(3)
「間違えた……だと?」
それはまさしく地を這うような、という形容がぴたりと当てはまる声であった。
呆然とした様子で立っていたクナッハの足元で、マウヤは石のように土下座の姿勢を崩さない。
またひと月かけて村へ戻ったマウヤを待っていたのは、庄屋の罵倒と悲嘆であった。
マウヤは村が代々仕えていた神を間違えたのである。
しかしそのことで、マウヤを全面的に責められようもない理由はふたつほどあった。
ひとつは庄屋がマウヤの逃亡を恐れるあまりに必要な情報を与えなかった点である。やぶをつついて蛇を出したくないばかりにマウヤに神の話をしなかった庄屋は、なぜかその頭で愚鈍な彼でも神の名前は知っているだろうと決めつけてしまったのだ。
もうひとつは、ナナトと名乗ったあの綺麗な着物を着た少年の存在だ。
マウヤはまったくもって信じられなかったが、彼が面白がって「田舎者」のマウヤを騙したのは明らかであった。なぜならマウヤが持っていた地図は、神都の端など目的地として示してはいなかったのだから。
しかしこの点はマウヤも責められては仕方ないだろう。ナナトを頭の先から信じてかかって、確認を怠ったのだから。
だがもうあれやこれやとなにが原因だったか責めても、覆水は盆に返らない。
「無理だ」
クナッハの言葉にマウヤは思わず顔を上げる。
マウヤはクナッハに謝罪の言葉を繰り返し並べたあと、契約を破棄して欲しいと申し出たのだ。もちろんそれはマウヤの頭から出たものではなく、庄屋の翁によくよく命じられて口にしたものである。
けれど、クナッハはたったひとことでマウヤの希望を打ち砕いた。
「一度した契約は、たとえ私でもなかったことにすることは出来ない。反故に出来るのは、父祖殿だけだ」
クナッハの言う「父祖殿」とは始まりの父とも呼ばれるすべての神々の源泉であり、クナッハら神々とは違い、地上ではなく天上におわす存在である。それはいかに子孫と言えどもおいそれと謁見などかなわない相手なのだ。
「そ、そんな!」
「……あきらめろ。一度交わした約定を反故にするなど、どう逆立ちしたって無理だ」
「でも……」
「『でも』ではない!」
クナッハの怒気に気圧されて、マウヤは上げていた顔をまた地にこすりつけた。そうして謝罪の言葉を口にするマウヤを、クナッハは苦々しげな表情で見下ろす。
「主たる私が『あきらめろ』と言っているのだ!」
「は、はい……」
「……もう二度とこのことは口にするな」
「……はい」
クナッハは「くそ!」と悪態をつくと乱暴な所作で椅子に腰を下ろした。その音があまりに大きかったので、マウヤはびっくりして肩が揺らした。それがまたクナッハの癪に触ったのか、主はぎろりとマウヤをねめつける。
「いつまでそうしているつもりだ?」
「は、はい!」
「返事だけしていればいいと思うな! どうであれ、お前は私の侍者なのだ。ならば、はき掃除のひとつでもしていろ!」
「はい!」
マウヤはあわてて立ち上がったが、ずっと石のように土下座の姿勢をしていたせいで、ふらりと足元から崩れ落ちそうになる。
――ああ、また怒られる。
マウヤはそう思って反射的に目を閉じた。けれどもマウヤの膝はいきおいよく石床にぶつかることはなく、ゆっくりとその地に触れた。
はっとして目を開くと、クナッハが険しい顔でマウヤの右腕をつかんでいた。そのおかげで、マウヤは膝をすりむくようなことにはならなかったのである。
「仕事を増やすな!」
マウヤが謝罪の言葉を口にするより早く、クナッハが喝破する。そうして乱暴な手つきで突き放すようにマウヤの腕を解放すると、大きな足音を立てて部屋の奥へと姿を消した。
残されたマウヤの頭の中を占めるのは様々な感情で――そして最大の懸案は、ほうきがどこにあるのかわからない、ということであった。
なんにせよ時間は待ってはくれない。この良いとは決して言えない空気の中でひとりと
マウヤの次なる不安の先は村のことであったが、これは幸いと言うべきか、クナッハは豊穣神だったのである。
「そんなことも知らなかったのか!」とまたしてもクナッハの逆鱗に触れてしまったものの、マウヤは一安心することが出来た。マウヤが本来仕えるべきであった神もまた豊穣神だったのだ。
クナッハの機嫌は最悪と言って良かった。とはいえそう長く怒りは持続しない性質なのか、日が経つにつれてマウヤへの当たりは和らいでいった。
しかしそれはクナッハがマウヤを赦したこととは等号ではなく、次第に無関心な様子へと移行していっただけであった。
けれども怒られることと、冷淡な態度を取られること、どちらが良いかと問われればやはり後者になるわけで、マウヤは罪悪感にさいなまれながらも、またひとつ安堵することが出来たのであった。
そしてマウヤを騙したくだんのナナトであるが、これは予想外のところで再会することになる。
その日、クナッハのもとに神がおとなった。取次のためにその名を問うたマウヤは、おどろきの声を口にしそうになり、あわててぐっと頬肉を噛んだ。その名はまさしくマウヤが本来仕えるべきであった神のものであった。
そしてその三歩ほどうしろに控えていた侍者を見て、マウヤはまた「あっ」と声を出しそうになったのである。まさしくあの日、マウヤを騙してクナッハの家へと連れて行った当人、ナナトだ。
しかし客の案内をするほうが先である。マウヤはすぐにでもナナトに詰め寄りたいのを我慢して、屋敷の中へと客を招き入れた。
「帰れ」
クナッハが開口一番にそう言ったので、マウヤはまたあとで主に怒られるのではないかと思った。
だがクナッハは客に対して怒っていたり、嫌悪感を持っていたりというよりも、どちらかと言えば呆れている風である。
「そんなつれないこと言わないでくれよ」
「しつこいやつは嫌われるぞ。ラーエウト」
狐目の涼やかな容貌に似合わず、がっしりとした体躯の青年に見えるラーエウトは、クナッハの肩になれなれしく触れた。しかしすぐにクナッハによってはたき落とされてしまう。ぱしり、という小気味の良い音が響いたが、ラーエウトは気分を害した様子を見せない。
「茶は出さんでいい」
マウヤが
「聞きたいこと、あるんじゃないの?」
一瞬、自分に言われたのかとマウヤはどきりとしたが、ラーエウトはクナッハのほうを見ている。
クナッハはしばしの沈黙のあと、はあ、と大きなため息をついた。
「……少しだけだぞ」
「はいはい。わかってますよって」
そんな会話のあと、クナッハとラーエウトは奥の部屋へと消える。
残されたのはマウヤとナナトのふたりだけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。