(4)

 自称密偵の男改めダリュシュは、宣言通りに次の日も碧の離宮をおとなった。ちょうどファフリが出て行くと、ひょっこりと寝室の扉に顔を見せたのである。


 碧は相変わらず床に伏したままであったが、ダリュシュの姿が見えると心が浮き上がるのを感じた。


 暗いところのない、明るく気さくなダリュシュといると、なんだか碧の気も軽くなる。下がらない熱と関節痛に嫌気が差していた碧は、新たな興味を前に少しだけ心を慰められた気持ちになった。


 しかしうしろめたさもある。


 離宮は男子禁制のはずだったし、この招かざる男のことを碧はファフリに告げていない。それは人が好い彼女への裏切りのような気がして、碧の心をちくちくと責めさいなんだ。


 けれども碧は結局、ダリュシュが姿を見せても今度は鈴を鳴らさず、ただ口をつぐんだまま上体を起こして彼を出迎えた。


「じゃん!」


 現れたダリュシュはうれしそうな顔をしてそれを置く。どう見ても、植物の茎である。ちょっとすれば小型の竹にも見ゆるそれに、碧は首をかしげた。


「これサッカラーって言うんだけど、知ってる?」


 むろん、知らないので碧は首を横に振る。


「これさー茎噛むと甘いんだよ。俺、昔これが好きだったんだよねー。最初はお菓子でも持っていこうかなって思ったけど、マハスティ様体調悪いみたいだし……でもこれならいいかなって」


 あまりに予想外の手土産に、碧は呆気に取られた。呆れたのではなく、おどろいたのだ。元いた場所でもこちらに来てからも、このような贈り物は貰ったことがない。けれども素朴が過ぎるその手土産は、いやではなかった。


 あちらで言うサトウキビのようなものだろうか? 寝台の脇にあるテーブルへと広げられた茎を一本、手に取って見る。鼻に近づけてにおいを嗅いでみたが、かすかに植物特有の青くさいにおいがするばかりで、甘い香りはなかった。


 茎を手に取って見て、碧はちょっとわくわくする。小学生のころ、同級生が道端に繁茂したツツジの花の蜜を吸っていたことを思い出したからだ。結局碧はああいう遊びに満ちた行為をする機会に恵まれなかったから、今似たようなものとめぐり合わされて、童心に返るような思いであった。


 サッカラーの茎を持ったまま、じっとそれに視線を落とす碧を見て、ダリュシュもサッカラーを手に取る。やおら茎の先端に歯を立てると、パリパリと小気味良い音がした。


「あ、ちゃんと洗ってるから」


 ダリュシュの言葉に、碧は意を決して茎にかじりついた。――が、しかし予想に反して茎はびくともしない。悪戦苦闘しながら何度も歯を立ててみたが、碧の顎の力ではどうにもサッカラーの茎を割ることは出来なかった。


 そのうちに唾液だらけになって見苦しくなったので、碧は消沈しながら茎から口を離す。するとそのときの碧はあまりにも落ち込んだ顔をしていたからか、ダリュシュが声を抑えた笑いを漏らす。それを聞いて碧は恥ずかしくなり、うつむいてしまった。


「ごめんごめん。馬鹿にしたんじゃなくてさ、なんか可愛かったから……。小動物みたいっていうか」


 笑いながらもダリュシュは碧の手からサッカラーを取り上げるや、どこから出したのか、茎の先端に小刀を滑らせて表面を裂いた。


「はい、どうぞ」


 再びサッカラーを手渡されて、碧は黄味がかった白い内部をのぞかせる茎の先端を見る。


 恐る恐ると唇を近づけて、少しだけ口の中に入れた。舌につるりとした茎の表面が当たる。遠慮がちに吸い上げると、普段口にしていた砂糖とは違う、控えめな甘みが口内に広がった。


 あのとき、花の蜜を吸っていた同級生もこんな気分を味わっていたのだろうか? なんだかちょっとした冒険をしているような気分になり、碧の心がふわふわと高鳴った。


「どう? まあ、おいしいものかと言われるとすごくおいしいものじゃないんだけどさ、なんか面白いよね」


 ダリュシュの言葉に碧は何度かうなずく。たしかにおどろくほど美味なわけではない。だがしかし、なんとはなしに心が浮き立つような気持ちにはなった。


 その後は一方的にダリュシュがしゃべるばかりだったが、今年の畑の調子だとか、家畜が殖えすぎているだとか、新しい井戸を掘ったとか……彼にとっては何気ない話なのだろうが、現代日本の一般的なサラリーマン家庭で育った碧には新鮮な話ばかりだった。


