(2)

 ヴィットーリオは官舎の食堂にいた。食堂を見渡せば宴会のあとであることが良くわかる。机に酒瓶が並べられ、机やら床には酔いつぶれた騎士の抜け殻が転がっていた。そんな中でヴィットーリオはひとり黙々と宴の後片づけをしている。恐らくはヴィットーリオの婚約を祝っての酒席であろうに、その後片づけを当人がしているのはなんともはやである。


 天使は食堂の上部に設けられた採光窓から中に入る。


「よっ」


 ヴィットーリオのそばまで飛んで行けば、すぐに彼は天使の姿に気づいて片づけの手を止めた。


「天使様。こんな夜中にどちらへ?」

「ああ、お前さんに用があって来たんだよ」

「私に?」


 前髪を上げて後ろに流したヴィットーリオの顔には、隙のない双眸が収まっている。気弱な人間であればその眼光鋭い瞳に射抜かれるだけで怯えきってしまうだろう。そんな彼を臆病なアニェーゼが慕っているというのは、少々不思議な光景かもしれない。


 アニェーゼは神殿に、言ってしまえば閉じ込められているから大変な世間知らずだ。それでも一応、俗世に触れる機会はある。神殿を参拝する信者とのささやかな交流や、神殿付きの騎士との会話から彼女は外の世界のわずかな断片を得ることが出来る。


 アニェーゼも最初からヴィットーリオに惚れていたわけではない。彼は単に神殿付き騎士のひとりというだけであったろうし、貴重な外の話を聞かせてくれる人間に過ぎなかったはずだ。


 それでも神殿と言う世界は狭いし、出会いは限られている。そんな中で迎えた思春期の琴線に触れたのが、たまたま彼であった。言ってしまえばそういうところである。


 先代巫女のように俗世にいた期間がそれなりにあればもう少し、アニェーゼの恋愛対象は広がったのかもしれない。けれども彼女はそんな機会を与えられぬまま神殿に入れられ、おおよそすべての人間が知る自由や享楽を知ることなく成長した。


 狭い彼女の世界において、そうして占めるヴィットーリオの存在は大きい。だからアニェーゼはヴィットーリオに嫌われることを極度に恐れているのである。


 巫女を補佐し、正しき道へと導くために使わされた天使からすると、国家の繁栄のために俗世を犠牲にせねばならないアニェーゼは憐れだと思う。けれどもそれをやめさせることは難しいだろう。神託を受ける巫女の存在は聖王国の精神的支柱を担い、信仰の拠り所となっている。


 だからこそ天使はこの、自己を殺さねばならないアニェーゼの、ささやかな願いを叶えてやりたいと思った。


 生涯の伴侶に焦がれてやまない相手が選ばれるなど、年頃の娘であれば舞い上がって喜ぶだろうに……。そうならないのが、アニェーゼの面倒なところである。


 ヴィットーリオに嫌われてしまうと泣いていたアニェーゼを思い出し、天使はため息をついた。


 だがこれも仕事だと、天使は眼下で不思議そうな顔をしているヴィットーリオを改めて見る。


 容姿は勇壮、体躯は屈強。加えて勤務態度は生真面目そのものだが、部下にそれを強いるわけでもない。あの内気なアニェーゼも懐くくらいであるから、性格も悪くない。巫女の伴侶となるには申し分のない相手と言えた。


 天使はアニェーゼに、「巫女の伴侶には巫女の思い人が選ばれる」と言った。それは嘘ではない。けれども天使が望ましくないと思う相手であれば、決して伴侶には選ばれないということもまた、事実であった。


 たとえば既婚者だとか、犯罪者は論外である。近親者や同性も許されない。インテリ気取りの無神論者もダメだ。他には賭博癖や大酒飲み、怠惰など性格面に問題がある者も除外する。それから外国人も微妙なところである。ただこれは改宗の意思があれば可とする。逆にこれらの条件に引っかからなければ年齢や身分は問わない。


 こうして天使の審査を経て許された男の名が神へと伝えられ、そこから神託が下り巫女の夫が決まる……そういうシステムなのだ。


 そうであるから、実は天使の言葉には嘘はないが、詳細を語ってもいない。今回の場合はヴィットーリオには特に瑕疵がないので、語る必要もなかったのだが。


「ああ、ちょっと聞きたいことがあってな。今いいか?」

「ええ。天使様のお望みとあらば」


 天使は通常だれしも目にできるわけではない。それは天使が姿を隠しているからだ。この国の人間が神との戸を巫女に求めている以上、みだりに天使が姿を現すことは望ましくない。また神に仕える天使がむやみやたらと人の前に姿を見せることもまた、望ましいことではない。


 ではなぜヴィットーリオは天使を以前から見知っているかと言われれば、天使がちょくちょく彼と言葉を交わしているからだ。主に、アニェーゼのことで。


 交わされた内容は様々であるが、なにも気まぐれで天使はそのようなことをしていたわけではない。ひとえにその接触は、今日の伴侶を決める神託のための下準備の意味を多分に含んでいた。


 巫女の夫に指名された者がそれを嫌がっては面倒なことになる。だから天使はそれとなくヴィットーリオからアニェーゼの印象を聞き出したり、アニェーゼの良い所を吹き込んだりしていたわけである。これは地道な、涙ぐましい努力であった。


