーを見つける上で、花鼠たちの毛並みに咲く花はそれなりに重要な意味を持っているのだ。


 もうひとつの特徴は気分の上下や健康状態によって花の様子が変わる点である。艶めいたり色が鮮やかになったり、あるいはしおれたりすることがある。


 ちなみに花鼠が死を迎えると、花は枯れて花弁が散る。それによって花鼠たちはその当人が遠行に出たということを悟るのである。


 ギョクはウバラの花を見る。彼女の耳や瞳のように丸っこい花びらが五つついた、おもちゃのような可愛らしさにあふれている、小さな白い花だ。その色ゆえに鮮やかさとは無縁ではあるが、瑞々しく元気な様子を見てギョクは心の中でうんうんとうなずく。


 パートナーの健康状態を気にかけるのも義務のようなものだと、ギョクは思っている。


 特に水狼は群れの中での結束が強い傾向にあるので、ふたりだけといえども擬似的な群れの、雌にあたるウバラの様子をギョクはよく見ているのであった。


 途中で毒のない果実をいくつか採る。手を繋いだまま木のすそに座って、簡易な朝食とする。片手だけでというのは面倒だったが、ここは森の中だ。なにが起こるかわからないのでパートナーの手は離せない。


「――ん゛っ!」


 果実はまだ完全には熟れていなかったのか、妙にすっぱかった。


 横でウバラが奇妙に顔を変化させたのを見て、ギョクはちょっと笑ってしまう。それを見てウバラは唇をとがらせてから、情けない目でギョクを見た。


「ギョクも食べてよ!」


 なんとなく、少しだけなんの屈託もなく幼馴染だと言えたころのことを思い出し、ギョクは尻がくすぐったい気分になる。


「まだ熟れてなかったか」

「そんなことないと思うけど……おかしいなあ。果実の目利きには自信があったのに」

「蝕の季節だからな。森がおかしくなっているんだろう」


 落ち込むウバラの手を励ますように握りこめば、彼女からもまた、返事をするように指先に力が込められた。


 時間は香炉に入れた練り香で計る。朝早くに出て、時間はもう昼に差しかかろうかというところで、ギョクとウバラはようやく森を抜けて小さな湖にたどりついた。


 さっそく腰に提げた革袋に水を溜めて行く。ここにたどり着くまでに半分ほど中身が減っていたので、ちょうど良かった。清流自体はギョクとウバラが棲みかにしている木の近くにもあるので、わざわざ湖まで往復する必要はないから安心だ。


 今回ちょっと遠出をして湖まで来たのは、単に散策目的というのもあったが、ギョクが広い場所で泳げる場所を見つけておきたかったから、というのもある。


 水狼は水がない場所でも生きてはいけるものの、やはりその名に「水」を冠しているだけあって、陸にあってはストレスを溜めてしまうのだ。よって陸で暮らさざるを得ない蝕の季節のあいだをどう乗り切るかは、水狼にとっては命題と言っても過言ではない。


 ギョクはウバラから手を離す。森を抜けたからもう大丈夫だろうという安心もあったが、なにより体がうずいて仕方がない。


「なあ、泳いでもいいか?」


 恐らくは許可がなくとも飛び込んではいただろうが、ギョクとウバラはパートナーという間柄である。形だけでもしっかりと許可を取る姿勢は見せねばならない。


 あからさまに体をうずうずとさせ、ちらちらと湖へ金の目を向けるギョクの問いに、ウバラが否と答えるはずもない。昨日に引き続き、森の中でも落ち着いた様子を見せていたギョクの変化に、ウバラはちょっとだけ頬を緩ませる。


「いいよ」

「ありがとう。魚、獲ってきてやるよ」

「うん。楽しみにしてるね」

「期待しとけ」


 そう言うやギョクはほとんど音を立てることなくスーッと水の中へ入って行った。さすがは水狼。すでに狩りは始まっているのだとウバラは感心した。


 さて自分はどうしようかと湖のそばに腰を下ろす。森の中に入るわけにはいかないので、靴を脱いでそっと湖の中に足を入れた。指を入れただけでもぞっとするほど冷たくて、途端に鳥肌になってしまったが、慣れれば心地が良い。


 しばらくそうしていると、またギョクがほとんど音を立てずにウバラのもとへと泳いで来る。


魚篭びくを預けるの忘れてた」


 腰から紐をほどいてギョクは魚篭をウバラに投げ渡す。その中には既に小ぶりの魚が二匹入っていた。


「わたしが持っていていいの?」

「まあ……木がないとは言え、ここも森の中といえば森の中だし。俺の持ち物、預けておく。あと森には入るなよ?」

「入らない入らない」


 それからギョクは鮮やかな身のこなしで、一匹捕まえるたびにまるで見せびらかすようにしてウバラが持つ魚篭へ魚を入れて行く。それが褒めて欲しがっているイヌのように見えて、相手はオオカミだというのにウバラはそっと微笑んだ。


