(5)

「マハスティはどこから来たの?」

「……遠いところ。たぶん、ダリュシュには、行けないところ」


 ダリュシュの問いになんと答えるか迷った末、碧はそうやって言葉を濁した。ダリュシュは納得しているのかしていないのか、ふーんと言って自身のあぐらの上に座るネコの腹を撫でる。


 この日、ダリュシュが持って来たのはネコだった。真っ白な毛並みに黄色と水色のオッドアイが印象的な、赤い紐を首輪代わりにつけた愛らしいメスのネコである。ダリュシュによれば異国の使節団より献上され、今は王宮で放し飼いにされているらしい。


 名をアルマガーンと言うこの白ネコは、大変人懐こく初めて会う碧にも大人しく撫でられていた。だが碧よりもダリュシュに懐いているのは明白で、彼があぐらをかいて絨毯に座るや、あっという間に寝台から飛び降りてしまった。ネコの前では「月の使い」の呼び名も形無しである。


「じゃあ『月の使い』様にも俺たちみたいに家族っているの?」


 なにげないダリュシュの質問に、碧はどきりとした。


 家族。それは碧が喪ってしまったものだ。怒涛の日々を送る中で弔いの心を忘れていたことを、碧は申し訳なく思う。けれど真正面からそのことを考えるのはやはり辛かった。まだ両親がいなくなることなど、考えられない歳だった。


 この悲しみとどう向き合うべきなのか、彼岸の住人となった両親とどう向き合えばいいのか、未だにわからないままだ。


「うん……」


 悩んだ末に碧はそう答える。もはや亡い存在であるということは、言わなくてもいいだろうと隠した。


「へえーそうなんだ。じゃあご両親もマハスティと同じような感じなの?」

「ううん。肌は……この国のひとたちに、比べたら、白いけど、髪は黒いし、目はこげ茶だよ」

「ご両親とは違うんだ」

「わたしのは、お祖母ばあちゃん、ゆずりなの」


 ダリュシュは「ほー」と碧の話に感心しきりだった。するとそれに合わせてアルマガーンが鳴き声を上げたので、碧はくすりと笑みをこぼす。


 ダリュシュとの交わりは鬱屈とした離宮の暮らしに陽を差し入れる。


 けれども、碧は相変わらず寝付いてばかりで、一向に体調が良くなる気配を見せなかった。それでも寝台から上体を起こし、ダリュシュと会話に興じるだけの元気はある。しかし一方で、平熱とは言い難い熱が続いていた。



 いつになく真剣な面持ちのダリュシュがやって来たのは、雲ひとつないある晴れた日のことであった。


 夜の湖のように澄んだダリュシュの黒の瞳に見据えられ、碧は少しだけ身を引いた。


「どう、したの?」

「奴隷商とモルテザー卿が獄に繋がれたよ」


 ひと息に告げられたダリュシュの言葉に、碧は凍りついた。


 ひゅ、と空気が喉を通り、声にならぬ音を立てる。


「――え?」


 心臓の鼓動がこれまでにないほど速くなる。ダリュシュの次の言葉が恐ろしくて、碧は耳をふさいでしまいたくなった。けれども、体は凍えたように震えるばかりで動かない。


 そんな恐慌状態に陥りかけている碧を見て、ダリュシュは緊張をみなぎらせていた顔をにわかに崩す。いつもの、春の日差しのような穏やかな面立ちが戻って来た。けれどもそれが碧を溶かすことはなく、彼女はただ顔を強張らせてダリュシュを見るばかりだ。


「そんな顔しないで。だれもマハスティにひどいことはしない」

「……ほん、と?」

「うん。本当。俺が約束する。……だからそんなに怯えないで? そんな顔されたら、俺困っちゃうよ」


 碧のいる寝台へと近づいたダリュシュは、いつものように絨毯へと腰を下ろした。


「――なにから話すべきかな」


 ダリュシュはそう言って、ことの顛末を話し始める。


 始めは奴隷商の邸宅であった。夜半、中庭に怪火が現れるとの噂が立ち始めるや、にわかに奴隷商の家を不幸が襲った。最初に倒れたのは奴隷商の奥方だ。原因不明の高熱に悩まされ、夫である奴隷商が東奔西走しているうちに彼もまた謎の熱病に罹った。これに続き下働きの人間も餌食となり、ついに残った下男が恐れをなして領主にこれまでの罪咎を打ち明けた次第である。


