(3)

 巫女の夫となる者が決まっても、すぐさま式を挙げるわけではない。夫婦の誓いを神前で交わす前に巫女にはやることがあった。そのために今アニェーゼとヴィットーリオは神殿の中庭にいるのであるが、ふたりのあいだを支配しているのは奇妙な沈黙であった。


 だがそれもいつかは終わる。今日はただこうして共に過ごすためだけに顔を合わせたのではない。やることがあってふたりは会っているのだ。


「あの」


 しかし口を開いたのはふたり同時で、またしても静寂がおとずれる。ふたりは顔を見合わせて言葉を探した。遠くでは、のんきな小鳥の鳴き声が空へと響く。


「あの……アニェーゼ様からどうぞ」

「え? えっと……」


 言おう言おうとアニェーゼは思っていたのに、いざ水を向けられるとおたおたとしてしまう。それでもどうにか言葉を搾り出す決心を再び固めた。


「あ、あの! ヴィットーリオ……」

「はい」


 アニェーゼは白いベール越しに彼を見た。昔はこのような薄絹の隔たりはなかったのだが、初潮を迎えると習わしに従って異性の前では顔を隠すようになったのだ。これはこっそりとヴィットーリオの様子をうかがうのにちょうど良かったので、恥ずかしがりやのアニェーゼは恋心を自覚してから大いにこのベールに助けられていた。


 けれども今はどうだろう。アニェーゼはまっすぐにヴィットーリオを見て、彼もまた真摯な視線をアニェーゼに送っている。どこにも逃げ場がない。たとえ、白いベールに隠されていようとも、痛いほどにヴィットーリオの視線を感じて仕方がない。そしてアニェーゼが今彼を見上げていることも、きっと丸わかりだ。


 アニェーゼは恥ずかしさにうつむきたくなった。けれどもそれをぐっと我慢して、アニェーゼよりも頭ふたつぶんは大きなヴィットーリオへと視線を送る。


「その、突然わたしの、お、お、夫……に指名されて、その……その」

「はい」


 上手く言葉に出来ないアニェーゼを急かすことなく、ヴィットーリオは優しい声音で相槌を打つ。その顔がアニェーゼの前でだけは甘くとろけると言うことを彼女は知らない。


「不服の、ことも……あ、あるかもしれないけれどっ」


 言っているうちにまた悲しくなってきたアニェーゼの声に涙の色が混ざり始める。


 真っ向から好きではないだとか、女とは思えないなどと言われてしまったらどうしよう。そんな考えが後ろ向きなアニェーゼの頭の中をめぐって行く。


「いえ、アニェーゼ様の伴侶となる定めを光栄と思えど不服など……」


 戸惑った様子でそう言うヴィットーリオに、アニェーゼは少々安堵した。


 けれど心優しく信仰に篤いヴィットーリオが、神託に意義を申し立てるなどするはずもないことは少し考えればわかることだ。この言葉は恐らく彼の敬虔なる信仰心と、そして巫女である己を慮っての言葉なのだろうとアニェーゼは解釈した。


「……アニェーゼ様こそ私のような男を伴侶として迎えなければならず、戸惑われておられるのでは?」

「いえ……これも神と聖女霊アルトゥリーナの決めた道。それを疑うなどありません……」

「そうでしたね。出すぎた言葉を」

「いえ……」


 結局また沈黙を呼び戻して、さらさらと暑さが混じり始めた初夏の風がふたりのあいだを通り過ぎて行った。


 遠くでふたりを見つめる天使は、馬鹿馬鹿しく思いながらも屋根から彼らを見下ろしている。


「……アニェーゼ様、花を……お決めにならなければ」

「そ、そうですね!」


 潔く本題に入ったヴィットーリオに対し、彼に昨日のことをどう切り出すかばかり考えていたアニェーゼは、己の本来の仕事をやっと思い出した。


 挙式を迎えるまでに、巫女は中庭に花を咲かせなければならない。その花は挙式をもって夫となる男と共に選び、種ないし苗を植える。するとその花の時期がいつであろうと、挙式の日には満開の花を咲かせると言う。それを式の参列者たちに見せることもまた目的のひとつであるが、このときに咲かせた花を今代の巫女とその夫の象徴とする意味もあった。


 いずれにせよ儀式のひとつである。真面目に取り組まなければとアニェーゼは気持ちを切り替えた。


「ヴィットーリオはどんな花が良いですか?」

「私ですか? 私は……いえ、先にアニェーゼ様の意見をお聞きしたいです」


 実のところヴィットーリオのことで頭がいっぱいだったアニェーゼは、なにも考えて来てはいなかった。そうであるから先んじてヴィットーリオの意見を聞こうとしたのだが、彼から聞き返されて無事に撃沈する。


「なにも考えていませんでした」などと言えるはずもなく、アニェーゼは急いで知恵を絞る。けれども良い案は出てこない。バラの花は派手過ぎてなんだか似合わない気がするし、ユリというのもなんだか仰々しい。


