(6)

 いつになく、すっきりとした気分で碧は目覚めた。昨日、散々ダリュシュの前で泣いたせいかもしれないと思いながら身を起こす。気分だけではなく、体も軽い。


「ようやく熱が下がりましたね」


 ファフリの言葉を聞き、碧はまた呆気に取られる。このとき脳裏をよぎったのは昨日のダリュシュの言葉だ。


「けれど、このままではマハスティの体も良くならないよ。浮世を呪う力が貴女の体をも蝕んでいるんだ」


 そんな馬鹿な、と碧は思う。呪いを解くには碧が自覚しなければならないともダリュシュは言った。そして今日のこの出来事。


 ――そんなはずない。わたしはただの人間だもの。「月の使い」なんかじゃない……。


 碧がそんな思いに囚われているあいだにも、ファフリはうきうきとした様子で碧の床上げの段取りをつけ始めた。


「……迷惑、かけて、ごめんね」

「いえいえ! そんなことをおっしゃらずに……。熱が下がってようございました。ファフリもこれでひと安心です」


 窓から見える庭へと目をやれば、碧が知らぬ花が咲いている。


 およそ一ヶ月ぶりの王への謁見が、すぐそこまで迫っていた。



 華美が過ぎずとも美しく飾り立てられた謁見の間で、碧は白いベールを被り膝を折り、こうべを垂れていた。荘厳なる間に近衛兵の朗々たる声が響くや、木のサンダルが大理石の床を踏む音が天井に響く。


 やがて足音が止まるや、段上から厳かな声がかかった。


「顔を上げよ、マハスティ」


 芯の通った良く響く声。冷たい音を持ちながらもどこか、非情になりきれないそんな声色が、碧の耳朶を打つ。


 その声を、碧は良く知っていた。


 ゆっくりと顔を上げる。白いベール越しに玉座のシルエットが濃い藍色の瞳に映る。


「……顔を見せよ」


 震える指先でベールの裾をつかむ。ゆっくりと顔を覆うベールを頭のうしろへとやる。碧の顔が、王の前に晒される。


 このときの碧の思考は別のところへ行っていた。目の前の光景を信じ難く、頭の片隅で膝を折った状態では右脚が痛いと、そんなことを考えていた。


 碧の視線の先には、堂々たる様態で玉座に座す青年がいた。鍛え上げられた体躯を白い衣服に包み、真紅の外套を肩からかけている。年恰好の割には幼いと思っていた顔つきは、冷ややかなまでに引きしめられて、このときばかりは碧よりも年上なのだと、直感的に理解できた。


 碧の夜空のような瞳に、ダリュシュが映る。


 いつもの軽薄さも、気やすさもない、施政者の顔をしたダリュシュが――いや、陽の国メフラーヤールの王が碧を見下ろしていた。


「わざわざ宮へと呼びつけてすまなんだ。しかしそなたの離宮へとおとなうわけにもいかず、このような形となったが、どうか寛恕願いたい」


 王の言葉が碧の耳を打つ。よく見知った人間の、聞き慣れない声が、碧の心をざわめかせた。


「そして我が臣下の不道を陳謝する」


 碧は王の言葉をひとつひとつ舌で転がすように飲み込もうとした。けれどもそれは上手く行ったとは言い難く、王の厳かな言葉が碧の脳を上滑りして行った。


 その場で凍りついたように碧はみじろぎひとつせず、王を見つめ、王の言葉に耳を傾ける。


 始め、碧とモルテザーが謁見したときに玉座に座っていた顎鬚の男は、王と共に入場し、今は玉座の脇に控えている。碧にとっては遠い過去の時代やフィクションの中の存在ではあるが、恐らくあの顎鬚の男は王の影武者というものに違いない。


 そういう、世界に来てしまったのだなと、碧の頭は他人事のように謁見の間を俯瞰する。


「マハスティよ、その心は未だ癒えぬことと思う。我が国は、そなたが心安らぎ暮らせるよう手厚く遇することを神に誓って約束する。――それ以外に、そなたの心を煩わせることはないか?」