 ダリュシュが碧の離宮に滞在するのは、ほんの一時間にも満たないあいだであった。話すだけ話すや、「じゃあまたね」と軽やかに言い置いて忙しなく部屋をあとにする。侍女のファフリがいつ訪れるかわからないことを考えれば、それは賢い選択と言えた。


 それに短い時間の他愛ないおしゃべりは、碧にとっても気軽で良かった。一時間程度のほうが、かえって気負うことも少なく、また熱のある体にも丁度良い時間であると言えた。


 サッカラーの件といい、ダリュシュの手土産はなかなか碧の微妙な予想の外を突いて来る。


「マハスティ様って以外と庶民派なんだね」


 碧が甘いものがいけるクチだと思ったのか、ダリュシュがこの日持ち込んだのは、下町で買って来たと言う水あめだった。例のサッカラーから絞り出した甘味料を使っているらしく、似たような味がする。あまり馴染みのない菓子を前に、碧はまた好奇心を刺激されたのだが、そんな彼女を見てダリュシュはしみじみと先のことを言ったのである。


 碧は首をかしげて見せたが、周囲の人間の「月の使い」に対する態度を思えば、「月の使い」だと誤認している碧のことも、どこぞの貴人のように思っていても不思議ではない。そうであるから、ダリュシュからそんな言葉が出て来たのだろう。


「いや、もっと高貴な方かと思ってたから……あ、いや、所帯染みてるとかそういう意味じゃなくって。うーん、思ったよりも親しみやすそうっていうか」


 庶民派もなにも、碧は立派な庶民である。だから未だに女官たちの手を借りて大理石の浴場に入るのも慣れないし、怒涛の贈り物の山を見ても気疲れしかしない。恭しくされればされるほど、下にも置かない扱いを受けるほど、碧の気は重くなって行く。


 碧は、「月の使い」などではないのだから。


 碧は、ただのどこにでもいる一五の少女なのだ。


 そう、碧はまだ一五の少女だった。だから彼女の心は、限界に達しようとしていた。


 見知らぬ地へと迷い込み、脚を折られ喉を焼かれ……本当は赤子のように泣きわめいてしまいたかったが、なけなしのプライドが碧にそのようなことをさせなかった。


 だれかにすがりついてひどいことをされたと、子供っぽくわめき立てたかった。けれど発達した理性が、培われた論理的な思考が、そんなことをしても無駄だと言う。


 碧の溜まりに溜まったフラストレーションは爆発寸前だった。


 だれもかれもを疑ってかかるのも辛かった。他人の悪意を常に警戒しているのにも疲れた。生きるために己を偽らなければならないことも、苦痛だった。


 だれかに甘えたい。ぬくもりが欲しい。わずかばかりの交わりを得たい。――碧の心がそう思うのも無理からぬ話だった。それは人間として、当たり前の欲求であるからだ。


 碧はファフリに対してだけはある程度心を許していた。けれども完全に胸の内を曝け出すことは出来なかった。


 そうできなかったのは、なんとなく彼女のまとう空気が母親に似ているせいもある。ダリュシュと違い碧のことを恭しく扱う彼女を前にしては、子供っぽく甘えるのは憚られた。


 そんな中で、ダリュシュの存在は碧の救いとなって行った。


 丁寧な言葉を使いながらも、気やすい態度で接して来る彼の前では、気負うことも少ない。年の頃は碧よりもいくつか上に見えたが、幼くも見える顔立ちと他愛ないしゃべり口も相まって、年上に対する委縮の心を持つことはなかった。


 ダリュシュと共にいる時間を過ごすのは、いつしか碧の毎日の楽しみとなっていた。そして彼の話に耳を傾けているうちに、碧はダリュシュと言葉を交わしてみたいと思うようになったのだ。



「あ、の……」


 いつものように食器を片づけ、湯気が立つ白い茶器を差し出したファフリの前で、碧は声を出した。喉を焼かれて以来、人前で言葉を口にするのはこれが初めてのことだった。


 おどろきに目を丸くするファフリから茶器を受け取った碧は、たどたどしくも、ゆっくりはっきりとした発声を心がけて言葉を紡ぐ。


「ありがとう、ございます……いつも、お世話してくれて」


 年頃の少女にとっては、消え入りたくなるほど恥ずかしい、しゃがれた声であった。けれどもファフリがおどろいていたのはちょっとのあいだだけで、彼女はすぐ喜びの声を上げる。それが、碧にはたまらなくうれしかった。


 碧はその日、ファフリを相手に少しだけ話をした。ファフリは碧にあれこれと聞きたいことがたくさんあったようで、会話は自然と長くなる。けれどもそれはまったく苦痛ではなかった。