「えっと……白い花は、どうでしょう?」


 その末に導き出したのは、具体的な品名は出さないという小手先の策であった。


 けれど幸いにもヴィットーリオはアニェーゼの忙しない胸中には気づかなかったようだ。


「良いですね。……私も、クチナシの花が良いと思っていたので」

「クチナシの?」

「ええ。――以前、アニェーゼ様に頂いた花です」


 アニェーゼの脳裏に、百花祭びゃっかさいの出来事がまざまざと思い出される。


 百花祭は聖王国で春に催される祭りである。日ごろの思いを花に込めて相手に渡すという内容で、家族はもちろん恋人同士のイベントでもあった。その中で贈られる花が様々であることから百花祭と呼ばれる。


 アニェーゼは今年の春、勇気を振り絞ってヴィットーリオに花を贈った。もちろん日ごろの感謝を込めてという体裁であって、間違っても恋心を告げようなどとはまったく考えてはいなかった。


 アニェーゼは初夏に一五を数える。そうなれば夫を決める神託を受けなければならない。そのときにヴィットーリオへの恋心は捨てなければならない。だからその前に彼へ花を贈りたかった。本心を隠したその花を、彼に受け取ってもらいたかった。


 そうしてヴィットーリオに渡したのがクチナシの花だったのだ。神殿で手ずから育てていた植木鉢から花を咲かせた一枝を切り取って贈った。


「綺麗な花ですね」

「うん……クチナシなの。綺麗に咲いたし、匂いも良いからヴィットーリオにあげたくて――あ、匂いが嫌だったら他のにするけど」


 白いベールの内側で、アニェーゼは頬を朱色に染めていた。体がかっかと熱くなって仕方がない。精一杯、恋心ゆえの行動ではないとアピールをするけれども、バレてしまったらどうしようと気が気ではなかった。


 けれどヴィットーリオはクチナシの白い花に顔を近づけてから、柔らかい声で言う。


「いえ、嫌ではありません。甘い、良い香りですね。ありがとうございます」


 ヴィットーリオの言葉に、アニェーゼは泣きそうになった。


 アニェーゼが彼にしてやれることはほとんどない。巫女には年棒など出ないし、そもそも俗世とは切り離されているから、世の恋する人々のように思い人へ贈り物をすることも出来ない。


 百花祭で贈ったクチナシの花。それがきっと最初で最後の贈り物になる。このクチナシの花が枯れるとき、それがヴィットーリオへの恋が終わるときなのだと、アニェーゼは思っていた。


 うれしくて、悲しくて、まなじりに涙があふれたが、しかしぎりぎりのところでアニェーゼは泣かなかった。そのときはヴィットーリオが花を受け取った、その喜びだけを噛み締めようと、そう思ったからだ。


「……覚えてくれてたんだ」

「はい。アニェーゼ様からの贈り物ですから……。そのまま枯らしてしまうのが心苦しく、押し花にしてしおりにしたんです」


 ヴィットーリオの言葉にアニェーゼは少なからずおどろいた。そんな風に自身が贈った花が丁重に扱われているなどとは思いもよらなかったからだ。


 あの恋心を隠した花が今もヴィットーリオの元にあるのかと思うと、アニェーゼは急に心臓が苦しくなった。ぎゅっとつかまれて、気道が圧迫されるような……けれども、嫌ではない。


「押し花に、してくれてたんだ。……ありがとう」


 アニェーゼの口元は自然と緩んだ。それをヴィットーリオは察しているのかいないのか、微笑み返してくれる。アニェーゼはうれしくてうれしくて、仕方がなかった。


 相変わらずヴィットーリオの心はわからない。けれどもせめて、こんなにも優しくしてくれる彼に嫌われないような妻になりたいと、アニェーゼは強く思う。……それが果たして自身に出来ることなのかどうかまでは、わからなかったが。


 だがなにはともあれ、まずは挙式までに苗を植えねばなるまい。女神官長からは神とアルトゥリーナへの感謝と、夫を敬い、そして自らも正しい道を行くという思いを込めて植えよと口を酸っぱくして言われていたことを、アニェーゼは今さらながらに思い出していた。


「えっと……クチナシは低木だから、中庭に敷き詰めるより聖堂を囲むようにしたほうがいいかも」

「私は植物のことは寡聞にして詳しくはありませんので、アニェーゼ様にお任せしたほうが良さそうですね」

「わ、わたしもそんなに詳しいわけじゃないし……。あ、でも、クチナシは育ててるから、ちょっとはわかる、けれども」

「それなら安心ですね。それでは苗を用意してもらって――」


 無事に植える花も決まり、あとはふたりで苗を植え、挙式にまつわる雑事をこなせばあっという間に夫婦となる。――そのときのふたりはそう思って疑っていなかった。

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