 碧はダリュシュの名を呼びたかった。けれども一五年生きて来た記憶が、そして培われて来た礼節と理性が、そのような無鉄砲な行いを諌める。


 碧は、指の先から血が冷えて行くような感覚に襲われていた。それはゆっくりと手のひらに広がり、腕を上り、そのうちに碧の心臓を止めてしまいそうな、そんな冷たさだった。


 体の震えが止まらない。


 右脚が痛い。


「――あの……陛下。発言、しても、よろしい、でしょうか……?」


 碧はひきつり、震える声でそれだけ言うことが出来た。周囲に控えていた近衛兵や侍従といった衆人が、碧の声を聞いて一瞬ぎょっとしたのを、碧は肌で感じる。今の彼女の心に、彼らのそんな素直な反応は、少し辛かった。


「発言を許す」

「あり、がとう、ございます……」


 碧はダリュシュを仰ぎみる。その頭上には複雑な細工がなされた王冠が輝いている。彼は王なのだと、碧は奇妙にも改めてそう思った。


 彼は「王の密偵」などではないのだと、そう理解した。


「わたし、は、寡聞にして、陛下の名を存じて、おりません……。不調法、とは存じますが、ぜひ、陛下の名を、おうかがいしたく……」


 どういう言い回しであれば失礼に当たらないのか、碧は頭をめいっぱい絞って、言葉を舌に乗せる。ファフリやダリュシュと話しているときには感じなかった息苦しさが、碧の喉を詰まらせようとしたが、それでも彼女はなんとか体裁の整った言葉を口にすることが出来た。


「――そうであったな」


 ダリュシュはそう言った。すでに知ってるだろうとは、言わなかった。


「我が名はジャハーンギル。この陽の国メフラーヤールの三一代目の王だ」


 ――ジャハーンギル。


 その名を聞いた瞬間、碧の中でなにかが弾けた。


「――うそ、だった、の……?」


 知らず、言葉が唇からこぼれ落ちる。同時に目頭が熱くなり、視界が歪んだ。温い水の膜が張った瞳の中で、ダリュシュの――否、ジャハーンギルの頭上を戴く王冠が、きらきらと輝き、涙の中で乱反射する。


 心臓が痛かった。全身が脈打つように大きな音を立てて、鼓動が繰り返される。


 息が詰まりそうだった。ただれた喉になにかが詰まって、碧を窒息死させるような――そんな錯覚すら抱く。


 碧の夜の空のような、美しい瞳から涙がひとすじ、こぼれ落ちる。それは頬を伝い、顎へと至り、そして白亜の床へと落ちた。


 その瞬間、碧の姿が消えた。


「――な?!」

「消えた?!」

「『月の使い』様が消えたぞ!」


 にわかに周囲は慌ただしくなる。玉座に悠然と座するジャハーンギルも目を見開いたが、すぐさま近衛兵に捜索を命じる。


「人智届かぬ神力によりて消えたのやも知れぬ」


 近衛兵が先ほどまで碧のいた場所まで近づくが、彼女の姿は影も形もない。


「そんな馬鹿な……ひとが一瞬で消えるなど」

「ナームヴァルよ、信じがたいやも知れぬが、これこそがマハスティが『月の使い』であることの証左であろう。……このような形で証明されるとは思わなんだが」


 ジャハーンギルのそばに控えていた顎鬚の男――ナームヴァルは、腰に下げた剣の柄に注意深く手を添えながら、周囲へ視線を走らせる。けれども鷹のような彼の目を持ってしても、この謁見の間から碧の姿を見出すことは叶わなかった。


 一方、碧はと言えば、どこにも行ってなどいなかった。彼女は始めから今の今まで、ずっと白亜の床の上にいた。


 ジャハーンギルに対し自身を棚に上げた発言をして、あてこすりのように泣いてしまって、そんな己を恥じた瞬間、不思議なことに碧の姿はだれにも見えなくなってしまったのだ。


 しばらくは自身の目の前で右往左往する人々を見て、新手の嫌がらせだろうかとすさんだ心で思っていた碧も、じきにそれが演技ではないことを悟った。


 碧が見知らぬ土地の言語を使いこなせるのと同じような、不可思議な力がまたしても働いたようである。


 ――透明人間、みたいなものなのかな?


 あまりに予想外の事態に見舞われたことで、碧は逆に冷静になることが出来た。


 そしてちょっと試してみようと近くをうろうろと見回す近衛兵の背中を押してみる。


「うおっ」

「おい、気をつけろよ」

「すまんすまん」


 近衛兵は一瞬うしろを見やったが、すぐに同僚へと向き直ってどこから捜索するか話し合い始めた。


 ――本当に、見えなくなっちゃってる?