 そしてほぼ同時期にモルテザーの元でも怪異が起きた。夜な夜な白い女が屋敷の屋根の上に立っているとの噂が領内を駆け巡った。モルテザーは体裁として神官を呼び寄せて祈祷を行ったが、一向に女はいなくならない。


 ついに痺れを切らしたモルテザーが夜中、屋根へ登ったが、なにがあったのか凄まじい悲鳴が上がり、その日から彼は屋敷に引きこもるようになったと言う。それでも相変わらず、謎の白い女はモルテザー邸の屋根の上に現れ続ける。


 とうとう神経衰弱に陥ったモルテザーは宰相ティルダードと接見し、「月の使い」への所業の仔細を懺悔したのであった。


「怖かったよね」


 話し終えてしばしの沈黙が落ちたあと、ダリュシュはそう言った。哀れみをにじませたわけでなく、純粋に碧を気遣う色を帯びたその言葉が、彼女の心に滲みて行く。


 怖かった。


 奴隷商人などという、碧のいた場所からすればまったく非現実的で恐ろしい存在と出会い、そしてたやすく右脚を折られた。


 金で売られて、余計なことを話すと困るという傲慢な理由で生まれ持った声を奪われた。


「月の使い」と偽ることを強要され、自らを欺瞞の中へと打ちやって、いつかバレる日を恐れて生きていた。


「……マハスティ」


 ダリュシュの大きな手が碧の顔へと伸びる。太い指が、碧のまろい頬へとすべり――涙をぬぐった。痛苦の涙ではない。これまで胸のうちに押し込んできた、恐怖への涙が今、碧の瞳からこぼれ落ちているのであった。


 どうなるのかわからない、先が見えない恐ろしさの中へ身ひとつで放り出されて、理不尽に様々なものを奪われた。


 ――怖かった。


 けれどもその感情を訴える相手はいなくて――押し殺すしかなかった。


 きっと世界には碧より恐ろしい目に遭って、それでも声を上げられない人間なんて山ほどいるんだろう。


 けれども恐怖は身に迫る現実で、碧の精神を確実に脅かしていた。きっと、ファフリやダリュシュの存在がなければとうの昔に壊れていた。そう考えれば、碧は幸運と言える。こうやって今、泣くことができるのだから。慰めてくれるひとが、いるのだから。


「大丈夫。もう、大丈夫だから。マハスティを傷つけた人間は、きちんと罰を受けるから」

「……あ」

「だから、今は泣いていいよ」


 碧はこの地に来て、初めて声を上げて泣いた。こんな風に身も世もなく泣き声を上げるのは、いったいいつぶりだろうか。それほどまでに碧の心は追い詰められていた。


 ――もう、だいじょうぶなんだ。


 碧の右脚を折らせた奴隷商人も、碧の喉を焼かせたモルテザーも、もはや碧に手を出すことは出来ない。そう考えると、無意識のうちに体に入れていた力が抜けて行くのを感じた。


 ダリュシュは幼子のように泣き伏す碧の背を、その大きな手でずっと撫でてくれた。優しく背を行き来するその温かさがまたうれしくて、碧のまなじりから涙が流れて行った。


 どれほどそうしていただろうか。溜まりに溜まった感情を発露させたことで、碧は次第に理性を取り戻し始めていた。そして行き着くのは、また己も奴隷商やモルテザーと同じ罪人だという事実だった。


 碧は、「月の使い」などではない。碧は月から来たわけでもないし、月の女神とかに使わされた存在でもない。碧はごくふつうの、人間の女である。だから、そんな自身を「月の使い」と誤認させ続けることは、碧からすると、とんでもない罪であった。


 離宮の維持費や碧の衣食の経費は、恐らくこの国の税から出ているに違いない。鬱屈して己の身の不幸を嘆くばかりで、そんなことにまで気が回らなかったことを碧は恥じた。


 そして、その事実をダリュシュに告げなければならないと感じた。


 このまま黙って「月の使い」として過ごすことはすなわち、奴隷商人やモルテザーと同じ穴の狢であり続けることと同義であったからだ。


「……ダリュシュ、わたし」


 意を決して真実を告げようとした碧の言葉を、意外にもダリュシュはさえぎった。


「モルテザー卿らに言いたいことはあると思う。けれど、彼らは法で裁かれる以外にも天からの罰をすでに受けている。――だからマハスティ。どうか、彼らを赦してやってはくれないだろうか」

