(2)

 彼が来ることはわかっていた。


「はじめまして、アンジュ殿下」


 そう言って微笑みかけて来たのは、以前からこの石塔を訪れていたどの男たちよりも若い彼であった。


 それでも年の頃はアンジュより最低でもひと回りは上だろう。少年を脱したばかりのあどけなさの残る顔で、なにが面白いのかにこにことしている。


 いや、彼の胸中で面白いことなんてひとつもないことくらい、わかりきっていた。完璧な笑みを浮かべていても、その心の内ではきっと「めんどくせえなあ」くらいのことは考えているに違いない。


 けれども彼は笑顔のまま、これからの取り次ぎは自身が行うということを、よく通る涼やかな声で告げる。


「そうなの。よろしくね、エヴラール」


 エヴラールと名乗った男にわたしも微笑みかけてやった。父親が王様だとすれば、その権力の分美女を手にするのも容易いか、アンジュの容姿はなかなか将来有望と言える。早い話がお人形のような、それはそれは、とっても儚げな美少女なのである。


 こんな無垢を体現したような容姿の下に、こんなクズな人間がいるとはだれも思うまい。


 エヴラールもそうなんだろう。どこかほっとしたような顔を隠して、「よろしくおねがいします」とひざまずいたまま言った。


 夢を聞きにやって来る彼らは、いつも下からわたしを見ている。わたしがアンジュには少々大きな大人用のイスに座り、彼らはそのそばで膝をつくのだ。


 その姿はまさしく騎士といった風体で――いや、実際に佩剣しているのだから、彼らは騎士とか軍人とか、まあそういう人間なんだろう。


 もちろんエヴラールも腰の左に剣を佩いていた。ただ、それは塔の外にいるあいだだけ。塔の中にいるときは右手で柄近くの鞘をつかんでいる。


 敵意がないということを示しているのだろうが、あまり意味がないように思う。


 見たところ一〇に満たないアンジュなんて、片手でくびり殺すことくらい、戦士であればたやすいに違いない。


 アンジュはとってもか弱い……と言えば聞こえはいいが、要は栄養失調気味の、慢性不良児なわけだから、その体はスマートというよりやせぎすと言うほうが正確だろう。


 外の世界も知らず、体の筋肉もほとんどついていないそんな小娘に、立派な男たちがひざまずくんだから、世の中は不条理なことでいっぱいだと思う。


 エヴラールだってたまの合間と言えど、こんな森のはずれに立つ石塔へわざわざ使いに行く任を拝命したくはなかっただろうに。


 かわいそうだけれど、わたしにはどうしようもない。


 そもそもエヴラールが今までと違いアンジュ専任の取次役になったのは、アンジュの暗殺未遂が原因だ。


 夢に見たアンジュ自身の危機はその日の取次役に伝えられたけれど、彼もまたすでに暗殺の首謀者に抱き込まれていた。ついでに通いのメイドも。


 メイドのほうはアンジュの存在は出来るだけ広めたくなかったのか、その顔触れは取次役の男たちと違っていつも同じだったから、彼らを買収するよりも簡単だっただろう。


 けれども彼女が暗殺計画に恐れをなして自首してしまうことも、わたしはわかっていた。


 わかっていたので取次役の彼にはそこまで話さなかった。


 かくして暗殺計画は露呈し、実行犯も首謀者も処刑されたわけである。めでたしめでたし。


 だからエヴラール。恨むなら、どうかわたしじゃなくその暗殺の首謀者たちを恨んで欲しい――というのが、クズなくせに小心者なわたしの本心であった。



「いつもありがとう、エヴラール」


 わたしが初めてそう言ったとき、彼の瞳はわずかな動揺に揺れた。


 そんなことを取次役の男に言ってやったことなど一度もなかったのだが、今回の言葉は単なる気まぐれではない。顔触れが変わらないのなら、多少の媚びくらい売っておいてやろうと、そういう腹積もりであった。


 毎度深窓の姫らしくねぎらいの言葉は口にしていたものの、こういうセリフは言ったことがなかった。


 普段と違うその感謝の言葉に、エヴラールはすぐににっこりと完璧な笑みを浮かべて応える。


「ありがとうございます、殿下。そのような言葉をかけていただいて、感激の極みでございます」


 にこにこ。わたしたちは微笑みあっていた。


 ……その腹にはなにが潜んでいるんだろう。エヴラールも「ちょろいガキだな」くらいは思っているだろうか。あるいは、「なつかれちゃってメンドクセー」とか?


