梔子の花、ひらくころ

やなぎ怜

(1)

「そんなの聞いてない!」


 アニェーゼの悲鳴にも似た声がアーチ天井まで響き渡る。初夏のまだ穏やかな日差しが降り注ぐ白亜の回廊で少女は立ちつくす。回廊と同じ眩しいまでの白衣びゃくえに金刺繍が施された、清潔さと清廉さの顕現のごとき細いドレスを身にまとったアニェーゼは、中空に浮かぶ天使を見やる。白いベールの下で、アニェーゼの新緑の葉をそのまま映し取ったような瞳は、絶望と痛苦に歪んでいた。


「そりゃ、言ってねえもんな」


 幼子のような愛らしい肢体と容姿に金の巻き毛が美しい天使は、その可憐な外見に反した粗暴な口調で答える。ふてぶてしくも見ゆる態度で言ってのけた天使を、アニェーゼはベール越しにねめつけた。


 けれど天使はどこ吹く風。良からぬことを企む顔でアニェーゼの顔を覗き込むように近づく。


「いいじゃねえかアニェーゼ。お前、ヴィットーリオの野郎が好きなんだろう?」

「――だから、問題なのよ!」


 からかうような天使の言葉にアニェーゼは一瞬にして頬を朱色に染めた。けれどもそれで引っ込むわけにはいかない。なぜ、こんなことになってしまったのか、天使から聞き出さねばならないのだ。


 アニェーゼはこの神殿の巫女である。神託を得るための依代として、物心がついたころから神殿の奥で厳しい戒律のもと育てられた。


 アニェーゼにとって親に等しい存在であるのは、この神殿の女神官長や年かさの女神官たちである。しかしそんな彼女の本当の親はこの聖王国の今代王とその后であった。本来であればアニェーゼは王女としてなに不自由なく暮らせていただろう。そうならなかったのはアニェーゼが生まれる三年前に先代の巫女が天寿を全うし、新たな巫女を迎える必要があったからだ。


 この先代巫女もまた王族の出自であり、アニェーゼの大伯母に当たる人物であった。建国の祖・聖女霊アルトゥリーナと彼女が信仰していた神を祀るこの神殿の巫女は、アルトゥリーナの血を引く王族の女性の中から選ばれる。そして慣習として巫女として神殿へ入るのは長女と決まっていた。よって今代王の第一王女として生を受けたアニェーゼは、父と母の顔も知らぬうちに神殿へと預けられたのである。


 神殿の巫女は、原則として生きているあいだは神殿から出ることを許されない。


 日の出と共に起床し、凍えるような冬の朝であろうと水で身を清め祈りを捧げる。食事は堅パンにエール、豆類や根菜のスープ、たまに若鶏の処女肉を口にする以外の贅沢はない。あとはひたすら祈りを捧げ、聖典を紙に書き写し巫女の日は過ぎて行く。俗世を知る人間からすれば、その退屈さは地獄にも等しいであろう。


 しかしアニェーゼは生まれたときからそのような生活を送っているため、それを苦痛と思ったことはなかった。


 外の世界はたしかに気になる。けれども巫女は外に出てはいけない。そういう決まりなのだ。


 しかしどれだけ俗世から離れようとも、アニェーゼは人間である。そうであるから外の少女らと変わりなく、ごく自然な流れとして彼女は恋を覚えた。


 相手は神殿付きの騎士、ヴィットーリオ。アニェーゼよりひと回り以上年上の男である。


 よく鍛え上げられた立派な体躯に、精悍な顔つき。加えて眼光も鋭く言葉数も少ないので、ヴィットーリオは誤解されがちだ。けれども彼が心優しい人間であることをアニェーゼは知っている。いや、アニェーゼ以外も――彼の部下も生真面目かつ禁欲的ながらも、下の者には鷹揚な彼を慕っていた。


 アニェーゼのつたない話に、ヴィットーリオはいつだって嫌な顔ひとつせず優しくうなずいてくれる。それは仕事だからかもしれない。だけどアニェーゼはそれでも良かった。どうせ叶わぬ恋なのだから、せめて束の間の夢を見ていたい。……そう思っていた。


 神殿の巫女が処女であることを望まれるのは、ある一定の年齢までである。一五を迎えた巫女は聖女霊アルトゥリーナにならい、神託によって夫を迎えなければならない。これは当時小豪族の娘に過ぎなかったアルトゥリーナが、神託を得て伴侶とした戦士と共に圧政を敷く悪王を倒し、聖王国の起源となった歴史に基づいている。


 よって巫女の結婚とは、アルトゥリーナの逸話をなぞることで国家の繁栄を願う、一種の儀式であった。


 そして今日はアニェーゼの一五の誕生日。神託を得て夫を決める日でもあった。


 通常の神託は神殿の奥にある特別にあつらえさせた祭壇の前で行う。そこは日の光も入らず、神託を聞くのは巫女であるアニェーゼと女神官長、そして選ばれた一部の女神官だけである。


