(2)

 マウヤが求める神は、戸から姿を現さなかった。


「神の侍者は神を愛さなければならないと知っているな?」


 マウヤははっきりとした声で「はい」と答える。黒塗りのぴかぴかした戸は、うんともすんともいわない。ただその奥からくぐもった声が響くばかりだった。


 声は男のようでいて、女のようでもあった。男にしては高すぎるし、女にしては低すぎる。そういう声だった。


「突然押し掛けに、その先にいるなにものかもわからんやつをお前は愛せると、そう言うのだな」


 声の主が言いたいことの半分もマウヤは理解していなかった。なにせ彼の頭は神と契約することだけでいっぱいだったのだ。


 機嫌を損ねてはならない。マウヤはまたはっきりとした声で「はい」と答えた。


「そうか、そうか」


 声の主が笑ったので、緊張に強張るマウヤの顔はちょっとだけ晴れる。しかしその笑いの種類まで理解できれば、マウヤは「のろま」などとは言われない。


「お前は私を愛すると言うのだな?」

「はい。神様を愛して、誠心誠意お仕えします!」

「……奇特な人間だ」


 その言葉にマウヤはちょっと首をかしげたが、すぐにまた声の主が口を開いたので、ぴしりと背をまっすぐに伸ばす。


「まあ、いい。その気概がいつまで続くか試してやろう」

「それは……?」

「おつむの血の巡りが悪いようだな。お前を侍者にしてやると言ってるんだ」

「あ、ありがとうございます! これから、誠心誠意お仕えいたします!」

「それしか言えんのかお前は」

「す、すいません!」


 そう言いつつもマウヤの顔は笑みを隠せない。安堵感が体を支配するものの、心臓は小刻みに鼓動を打っていた。


 頭を下げた姿勢のままでいると、不意に木戸を引く音がした。といってもそれは気持ちのいいものではなく、がたごとと騒がしい音を立てる。


 ときおり、「くそ」とか「ぐっ」とか悪態をつくような声が聞こえたような気がしたが、マウヤが深く考える時間より早く、戸の向こうの主は姿を現した。


 マウヤは「あっ」と声を上げそうになった。


 戸の向こうにいた声の主は、マウヤが想像したような恐ろしい姿ではなかった。それどころか主はしばし見とれるほどに美しかった。今まで見て来た家々の飾り窓よりも、そのそばに置かれた花々よりも、軒先で踊る色鮮やかな灯籠よりも、主はずっとずっと美しかった。


 秋の稲穂のような金色こんじきの髪に、つり目がちの双眸に収まるのは、夜空を閉じ込めたような紺藍の瞳。特にその目は強い意志の光を放って、たちまちのうちにマウヤの心を射抜いた。


 ――これが神様なんだ。


 マウヤは、なにもかもを丸裸にされてしまった気になる。この主の前では嘘も偽りも許されないのだと、いかにのろまなマウヤでも、直感的に理解出来た。


「お前、名前は」


 戸に手をかけたまま、どこかけだるげな様子で主は問うた。マウヤはあわてて名を告げる。


「マウヤ。マウヤか。……わかった」


 何度か舌で名前を転がした意味をマウヤは理解していない。単なる確認としか彼は考えていなかった。


 しかし今この瞬間を持って、マウヤはこの神に魂を握られたのである。それはただ野を行く生類しょうるいのひとつに過ぎなかったマウヤの、生殺与奪の権利が、この神ただ一柱ひとはしらに移ったことを意味していた。


