(7)

 自身が透明人間のようになってしまったと知ったとき、碧はまず先に王宮から逃げ出すことを考えた。けれども姿が見えないのではまっとうに働くことなどできないことに気づく。そもそも社会福祉の発達の程度がまったく未知数のこの国で、右脚を引きずる己を雇ってくれる人間がいるのかどうかも、はなはだ疑問であった。


 それでも王宮の正面扉まで来たが、しばらく待ってもこの扉が開くことはなく、碧はひとまずあきらめて離宮に戻ることにする。


 離宮への帰路に就きながら、碧は敗北感でいっぱいだった。結局、自分は思い切ったことなどなにひとつできない、臆病な人間だと思い知らされた気分であった。姿が見えていようといまいと、今の碧はだれかの働きの上にあぐらをかいていることしか出来ないのだ。


 それが嫌ならば王宮を飛び出せばいいということは、碧にも理解できる。けれどいざそれを実行に移そうとすると、足がすくんだ。外の世界には碧の想像を絶する世界が広がっている。法を、人権を、平気でふみにじる奴隷商人がいて、同じ人間を金で買い喉を焼く貴族がいる。外の世界は、今の碧にとって恐怖の対象だった。


 けれどもこの王宮が安全であるかと問われれば、是とは言えないのも事実である。


 なにせ碧は「月の使い」を騙っているのだ。


 恥ずかしげもなくジャハーンギルに裏切られたと思ってしまった碧であったが、彼女もまたジャハーンギルに真実を告げなかった。そういった点で碧はジャハーンギルを責める権利はないと理解したし、また「月の使い」の名を騙り続ける限り、あの奴隷商人やモルテザーと同じ人種であることも同然であった。


 ひとり離宮の居室へと舞い戻った碧は、寝台に腰かける。ファフリが用意したのであろう、陽光の温かさを吸いこんだクッションを抱えて、寝台に背を預けた。


 その心は、自己嫌悪でいっぱいだった。


 王宮から出て行くべきだと考える自分と、王宮から出て行けない自分。


 ジャハーンギルに裏切られたと感じる自分と、ジャハーンギルを騙している自分。


 感情は絡まり合い、ぐちゃぐちゃになって、碧の心と共に深く深く沈んで行く。


 碧は、とことん自分が嫌になった。



 居室の扉が開く音に、碧は飛び起きる。寝室の扉から顔を出せば、居間にはファフリがいた。


「――ファフリ」


 碧は思わずファフリに声をかけたが、彼女は振り返らない。


「ファフリ、わたしの、声、聞こえないの……?」


 思わず身を乗り出せば、寝室に繋がる扉のちょうつがいが耳障りな音を立てた。するとその音に釣られてか、ファフリが碧のいるほうへと振り返る。


「あら? 扉が……」

「あ、ファフリ……」

「風かしら? でも窓は閉めていたはずよねえ……?」


 ――姿が見えないだけじゃないんだ。声も、聞こえないんだ。


 そのことを悟った碧は、なんとなく扉から身を引いた。ファフリは首をかしげながら寝室の中を覗き込み、いずれの窓も開いていないことを確認するや、また首をひねって扉を閉じた。


 ひとり寝室に残された碧は、新たに判明した事実に呆然と立ち尽くす。


 世界にたったひとり、残されてしまったような思いであった。


 もう一度、寝台に腰を下ろす。そうやってじっとみじろぎもせず思考を巡らせているうち、碧はなにもかもが馬鹿馬鹿しくなった。


 理不尽にも両親を奪われて、頼れると思った伯父に裏切られて、わけのわからない世界に来て、右脚を折られて不具にされ、他人の愚かな功名心のために喉を焼かれ、声を奪われた。


 すべてが馬鹿らしかった。


 なんで自分がこんな目に遭わなければならないのか。なんで意に反して連れて来られた世界で、始終怯えながら暮らさなければならないのか。


 すべてが馬鹿馬鹿しく思えて、碧はひとり、焼かれた喉からいびつな嘲笑をこぼす。


 ――もう、どうでもいいや。


 碧は決めた。いっそ開き直ってしまおうと、決めた。



 次の日から碧は王宮を自由気ままに歩くことにした。といっても長く歩くと曲がったままの右脚が痛むため、休み休みの移動ではあったが……。


 大厨房を覗いたり、衛兵らの教練場を眺めたり、女官たちの控えの間に入り込んで世間話を盗み聞きしたり、自由気ままに碧は振る舞い、過ごした。


 そうして動き回っていれば当然腹が空く。大厨房の場所は把握していたが、ここから失敬することはあきらめた。食材を持っていけばそれを管理する立場にある人間が、出来合いの料理に手を出せば、料理人が罰されるのではないか、と考えたからである。そして碧は悩んだ末に広大な庭園に生えていた、つるりとした大きな黄色い果実に手をつけることにした。