「ゆる、す……?」


 ダリュシュの言わんとしていることが飲み込めず、碧は首をかしげる。


 そして一度に様々な情報に晒されたせいで、このときのマハスティはダリュシュの口調がいつもとは変わっていることに気づけなかった。


「天からの罰は、マハスティの赦しがなければ解けない」

「わ、わたしは……わたし、は、『月の使い』じゃ、ない」

「……それはモルテザー卿に言われたのか?」


 ダリュシュはそう言って目を細めた。その黒い瞳が、にわかに剣呑な色を帯びる。


 碧はあわてて首を横に振った。


「ちがう。わたし、ほんとうに『月の使い』、なんかじゃない」

「でもその髪や目は生まれつきのものだよね? 脱色したようには見えない」

「生まれつき、だけど、でも、わたし『月の使い』じゃなくて――」


 何度も否定の言葉を重ねる。けれどもいくら言い募ってもダリュシュは納得しなかった。


 いくら色の濃い人間ばかりと言っても、過去に突然変異などで色素の薄い人間が生まれることがあっただろう。そう言い募っても、そんなことは起こらないとダリュシュは言い切った。


 曰く、


「白い肌に銀の髪と碧の瞳は、夜を生きる月の女神の姿なんだ。そしてその使いも女神の似姿で現れる。だから普通の人間がそのような容姿で生まれてくることはない」


 そうである。


 だから碧は「月の使い」であることに間違いない――というのがダリュシュの主張であった。


 けれども現代日本で教育を受けた碧からすれば、そんな馬鹿な話があるのかというのが正直な感想である。色素の薄い人間が、絶対に生まれないなんてことはありえない。


 けれどももしかしたら――ここはやはり完全な異世界で、碧がいた世界と似ているようで微妙に違うことわりの中にあるのかもしれない。そうであればダリュシュの言うことは間違っていないのかもしれない。けれども今の碧に、それが正しいのかどうかたしかめるすべはない。


「で、も、『月の使い』だとしても、その、天罰とかは、関係ないんじゃ……?」

「いいや、これは『月の使い』の力だよ。マハスティには黙っていたけれど、貴女が離宮に入ってから王宮では怪異な現象に悩まされていてね」

「そうなの?」

「ああ。――そしてこれは、『月の使い』の力のせいだ、と俺たちは気づいた。恐らく苦難に遭ったせいで『月の使い』はこの国の人間を恨んでいるのだろうと、そう思ったんだけどね」


「実際は、もっと根が深かったね」と言いながらダリュシュは頬を掻く。


「ダリュシュは、わたしのせいだと、思ってるの……?」

「ああ、勘違いしないでくれ。マハスティを責めるつもりはない。貴女はただ巻き込まれただけなのだから。――でも」

「でも?」

「この種々の怪異な現象を収められるのは、貴女しかいないんだ。だから、どうか気を鎮めて欲しい。貴女が望むことならなんでもする」


 碧は戸惑った。ダリュシュは完全に碧が「月の使い」だと信じ込んでいる。そしてその力とやらのせいで、奴隷商人とモルテザーの家を不幸が襲い、王宮に怪奇現象が起こったと、そう思っている。


 けれど、そんなことを言われても碧にはどうすることもできない。碧はなんの能力も持たない一五の少女なのだから。


「そんなこと、言われても……」


 素直に困惑を伝えた碧は、続くダリュシュの言葉に絶句した。


「けれど、このままではマハスティの体も良くならないよ。浮世を呪う力が貴女の体をも蝕んでいるんだ」

「――え?」

「自覚していないんだね」


 碧は戸惑いがちにうなずいた。自覚するもなにも――呪い? そのせいで熱がずっと下がらぬままなのかと、碧は思わず自分の体を見やる。あのときからなにも変わりない、貧相で非力な体がそこにはあった。


「マハスティは『月の使い』なんだよ。貴女がそうではないと思っていても、この陽の国メフラーヤールでは、間違いなく貴女は『月の使い』なんだ。……そう、自覚しない限り、この呪いは解けないはずだよ」


 呆然とする碧にダリュシュは優しく微笑みかける。


「……この件で陛下がお会いしたいと言っておられる。ずっと熱があるのはマハスティも辛いでしょう? ――だから、早く治そうね」

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