「私の名を言え」


 主の言葉にマウヤは「えっ」と声を上げる。


「どうした」

「え、えっと……」

「まさか、知らないのか」


 次におどろきの声を上げたのは神のほうであった。そして問うた言が事実だと早々に悟るや、主は深いため息をつく。


「どうもお前は他人ひとよりのろまらしいな」

「よく言われます」

「よく言われているのか!」

「えっ? は、はい」


 神の言葉はすなわち「馬鹿にされているのか?」ということであったが、そんなことがマウヤにわかるはずもない。


 マウヤよりはずっと理解の早い主は、もちろんそのことも早々に悟って、また深いため息をついた。


 マウヤはそんな神の様子におろおろとするばかりだが、どうすることも出来ない。


「も、申し訳ございません! 村ではただ『神様』とお呼びしていたので……!」

「もういい、わかった。教えてやる。教えてやるからちゃんと覚えるのだぞ」


 そうしなければ契約が成立しないために、神はしぶしぶといった様子でそう告げる。


 マウヤは首の皮一枚繋がったとばかりに、うれしそうな顔で何度も頭を下げた。


「私はダラムーニャのクナッハと、周りからは呼ばれている」

「だ、だら……?」

「ああ、もう!」

「す、すいません! すいません!」

「クナッハだ! いいか、クナッハだ! 赤子ではあるまいし、これくらいなら覚えられるだろう?!」

「はい! クナッハ様、クナッハ様でございますね!」


 そうしてマウヤが何度も「クナッハ様」と繰り返しているのを見て、神――クナッハは嫌そうな顔をする。


「そう馬鹿みたいに繰り返すな。鳥かお前は」

「はい、すいません!」

「もういい。それでお前はこれから一度村へ帰るわけだが――わかっているな?」

「え?」

「またか!」


 クナッハは早くもこののろまなマウヤを侍者にしたことを悔やみ始めていた。


「いいか。一度しか言わぬからよく聞くのだぞ」

「はい!」

「これから『ためし』と呼ばれる儀式に入る。儀式、とは言うがそう気構えすることはない。たださとへと帰ってまたこちらへ戻ってくれば良いだけだ」


 クナッハの言葉にそうたいそうな儀式ではないのだと、マウヤはあからさまに安堵した。けれどもそれをクナッハは見逃さない。


「親兄弟とは今生の別れになる。次に会うの泉下になるのだぞ。わかっているか?」

「せんか?」

「あの世のことだ」


 マウヤがまたおどろきの声を出したので、クナッハは深いため息をついた。そして同時にマウヤが単にのろまなのではなく、それを利用されてここに来たこともまた、クナッハは看破したのである。


 しかしそのことに同情するほど、クナッハは慈悲深くはない。ただ多少は憐れに思う程度の心は、持ち合わせてはいた。


 だがマウヤの次の言葉にクナッハはまたしてもおどろかされる。


「あの世へ行けばおっとうやおっかあたちに会えるんですか?!」

「え? まあ、お前の二親ふたおややお前自身の行いが悪くなければな」

「そうなんですか!」


 死ねば家族と会えると聞いて喜びの声を出すとは――そうクナッハは心中で嘆息する。周囲の扱いばかりか、その身の上もどうやら恵まれた者ではないらしい。


 どうにもこうにも一筋縄ではいかない侍者のようだと、クナッハは遅まきながら理解した。


「……まあ理解したのならいい。――いいか、必ずここに戻って来るのだぞ」

「いつまでに戻れば良いのですか?」

「期限はないが、お前はもう私の侍者なのだ。なれば出来るだけ早くに戻るのが望ましい」

「わかりました。すぐに戻りますね」

「……素直なのはまあ……良い心がけだ」

「ありがとうございます!」


 こいつは意味をわかっとるのか。そういう目でクナッハはマウヤを見るが、マウヤはただ曇りのない目を向けるばかり。これにはまたため息をつかざるを得ないクナッハであった。


 一方のマウヤは、思ったよりもすんなりとことが進んだことで、その心は重責から半ば解放されかけていた。むしろこれからが本番なのだが、そのことは今までの緊張のせいで頭から抜けてしまっているようだ。


 しかし試練はむしろこのあとにあった。マウヤの人生の中で、間違いなく一番の修羅場である。


「――クナッハ? なにを言っとるのだお前は! わしらが侍者を出しとるのは別の神様じゃ!」


 マウヤはその場で卒倒しそうになったが、へなへなとその場に崩れ落ちたのは、マウヤの報告を聞いた庄屋のほうだった。

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