 しかし今回は違った。神殿の中心部に建てられたアルトゥリーナを祀る聖堂で行う上、見届け人として今代王とその后、そして一部の貴族たちも列席しての大がかりなものであった。


 そして神託を得たアニェーゼは夫となる者の名を口にした。口にしてからおどろいた。なぜならその名は――アニェーゼが懸想する相手、ヴィットーリオだったのだから。


 聖堂の片隅に控えた彼が、わずかに目を見開きアニェーゼを凝視しているのが彼女にはわかった。だから、それ以降はヴィットーリオを見ていられなくて、夫が決まったことを喜ぶ父王や貴族たちの声を、アニェーゼはどこか遠くで聞きながら聖堂を出たのである。


「――どうしてヴィットーリオなの?」


 今にも泣き出しそうな声でアニェーゼはつぶやく。


 この恋が叶うとは思っていなかったし、叶えるつもりもなかった。ヴィットーリオにとってアニェーゼは単なる警護対象であり、ひと回り以上年下の、彼からすればやせっぽちの小娘だ。そんな自分を妻に迎えなければならないなんて、ヴィットーリオはきっと怒るに違いない。アニェーゼはその恐怖に震えた。


 そしてそんなアニェーゼを至極面倒くさそうな顔で天使は見る。


「なんでって、そういう決まりだからな」

「……どういうこと?」

「巫女の夫は巫女が懸想をしている相手になる。俗世を捨てなければならない巫女への、ご褒美みたいなもんなんだよ」


 天使の言葉に、アニェーゼは衝撃を受けた。なればヴィットーリオの名がアニェーゼの口から夫として挙げられたのは必然で――彼にこの断りようのない結婚を強いてしまったのは、すべて己の責任なのだと。己が恋慕の情を抱いていたがゆえに、彼の未来を縛りつけてしまったのだと。


 アニェーゼは絶望した。


 ――そして場面は冒頭に戻る。


「そんな……そんなの……ねえ、取り消せないの?」

「アホか。取り消せるわきゃねーだろ。あんだけの見届け人がいたんだぜ? それになんで取り消さなきゃなんねえんだよ。お前、ヴィットーリオの野郎のことが好きなんだろう。なら、いいじゃねえか」

「そんな……」


 しまいにはしゃくり上げて泣き出してしまったアニェーゼを見て、天使は深いため息をつく。天使からすればヴィットーリオはアニェーゼには甘い。なのだからそこにつけ込んで押せばいいのにと常々思っていたが、この自分に自信が持てない一五の少女はそんなことをまったく考えつかないようであった。


 今回のことにしても能天気に好きな人と結ばれるのだと浮かれていれば良いというのに、この始末である。天使は頭を抱えるよりほかなかった。


「泣くなよアニェーゼ。顔がブサイクになるぜ?」

「ううっ、ひっ……うぅ」

「お前の大伯母だってそうやって結婚したんだぜ?」

「お、お、大伯母さまはあ、もと、もとから、両思い、だった、もん……わ、わたしは、ちがう、からあ」


 アニェーゼの大伯母にあたる先代巫女も、当然ながら一五のときに神託を得て夫を迎えた。相手はまだ大伯母が王女であったころの婚約者である。一三のときに神殿へと送られた大伯母と彼は一度婚約を解消したものの、二年後には神託によって婚姻する運びとなったのであった。


 このふたりは婚約していたときから非常に仲睦まじく、先代巫女の逝去に伴い次代の巫女に指名された大伯母は、婚約者と引き裂かれることを憂い、自殺するしないの大騒動まで引き起こしたというのは、アニェーゼも聞かされていた。


 大伯母と大伯父は最初から心を通じ合わせていた。けれど、アニェーゼとヴィットーリオは違う。単なる仕事上の付き合いしかない関係で、そして恋しく思うのはアニェーゼばかりなのである。


 神託に選ばれたからには、ヴィットーリオは未婚である。けれど、恋人がいるかどうかまではアニェーゼは知らない。もしいたとすればアニェーゼはそれを引き裂いてしまうことになる。


 仮にいなかったからとて、それでアニェーゼとの結婚に納得するかは別の問題だ。彼にだって女性の好みはあるだろうし、なんだったらアニェーゼがそうであるようにどこぞのどなたかに懸想している可能性もあった。


 だがそれはいずれも叶わない。アニェーゼがすべて御破算にしてしまうのだ。


 結局その日、アニェーゼは枕を濡らして眠りに就いた。一度悪い妄想に取りつかれてしまうと、それでいっぱいになってしまうのは彼女の悪いくせであった。天使はそんなアニェーゼの様子を見て、深いため息をつく。


「ったく仕方ねえなあ……」


 そう言って肩をすくめたあと、天使は臥所の窓辺から夜空へと飛び立った。

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