 まあ、どちらでもいい。わたしにひどいことをしないのなら、それでいいや。


 ――とまあそう思っていたのだが。


「殿下はいつもお綺麗ですね」

「え? ……そうかしら?」


 さて今日も夢について話しましょうか、と構えていたところに不意にそんなおべっかが飛んで来た。


 思わず「はあ?」とアンジュのイメージぶち壊しなセリフが口をついて出そうになったが、どうにか優雅に答えることが出来た。


「出来るだけ身綺麗にしていたいと思って。見てくれる殿方なんて、エヴラールくらいしかいないのにね」


 ちょっと困ったような笑みを浮かべ、儚げにいじらしくそう言えば、意外にもエヴラールは顔から完璧な微笑を消した。


 この表情は良く知っている。


 ……同情だ。不憫に思っている顔だ。


 バッカだなー。


 わたしは腹の中で大笑いだ。このエヴラールという男、わたしが思ったようなしたたかさは、存外持ち合わせていないのかもしれない。


 先ほどのが演技なら拍手喝采。役者にでもなったほうがいいよ、と肩を叩いて言ってやりたい。


 でもまあそんな言葉、口が裂けてもアンジュには言わせられない。


 アンジュは可愛い可愛いお姫様なのだ。


 なーんにも知らない、底抜けに馬鹿なお姫様なんだ。


「どうしたの? エヴラール」


 だから小首をかしげてエヴラールの意識を引き戻してやる。彼はわたしの意図した通りに再びその美しい顔に微笑を浮かべた。


 言い忘れていたが彼が恰好良いのは声だけではない。華やかさはないが、いかにも勇壮といった精悍な顔立ちをしている。


 優男という言葉からは程遠いが、わたしはどっちかと言うとなよっちいタイプより男くさいほうが好きだ。


 そう言えばお父さんがそんな感じだったなと、杏樹の記憶が思わず出て来てしまう。


「すいません」

「疲れているのかしら? それならここで少し休んで行くといいわ。おもてなしなんて出来ないけれど」

「いえ、その必要はありません。殿下の御手を煩わせることなど……」

「そう? でも無理はしないでね」


 ハイ、ここで儚げに微笑むー。


「……わたしとおしゃべりしてくれるのは、エヴラールしかいないもの」


 ハイ、ここでハッとしたような顔をしてー。


「ごめんなさい! その、おしゃべりだけが目的とか、そういうわけじゃないの! ただ、わたしにこんな風に優しくしてくれたのがうれしくって――」


 そしてここでうつむくー。


 長くウェーブのかかった黒髪が、若干カーテンみたいになっているお陰で、わたしの表情は見えないだろう。


 そんな黒髪の隙間からちらりとエヴラールの様子をうかがう。


 エヴラールはわかりやすく困惑の表情を浮かべていた。どうすればいいのかわからない。そんな顔をしている。


 声も見た目も爽やかで清潔感があるものの、中身はわりと武骨者という感じなのだろうか。


 言い寄る女くらいいそうなものだが、意外と経験はないのかもしれない。


「で、殿下、お顔をお上げくだされ……!」


 思いっきり戸惑ってますという声をかけられたのはちょっと意外だ。最初のように完璧な笑みを浮かべて取り繕うかと思っていただけに。


 わたしは怯えたような表情を浮かべ、ゆっくりと顔を上げる。


 エヴラールの瞳とかち合った。エヴラールの瞳は南国の海を思わせる、透き通った青緑色だった。


「エヴラール……?」

「……そのように、悲しそうな顔をしないでくだされ、殿下」

「そんな顔、してる?」


 してるしてる。今メッチャしてる。


「はい……」


 だろうね。


「私も、殿下がそのようにおっしゃってくださり……その、嬉しいのです。恐れ多くも貴女様と、同じ気持ちなのでございます」


 エヴラールの顔は、穏やかな微笑みをたたえていた。今までの作りものの、完璧な笑顔とは違う。どこまでも穏やかな、慈愛の瞳。アンジュを庇護し、敬愛する、優しい顔。


 ――不覚にも、胸が高鳴った。


「同じ……? 本当に?」

「はい。本当でございます。このエヴラール、王女殿下には誓って嘘など申しませぬ」


 あ、わたしってやっぱり王女なんだ。と、頭の片方で思いながら、もう片方はある欲求でいっぱいだった。


「……うれしい」


 わたしの顔は自然と笑みを浮かべていた。にやにやしたようなものじゃないといいな、と思いながらも、その笑顔は隠さなかった。


「ねえ、エヴラール。これからもわたしとおしゃべりしてくれる?」

「はい。もちろんでございます」

「ほんと?」

「はい」

「ふふ! やったあ!」


 子供らしく無邪気な動きを入れたのは、照れ隠しのためだ。エヴラールに対するものじゃない。わたしの、わたしに対する照れ隠し。


 不覚にもわたしの心はエヴラールでいっぱいになってしまったのだ。


 そこには多少の打算があったことも認めよう。彼ならば御しやすいと、瞬時にそう思ったことも、認めよう。


 けれど、その欲求だけはほとんど本能的なものに近かった。


 エヴラールから愛されたい。


 愛されるのならなんでもいい。家族のような愛、娘に対するような愛、妹に対するような愛。敬愛でもいい。もっと言うなら性的なものでも構わない。


 愛されたい。


 杏樹がずっと求め、そしてついには得られなかったもの。


 アンジュがまだ得られていないもの。


 愛されたい。


 エヴラールに愛されるためになんだってやろう。


 この日、わたしはアンジュの幼い顔に無垢な微笑みを乗せながら、その裏でそのような不埒な考えを持つに至ったのである。

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