 天使はヴィットーリオを官舎の外へと連れ出す。空には冴え冴えとした三日月が輝いていた。


「それで、お聞きしたいこととは?」

「……単刀直入に聞くぜ。お前、アニェーゼとの結婚についてはどう思ってる?」


 天使のこれまでの心証では手応えがあった。つまり、ヴィットーリオもアニェーゼのことを嫌ってはいないと。


 けれどもさすがに「結婚したいか?」とまでは聞けなかったわけであるから、今まさにその核心に触れた問いかけをした天使は、柄にもなく緊張していた。もし色よい返事が返って来なければ、そこはまた天使があれやこれやそれをしなければならないわけで……。


 ヴィットーリオはしばし沈黙し、その顔の裏で熟考しているようであった。


 しかしそれも終わると、いつもの真面目くさった調子で口を開く。


「神意に不服などありません。しかし、突然私のような人間を夫にせよと定められたアニェーゼ様は不憫ではないかと……」


 それは不服があるのと同じではないのかと天使は思った。


 しかし天使が予測していた通り、アニェーゼへの印象は悪くないようだ。ただ、ヴィットーリオに遠慮の心があるのはいけない。


「ああん? 別にいいじゃねえか、お前さんでよお。職に就いてて勤務態度も真面目で、上司の覚えもめでたいんだから」

「しかし……私は面白味のない人間です。女性を楽しませるような話のひとつも出来ない、剣を振るうしか取り柄のない男です。それに、年が離れていますから、アニェーゼ様からすれば私は立派なおじさんでしょう」

「ああいう娘っこには年上の男は頼り甲斐があるように映るもんだ」

「そうでしょうか」


 天使は煮え切らないヴィットーリオの態度にいらいらして来た。天使はあまり気の長いほうではないのだ。


 いい加減バシッと決めてやるかと口を開きかけたとき、ヴィットーリオはつぶやくように言う。


「アニェーゼ様は……神託であるからと、私と嫌々結婚するのではないでしょうか」


 ヴィットーリオの言葉に、天使はちょっと怒りを散らせて冷静になった。


「なんだよ、お前さんアニェーゼのことが好きなんじゃないか」


 天使がそう言うとヴィットーリオはあわてたように目を泳がせた。


「いえ、私がアニェーゼ様にそのようなふしだらな感情は……」

「正直に言ってみろって。アニェーゼには言わないでやるからよ」

「ですからそのようなことは……」

「……なあヴィットーリオや。俺も心配してんだぜ? アニェーゼのことは奴が赤ん坊のころから見て来たからな。だからそいつの夫となる男がやつのことをどう思ってるのか……正直なところが知りたいわけよ」


 ヴィットーリオはまたしばし考え込む。


 しかし次のその口から発せられた言葉に、天使は砂を吐きそうになった。


「アニェーゼ様に初めてお目通りしたとき……彼女はまだ七つにおなりになったばかりでした。けれどもすでに巫女としてはご立派であらせられました。私のような下々の人間にも大変お優しく、驕ったところのない白百合のような純粋さをお持ちの方でした。幼きみぎりは天真爛漫に振る舞われており、私はそれを見て心なごやかになったものです。けれども年を重ねるにつれアニェーゼ様はいつしか静かに咲くスミレのような女性かたになられました。貞淑に楚々とした振る舞いに加え、ベールでそのかんばせを覆われても、匂い出る美しさまでは隠せません。心身ともに美しくあらせられるあのお方の伴侶となることは、大変名誉なことでありましょう。けれども私にその大役が務まるかどうか……。その前に神意とはいえ、アニェーゼ様の御心とは別に定められた夫のことを彼女がどう思っておられるのか……。明日にも改めて顔を合わせる場が設けられると聞きましたが、どんな顔をして会えば良いのか、どのような言葉をおかけすれば良いのか、私にはわかりません……」

「お、おう……」


「お、おう」ではないのだが、天使にはそう言うほかなかった。


 ヴィットーリオの言い分を要約すると「アニェーゼのことは好ましく思っているけど彼女が自分のことをどう思っているかわからないので結婚を手放しに喜べない」といったところである。


 なんのことはない、ふたりは両思いだったわけである。


 天使は呆れた。それはもう、呆れ返った。


 ヴィットーリオの言葉から察するに、どうも天使のせせこましい工作は無意味だったようである。なぜならヴィットーリオは、天使がそんなことをせずともアニェーゼを慕う心を育てていたのだから。


 天使は脱力した。


「……別にいつも通りでいいんじゃねえの」

「いえ、しかし万が一にもアニェーゼ様がお嫌がりになられたらと思うと……いえ、お優しいアニェーゼ様がそのようなことをすると思っているわけではありませんが……」

「はあ……アニェーゼもそう言って泣いてたぜ。お前が結婚を嫌がるんじゃないかってな」

「それは……私との結婚を嘆いてお泣きになられたのでは?」


 天使は段々嫌になって来た。この至極面倒くさい天使という役目を放り投げたくなった。


 しかしこれは天使が課せられた定め。この務めを歯を食いしばって果たすほか道はないのである。


「ちげえよ。お前に嫌われる嫌われるってぴーぴーうるせえのなんの。明日もそんな調子だろうからあとはお前に任せた。いっちょ慰めて男を見せてやれよ」


 そう言う天使の目は半ば死んでいたが、ヴィットーリオは気づかない。天使からの言葉を消化するので精一杯のようだ。


「……じゃあ俺はもう帰るから」

「え? ええ、それではお気をつけて」


 星が瞬く紫紺の空へと再び飛び立った天使は、また深いため息をついて神殿へと戻るのであった。

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