 ひとくち食べて妙な味がしたら吐き出そうと思いつつ、そこらの石で分厚い皮を割る。黄色い皮の下には白い綿のようなものに包まれた、朱色の果肉が姿を現す。見た目はグレープフルーツに似ているが、果実は碧の手のひらよりもずいぶんと大きい。しかし可食部は見た目よりも多くはない。


 いささか格闘して果肉の部分を取り出す。ひとふさ千切り、その先端を噛み切る。かすかな甘味とかなりの酸味を持って、果肉は碧の舌に染み渡る。少々苦味があったが、嫌な感じではない。


 これで当たればそれまでと思いつつ、他に食べるものも見当たらなかったので、碧は朱色の果肉をぺろりと食べつくした。


「あ……」


 花壇を区切るレンガに腰かけていた碧は、茂みに白い毛並みにオッドアイの瞳を持つメスネコ――アルマガーンを見つける。


 碧はふと人間には自分の姿は見えないし、声も聞こえないが、それ以外の動物ならどうなのだろうと思った。


 右足を引きずり、茂みに近づこうとするとすぐにアルマガーンは碧のほうへと振り返った。どうやらアルマガーンは碧を感知することができるらしい。となればどうもこの不可思議な現象は人間限定のものであるようだ。


 しゃがれ声ではおどろくかと思い、碧は飛び石の上に座り込んでこいこいと手招きをする。人懐こいアルマガーンはすぐに碧へと歩み寄るや、ごろごろと喉を鳴らして胸元を碧の手にすりつけた。


 碧はしばらくアルマガーンの見事な毛並みを堪能する。頭の後ろや首元を撫でているうちに、アルマガーンは地面に体を横たえて目を細めた。


「アルマガーン?」


 よく通る低い男の声がアルマガーンの名を呼んだ。碧の背後からかかったその声に、碧は思わず大げさに肩を揺らしてしまった。完全な不意打ちだ。アルマガーンを撫でるのに夢中になりすぎていた。


 あわてて振り向けば渡り廊下からこちらを不思議そうに眺める顎鬚の男と目が合う。否、目が合ったと感じたのは碧だけであった。屈強な体躯の青年は、碧が最初に出会った「王」で、昨日謁見の間でジャハーンギルの脇に控えていたナームヴァルに相違なかった。


 ナームヴァルは碧が見たときのような引き締まった険しい顔ではなく、適度に力の抜けた不思議そうな面持ちで周囲を見やる。


「なにを喉を鳴らしておるのだ? 人懐こいとは思っていたが、とうとう風にでも懐いたか」


 アルマガーンの耳がぴくりと動いてナームヴァルのほうを向く。それでも彼女はよほど碧の手が気に入ったのか、あるいは手が動かなくなったことが不満なのか、ナアンと鳴いて前脚の肉球で碧の手を何度か撫でる。


 ナームヴァルは、碧が思っているよりもずっと察しが良かった。


「――なにかいるのか?」


 一瞬にして剣呑な色を帯びた目で、ナームヴァルは中庭を見回す。けれども鋭い彼の眼光は、何者も捉えることが出来なかった。


 碧はと言えば不穏当な空気をまとい出したナームヴァルが剣を佩いていることに気づき、固まってしまう。現代日本で生きてきた碧にとって、それは恐怖を抱くにはじゅうぶんな大きさの凶器であった。


「……『月の使い』……様、か?」


 一歩、ナームヴァルの足がアルマガーンと碧へと近づく。碧は身の危険を感じて地面に手を突いてよろよろと腰を上げた。右脚を引きずる碧が逃げる速度など、常人の速歩よりも遅かったが、彼女の姿も、立てる音も感知することの出来ないナームヴァルから逃げるのは簡単なことであった。


