(3)

 毎日会うことは出来ないものの、その後わたしは順調に交流を積み重ねて行った。


 日々の積み重ねは大事だ。なんとも思っていない相手でも、長く共にいれば情も湧くもの。


 エヴラールはその思惑に見事にハマってくれているのか、わたしからの「テスト」とでも言うべき些細なワガママにも応えてくれるようになっていた。


「……あのね、エヴラール。お願いがあるの」

「私に出来ることでしたら、なんなりと」


 いつものようにイスに座ったわたしの前にひざまずき、エヴラールはこうべを垂れている。


 これのすべてがわたしのものになったら、それはとても素晴らしい気分だろう。


 けれどもそんな欲張りなことは言わない。せめて、せめてこの心の半分でも、わたしで占めることが出来たならば――。出来たならば、わたしは……どう思うのだろう? ことがないので、まだそれはわからなかった。


「あのね……今日、窓から見たら塔のそばに花が咲いていたの。紫色の……。あの、その花を取って来てくれないかしら?」


 アンジュの言う「窓」は、たしかに「窓」の形をしているが、がっつり鉄格子が嵌まっている。そういう「窓」だ。無論、エヴラールもそれを知っているので眉がぴくりと動く。


 ああ、その精悍な顔の下でなんと思っているんだろう?


 堅牢で武骨な鉄格子越しにしか外を知ることの出来ない、お姫様。これってすごく可哀想だよね? ねえそうでしょ、エヴラール。


「無理だったらいいの」

「それくらいでしたら今すぐにでも」


 微笑みを返すエヴラールを見て、アンジュもパッと笑顔になる。わたしが鏡の前で練習した、アンジュがもっとも愛らしく見える笑顔だ。


 エヴラールはそれを見て、あの慈愛の瞳を向けてくれる。明らかに庇護欲をくすぐられた顔だ。


 そう、あなたしかいないんだよ、エヴラール。このアンジュにはこーんな些細なことを頼める相手は、エヴラールしかいない。塔のすぐそばで開いた花を摘むことすらゆるされないお姫様が頼れるのは、エヴラールしかいない。


 そのこと、よくわかって欲しいだけだから。


 あなたに悪意を持つより、ずっとずっといいと思うんだけど。


「どうぞ、殿下」

「わあ! ありがとうエヴラール! なんて花なのかな……」


 エヴラールとは取り次ぎの日が訪れるたびに色んな話をした。


 とは言ってもしゃべるのはもっぱらエヴラールのほうである。当たり前だが塔に閉じ込められているわたしの日常なんて、退屈なことこの上なく、話すこともない。エヴラールの話ばかりになるのは、自然なことと言えた。


 エヴラールは兄がひとり、姉がひとり、妹がふたりの五人兄弟の三番目。兄は病弱だった前妻の子だが、エヴラールたちにも良くしてくれる出来た人らしい。姉は最近お嫁に行ったとか。


「お嫁さんは白いドレスを着るって本当?」

「ええ。とても綺麗なドレスを着て、白いレースのベールを被るんです」

「素敵……」


 そこでエヴラールはアンジュには今のところ、そんな日は永遠に訪れることはないだろうということに気づいたようだ。微笑ましかった表情が少しだけ強張る。ちょっと気づくの遅いんじゃない?


 エヴラールは完璧な笑みを浮かべることには長けていたし、アンジュからすればじゅうぶん大人だった。


 けれどもその芯のやわらかい部分は、とても素直でわたしが演じるアンジュに負けず劣らず純真と言えた。


 だからさほど完璧な笑顔でいる必要のないわたしの前では、ついつい気が緩んでしまいがちなのだろう。それは、わたしからすれば喜ばしいことだった。


 愛情を感じるのに「安心感」というのが重要だと物の本で読んだ気がする。いや、あれは愛情ではなく性欲だったかな。まあ、どちらでもいい。


 慈愛にしろ性愛にしろ、エヴラールがわたしを愛しく思ってくれるのなら、それで満足なのだから。


「白いドレスって憧れるわ。……こんな場所で着たらすぐに汚れてしまうけれど」


 ここは困ったように笑っておこう。


 エヴラールの南国の海のような瞳は、わずかばかりだがうろたえるように揺れた。


 アンジュが着ているドレスは、ドレスはドレスでも、汚れても構わないような安っぽいものばかり。センスがあると自負出来ないようなわたしから見てもセンスのない、けばけばしい柄の布に、年頃の少女が着るにはシンプルすぎる型。