 そう理解はしたものの、そこから先、どうすればいいのやら身の振り方がわからず、碧は呆然と突っ立ったまま、玉座を見上げる。ちょうどジャハーンギルが玉座を立って退場するところだった。影武者のナームヴァルに先導され、ジャハーンギルを挟みそのうしろを宰相のティルダードがついて行く。


 碧とジャハーンギルのあいだには三段の隔たりがある。そこを上ってしまうのは簡単だった。なんなら、ひとつ飛ばしに上ることだってできるだろう。


 けれども今の碧には、その段差は一段も上れそうになかった。


 ジャハーンギルの姿が上段の扉の奥に消えたのを見送るや、碧は右脚を引きずって騒々しい謁見の間から逃げ出した。下段に備えつけられた扉をくぐる碧の背は、だれにも見送られることはなかった。



「――ああ、まさかこんなことになるなんて……」


 執務室の椅子に座り込み、ジャハーンギルが嘆きの声を上げる。そんな乳兄弟を一瞥するや、影武者にして王の警護を担当するナームヴァルはため息をついた。


「深入りするからだ」

「深入り……するつもりはなかったんだよ」

「あとから言っても仕方あるまい?」

「……まあ、そうなんだけれども」


「ああ」とまたジャハーンギルは嘆息する。ナームヴァルはやれやれと言った顔で、処置なしとばかりに目を伏せる。


「――彼女が本当に『月の使い』なのか、探るだけのつもりだったんだ」


 陽の国メフラーヤールの若き王であるジャハーンギルは、即位してから七年かけ奴隷制度の廃止に加え、人身売買を禁じるなど先進的な政策を打ち出した。むろん、奴隷制度の廃止は特権階級から多大な反発を呼んだが、ジャハーンギルの目の黒いうちは奴隷制度が再び布かれることはないだろう。


 特権階級の人間にとって、奴隷を失うということはすなわち、行き届いた便利な生活を奪われることと同義であった。それに最後まで強固に反発し、抵抗していた諸侯のひとりがモルテザーである。


 けれどもそれらは施策され、一部の諸侯と大部分の民衆は若き王を支持した。


 それに伴いモルテザーも大人しくなったかと思いきや、突如として「月の使い」を保護したと申し出たのだから、これは警戒してしかるべきであろう。


 そうして王宮に連れて来られたのが、マハスティという名を与えられた少女であった。


 始めはモルテザーに「月の使い」に仕立てられた、どこぞの孤児かとも思った。けれどもその容姿は間違いなく「月の使い」のものであった。


 ミルクを溶かしたかのような白い肌に、脱色によって作られたのではない生来からの艶やかな白銀の髪。そして夜の空をそのまま閉じ込めたかのような、磨き上げられた宝石にも比肩しうる深い藍色の瞳。それからだれもが息を飲むような、清廉にして蟲惑的な空気をたたえた繊細な美貌。様々な美女を目にして来たジャハーンギルですら、圧倒された。


「あの顔に骨抜きにされたかと思ったぞ」


 からかうようなナームヴァルの言葉にジャハーンギルは頬をかく。あながち、間違っていないのだから困ってしまうのだが、本当に困ってしまったのは碧と言葉を交わすようになってからだ。


「むしろあの性格に腰砕けにされてしまった」

「ほう。聞いてやろう」

「……まず、素直だ。けれど馬鹿じゃない。意外と周囲を見ることが出来る。けれどどうにも純粋さが抜けきらないところがいじらしいんだ。子供が精一杯背伸びしている感じが――」

「ああ、それくらいでいいぞ」

「なぜだ」

「他人の惚気には長く付き合いたくないものだ」


 その時、執務室の扉が開き宰相のティルダードが現れた。その手には古びた書物が収まっている。


「急ぎ侍従たちに書庫を改めさせました」

「どうだった?」

「過去の『月の使い』について述された書物を当たったところ、一三代王の時代の『月の使い』は夫である王の心が自らにないと知るや、王の眼前でたちまちのうちに消え失せてしまった、との記述が見つかりました」


 ティルダードの言葉にジャハーンギルとナームヴァルは顔を見合わせる。


「――それで、その代の『月の使い』はどうなったのだ?」


 王の問いにティルダードは言い淀むこともなく、淡々と返す。


「それきり、行方をくらませてしまわれたそうです」


 ジャハーンギルは頭を抱えた。

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