 ギョクが狩りに興じている姿を見るのはなかなか飽きない。まだたった二日間だけいっしょにいたパートナーではあるが、それでもウバラはギョクの色んな面を見ている。


 幼馴染という間柄ではあるものの、そうやって屈託なく呼べたころの思い出は、ウバラの中ではおぼろげだった。だからこそ、久方ぶりに行動を共にするギョクとの時間は、新鮮な驚きに満ちている。


 それに今のところギョクはウバラに優しいし、思いやりを見せてくれている。単純と言ってしまえばそれまでだが、やはりこちらを慮ってくれる相手に好意を抱くのはごく自然な流れだろう。


 ウバラはギョクのことを信用してはいても、完全に信頼しているわけではない。けれどもそのことをちょっと申し訳なく思う程度には、ギョクとの時間は退屈ではなかった。


 不意にウバラの視線に青白いものが映った。湖の薄暗い色からは浮いた、妙に美しくて、それが逆にウバラの神経を逆なでするような不快感を催す。なぜ、美しいものを見てそう思ってしまったのかウバラはわからず、戸惑った。


 そのとき、ちょうどギョクが水面から顔を出す。


「今日はここまでにしよう」


 銛を手にさっさと湖から上がったギョクは、ウバラが持っていた魚篭に魚を一匹放り入れる。


「まだ時間に余裕はあるよ?」


 香炉の中を確認しながらウバラは言うが、ギョクは首を横に振った。


「ダメだ、卵が出た」

「卵?」

「ほら、あれ。見えるだろ?」


 そう言ってギョクが指差した先には、先ほどウバラが目にした妙に美しい玉があった。視界に入れると、またしてもぶわりと肌が粟立つような不快感に襲われて、ウバラは思わず視線をそらす。


「あれが出るとダメなんだ。上流にもしばらく近寄らないほうがいいかもな」

「どうして?」

「わかるだろ? 見たらマズイって」

「うん……」


 ギョクは多くは語らなかったものの、ウバラはすんなりと納得することができた。あの卵はマズイものだと、本能がこれでもかと警鐘を鳴らしている。じっと見ていられないのも、よくわからない不快な感情に襲われるのも、そのせいだ。


「なんの卵なの?」

「名前はないけど、そいつはいつもは森にいて、あっちこっち水辺で卵を産みつけるんだ。それが孵るとあんまりよくない。中を見たやつはいないけど、たぶん見ないほうがいいんだと思う」

「そっか」


 名前がないということは、名づけすらも水狼のあいだでは禁忌タブーとなっているんだろう。


「そいつは死んだときにだけ大量に卵を産むって言われてる」


 水が流れ込む河口には、ぷかぷかと丸い玉が浮いている。ギョクやウバラが抱えられるていどの大きさの青白い玉が、無数に群れをなしている。


「そいつの死体も見るのはあんまりよくない。それにそいつが卵を抱えたまま死んだってことは、近くにそいつを殺したやつがいるかもしれない」


 ウバラはギョクの言葉を聞き、恐怖に黙り込んだ。不意に先ほどまで楽しんでいた湖が、まったく別のものに摩り替わってしまったような錯覚を覚え、身震いする。


 ギョクの花がしおれたのを見て、ウバラは彼女の手をつかむ。そうして素早く指を絡めて、きつくウバラの手をにぎりしめた。


「俺が守るって言っただろ」

「うん……」

「安心しろよ。おっとう直伝の銛捌きだ。どんなやつでもひと息で仕留めてやるよ」


 ちょっとおどけたギョクの口調に、ウバラもぎこちなく微笑んだ。



 帰りの道はできるだけ足早に駆け抜ける。幸いにもなにかしらに遭遇することはなく、ヤモリの木に帰り着くことが出来た。


「明日もよろしくな」


 ギョクの手とウバラの手が離れる。緊張していたために少ししっとりとしていたギョクの手が離れると、ウバラはちょっとだけその熱を寂しく思った。ギョクも小さな柔らかい手の感触が、しばらくまとわりついているような気がして、落ち着かなかった。


 ――蝕の季節は始まったばかりなのに。


 こんな調子でだいじょうぶかなとふたりは思ったが、どちらもそれを口にすることはなかった。

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