 ドレス……と言うと派手なイメージがあったが、これはほとんどちょっと作りが丈夫なワンピースというところである。


 そんな適当にあてがわれたとしか思えないドレスが七着だけ、塔の中にある小さなクローゼットに収められている。


 鏡はあるけれど、化粧も出来ない。髪を飾ることも出来やしない。粗末な鏡台の前で出来るのは、長い髪をかすことくらい。


 年頃の女の子がしたいと思うなにもかもが、この石塔の中では出来ないのだ。


 まあ、「年頃の女の子」じゃなくて、「普通の欲求を持った人間」に置き換えても、この塔で出来ることは少なすぎる。


 エヴラールはなんと返していいのやらわからないようだった。


 あんまりいじめても良くないか。「不憫すぎて見ていられない」くらいまで行くことは望んでいない。「不憫に思うから力になってあげたい」くらいが理想なのだから。


「……ごめんなさい、エヴラール。困らせるつもりはなかったの」


 これは本当。


 別にエヴラールを困らせたくてそういう言動を仕込んでいるわけじゃない。


 ただわたしから離れて欲しくなくて――放して欲しくなくて、そういうことを言っているだけだ。


「いえ、私こそ……」


 ふたりのあいだに沈黙が落ちた。あー、これはあんまり良くないかもしれない。


「……エヴラール、わたしは別に、この生活は嫌じゃないのよ」


 これも本当。エヴラールは思わずといった風に「え?」とつぶやいていたが、わたしは本気で言ってるんだよ。


 だってなにもしなくたって食事が出て来て、服もあって、雨風しのげる家――ここは塔だけど――がある。これって世界中を見ても「恵まれてるほう」だと思うんだよね。


 ネックは閉じ込められてることだけど、別に軟禁されて馬車馬のごとく働かされているわけじゃないんだし、まあ良いほうなんじゃないかな。


 つまりわたしが言ってるのは「働きたくない。他人の金で悠々自適に暮らしていたい」ってことなわけで。自分でもヒドイ発想だなーとは思う。でもこれがわたしの本心だった。


 わたしはクズだと思う。この上でエヴラールを操作しようとしてるんだから、間違いなくクズだろう。


 クズなわたしはエヴラールに揺さぶりをかける。


「食べるものもあるし、三日に一度は水浴びも出来るし、着る物もあって、雨風しのげる屋根もあるでしょう? わたしはなんの役にも立たないけれど、生かされてる。これってすごく幸運なことだと思うの」


 エヴラールは絶句していた。今度こそ言葉を失って、内心で激しくうろたえているだろうことは、かすかに揺れる瞳から見て取れた。


「エヴラール? どうしたの?」

「……いえ! なんでもありませぬ」


 その後は先ほどの空気など忘れたようにいくつかお話をしてエヴラールは帰って行った。


 ……ちょっとやりすぎたかな? 話を聞く限り、エヴラールはなかなか裕福な家で育ったようだし。純粋培養とまではいかないまでも、あまりこういう不憫な人間は見慣れていないのかもしれない。


 だとすれば少々衝撃が強すぎたかもしれない。


 エヴラールに与えた衝撃がいかほどかはわからないが、彼が次の取り次ぎの日に塔を訪れたとき、その手にはわたしへの贈り物があった。


「秘密ですよ」


 そう言ってエヴラールは包みの布をそっと開いた。出て来たのは見事な銀細工の花がついた髪飾り。


「これは?」

「恐れ多くも、殿下へ。――受け取ってくださいますか?」


 平素であれば精悍な顔立ちの青年に、不安を隠した微笑を浮かべられては、その「お願い」を突っぱねるのなんて難しいに違いない。


 贈り物なんて貰ったことのないわたしは、どきどきした。それはもう、心臓がみっともないくらい早鐘を打っていた。


 今日って誕生日とかなのかな? それともエヴラールになにかいいことでもあった?


 贈り物は特別な日や、特別な人に贈る物。そういう知識のあるわたしは、いつもの冷静さをやや失っていた。


「――あ、う、うん……」


 手のひらに乗せられた髪飾りの重みに、にやけそうになってあわてて頬の筋肉を引き締める。それでもぷるぷると頬が震えているような感じがして、気が気ではない。


「これは、髪飾り?」

「はい」

「えっと……これってどうやってつけるのかしら」

「では、私がおつけいたしましょうか?」

「うん。お願い」


 エヴラールの筋張った男らしい手がわたしの髪に触れる。昨日が三日に一度の水浴びの日で良かった。ここは日本よりもずっと湿度が低いから肌がべたべたしないけれど、それでもやはり気になってしまうのは仕方がないと思う。


 エヴラールの指の動きは、予想していたよりもずっとスムーズだった。ささっと髪を束ねて、そこにコームタイプの髪飾りをすっと刺した。


「……似合っているかしら?」


 その言葉を口にしたとき、少しばかり声が震えていないか気になった。予想外の事態に心臓はずっとどくどくと音を鳴らしていて、聞こえるはずがないとわかっていても怖くなってしまう。


「はい。大変お似合いですよ」


 ああ、この慈愛の目。南国の海のような穏やかさを湛えた、優しい瞳。


 この目が一心にわたしだけを愛してくれたらいいのに。そうすればきっと、すごくすごく幸せな気分になれるに違いない。


 そうしてイスから動きたくとも動けない状態になったわたしに、エヴラールは今度は真剣な目を向ける。


「アンジュ殿下」

「――え? うん、なあに?」

「殿下は役立たずなどではございません」

「そんな……わたしはなんにもしていないんだよ? ただ、生きているだけ……」

「いいえ、いいえ。違うのです、殿下」


 いつになく緊張した面持ちのエヴラールから告げられたのは、予想していた事柄の答え合わせ……といったところだったが、わたしはそれが彼の口から語られるとは微塵も予想してはいなかった。


「殿下は……『夢告げの巫女』なのでございます」

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