 ナームヴァルから逃げたあとで、碧はどうしようと考える。一通り気晴らしに遊んだことで、揺り戻すように現実感が戻って来たのだ。


 ずっと、透明人間のまま過ごすわけにもいかないことは最初からわかっていたが、どうすれば元に戻るのかがわからない。


 よく透明人間になったら……などという妄想は定番であるが、実際になってみるとなかなかに困ることがわかった。社会常識や良心を捨てればこの状況は楽しめるものなのかもしれないが、小心者な碧にはそのようなことは出来そうにない。


 右脚を引きずりながら、碧は気がつけば見慣れない場所に迷い込んでいた。どうも、王宮の北側に位置する書物庫のようである。


 どうにも気が滅入って仕方がないので本でも読もうかと碧は書棚の陰に飛び込んだ。


 ――そうだ、伝承とか伝説を集めた本とかないかな。


 もしかしたら、その中に自分と同じようなひとの話が載っているかもしれない。そう思って碧は背表紙を順繰りに眺めて行く。そこに、元の場所へ帰れるすべが書かれているとは思っていなかった。けれども自らと同じ境遇のひとがいたのだと、ひとときの慰めになるようなものが欲しかった。


 しかし碧の期待に反して、「伝承・民話」の文字が刻印されたプレートが掲げられた区画には、そのような書物は一冊としてなかった。あるのは「月の使い」について書かれたものばかりである。


 中身は平民の戦士と「月の使い」とのロマンスを描いた通俗小説や、「月の使い」から聞き取った内容をまとめたもの。歴代の「月の使い」の伝記に、「月の使い」を取り巻く人々の私的な文書や日記をまとめた研究書など様々である。


 もしかしたら歴代の「月の使い」の中には、碧と同じような別の地から迷い込んだ人間がいるのではと目を通して見たものの、やはりまったくの期待はずれに終わった。


 著者たちは「月の使い」がどこから来たのかについて興味はないらしい。あるいは、「月の使い」と称されるくらいであるから、月から来たというのが暗黙の了解となっているのだろうか。


 写真技術もないらしく、残っているのはややデフォルメされた絵姿くらいであったから、それが碧の知るコーカソイドに近いのかは判断がつかなかった。


「はあ……」


 碧は大きくため息をつき、書物を棚に戻す。収穫はこの国の人間は「月の使い」がたいそう好きだというのがわかったくらいである。となればそれを騙っているのがバレたときこそ、命運の尽きるときになりそうだと碧は知らず身を震わせた。


 そろそろ離宮に帰ろうかときびすを返したとき、本棚を挟んだ向こう側にひとがやって来たのが見えた。


「――算段はついているのだろうな?」

「ああ。『王者の毒』を女官に渡すつもりだ」


 穏当でない会話の内容に、碧は足を止めた。が、しかしすぐに精一杯歩みを速めて本棚の向こう側に回る。中年の男がふたり、顔を合わせていた。謁見の間では見たことがなかったが、召し物を見るに小間使いの類ではないことは明らかであった。


 碧は自身が見えないとは理解していても、思わず本棚の陰に隠れた。そしてそこから注意深くふたりの男を観察する。


 片方は、白髪混じりの男である。左の頬骨の近くに大きなほくろがあった。着ている服にはカブのような植物が刺繍されている。


 もう片方は、先ほどの男より少し若く見える。三〇代くらいであろうか。細い垂れ目と鷲鼻が特徴的である。彼は白い外套を羽織り黒い服を着て、深い緑色の腰帯をしていた。その腰には剣を佩いている。


 碧は食い入るように男たちの顔を見る。その顔を覚えておいたほうがいいと、直感が告げていた。


 ――「王者の毒」ってなんだろう? 毒って言ってるんだから、毒だよね……? だれかを……殺す、つもり?


 男たちが毒殺する算段をしているのだと気づいた碧は、背筋がぞっと冷たくなるのを感じた。碧の目の前で、彼らはだれかに殺意を向けようとしている。――碧に見られているとも知らず。


 そして鷲鼻の男が口にした言葉に、碧は今度こそ臓腑まで凍りついた。


「あの憎き小僧王がのた打ち回って死ぬのを想像すると、胸がすく思いですなあ」


 男たちから低い笑いがこぼれる。


 碧の背を、冷たい汗が伝った。

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