 声を出すのは大変だった。喉の肉が、筋肉が引きつり、空気の通る音が混じって上手く言葉にならないこともあった。だけど碧はしゃべることをやめなかった。ファフリも、そんな碧に根気良く付き合ってくれた。


 ファフリが聞いて来たのは日々の生活に不足はないか、ということばかりだった。着る物から食べる物、欲しい物とファフリはあらゆることを聞きたがったが、碧は不便に思ったことはほとんどなかったので、正直にそう伝えた。むしろ仕事と言えどもあれこれと碧の世話を焼き、心を砕いてくれるファフリには感謝しかなかった。


 そしてその日、いつものように顔を見せたダリュシュは、なぜか碧がしゃべれることをすでに聞きつけていた。


「なんで知ってるかって? 簡単さ。俺は密偵だからね」


 そう言ってダリュシュは茶目っ気たっぷりにウィンクする。


「見直した?」


 ダリュシュがおどけて言うものだから、碧は思わず吹き出してしまった。


 ダリュシュが今日持ち込んだのは本だった。「なにがいいかわからなかったから」とそのジャンルは多岐に渡っている。レシピ本から中には流行りの恋愛小説などもあって、本当に端から掻き集めて来たような様相を呈していた。


 碧は本を手に取ると、おもむろにページを開く。こちらの国の文字が読めるのかは未知であったが、それは今日氷解した。目から入って来る情報のうち、これらの文字が見慣れぬものだと判断する一方で、頭の別の部分ではきちんと意味を理解することができた。会話するときといい、なんとも言えぬ気味の悪さがつきまとう。


 けれども言語がわからなければ良かったかと問われれば、答えは否である。原理のわからぬ理解力が備わっていることよりも、相手の意志を汲み取れないことのほうが何倍も恐ろしいに違いない。


 今度は正しく意図する文章が綴れるか試してみたいと碧は思った。会話に識字と問題がなかったことを考えれば、恐らくこれも問題なくこなせるだろうとは予想出来る。


 そんなことを考えている碧の脇では、いつものようにダリュシュが絨毯の上にあぐらをかいて座っている。


「気に入った?」


 実はあまり内容は読み込んでいなかった碧だったが、それを伝えるのは失礼な気がしてあわててうなずいた。


「じゃあさ、お礼に声を聞かせてよ」


 ダリュシュはなんてことないことのように言ったが、その黒い無邪気な瞳は期待に輝いていた。


 碧は逡巡する。ダリュシュと話をしたかった。それはたしかだ。けれども、この声を聞いてどう思うのか、考えると少し怖かった。


 けれども碧は結局、口を開くことを選んだ。ダリュシュと直接言葉を交わしたかった。そしてダリュシュのことを聞くばかりでなく、自分のことを彼に伝えたかった。そのささやかだが、しかし強い欲求が、彼女の背を押す。


「こんな、声だから……」


 がらがらと、しゃがれた声が喉を通りすぎて外へと出る。けれどもダリュシュはそれを笑うことも、おどろくこともしなかった。


「これからは、マハスティ様と話せるんだね」


 そうやってにっこりと笑むダリュシュの顔は春の日差しのように柔らかで、それがなんだか見ていられなくて、碧は思わず目を伏せる。


 だがそんな行動を悟られたくなくて、碧はダリュシュに言葉を返した。


「よ、呼び捨てで、いい」

「え? 呼び捨て?」

「うん」

「でも――」

「わたし、そんな、偉い人じゃないから」


 ダリュシュに本当の名前を言おうとまでは思わなかったし、なぜ自分がこうなってしまったのか、その真実を告げる気にもまだなれなかった。けれども彼との距離を縮めたくて、碧がひねり出したのが「呼び捨てで呼んでもらう」ことだったのだ。


 ダリュシュとは出来るだけ対等な位置にいたい。「月の使い」と「王の密偵」ではなく、ただの碧とダリュシュでありたい。それが、碧のささやかな望みであった。


「うーん……」


 腕を組んで考え込むダリュシュを見て、碧の心臓は緊張に早鐘を打つ。


 しばしの間があってから、ダリュシュはあの悪戯っぽい目で碧を見た。


「――まあ、いっか。どうせ俺とマハスティだけの秘密なんだから」


 たとえ偽りの名前でも、そう呼ばれるのはうれしかった。


「で、俺のこともそう呼んでくれるんだよね?」


 身を乗り出したダリュシュを前に、碧の口角が自然と持ち上がる。


「……ありがとう、ダリュシュ」


 碧はこの地に来てから初めて、なんの憂いもない笑みを見せた。

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