(3)
美しい花々を目にしても、ふさぐ心は晴れない。
「月の使い」が降臨したと聞きつけた貴族や豪商からの贅を尽くした贈り物で部屋をあふれさせても、疑心は消せない。
見知らぬ国へと迷い込んで、立派な住居を与えられて、豪奢な衣服に腕を通し、食事に困ることはない。それはこれ以上ないほど恵まれていると言えた。
それでも心は鬱屈としたままである。
「月の使い」などと大それた存在と同一視されていることも碧の気を重くした。
たしかに碧は「月の使い」に似ているのかもしれない。祖母ゆずりの銀に近いプラチナブロンドの髪に、深い藍色の瞳、白い肌。たしかに伝承と合致する。けれどもそれは碧だけの特別な容姿というわけではない。
そして当たり前だが碧には不思議な力など備わっていなかった。他人の夢に現れることなんて出来ないし、雨を降らせるのもまた、とうてい無理な話である。
それが露呈したときこそ、碧の命運が尽きるときに違いない。
追放されるだけならばマシな話で、この国の法はさっぱり知れぬが、下手をすれば王族を謀ったと処断される恐れもあった。
現状を思えば感謝してしかるべきなのかもしれない。けれど先への不安は決してぬぐえるものではなく、降りかかった不条理への暗い怒りもまた、簡単にそそげるものではなかった。
そうして外へ出ることもなく部屋に引きこもり鬱屈とした日々を送っていた碧は――ある日、病に倒れることになる。
高熱が続き手足に力はなく寝台に横たわるばかり。何度も典医が呼ばれたが、さっぱり原因がわからない。碧の側付きであるファフリが懸命に看病を続けたが、それでもちっとも良くならなかった。
苦しむ碧の心に反して華やかな見舞いの品が次々に離宮へと持ち込まれる。中には、王からの見舞いの品もあった。けれどもそれは、碧を怯えさせるだけに終わる。
――このまま死んでしまえばお父さんとお母さんのところへ行けるのかな?
そんな思いすら脳裏をよぎる中、碧のあずかり知らぬところでは大いに異変が起きていた。
始めは王宮の床が水浸しになっている、という奇怪な現象であった。当然王宮で働く女官たちに嫌疑がかかったわけであるが、それもすぐに晴れることとなる。なにせ衆人環視の中で突如中空から水が降って来たのでは、これは人間業ではないと結論付けられても仕方のない話である。
次は幽霊騒動である。髪の長い真っ白な女が脚を引きずりながら中庭や廊下を横断する姿を、多くの人間が目撃した。すると前述の事象もこの女幽霊の仕業ではないかという話になる。そしてそれは尾鰭が付き、いずれかの代に亡くなった妃の霊ということになった。
王宮へ密かに高名な神官たちを招き入れ祈祷が行われたが、こちらはまったく成果が上がらず、変わらず水は王宮内のあちこちに現れ、女幽霊が人々の肝を冷やした。
これらはいずれもひとつの原因に収束しているのだが、それに気づいたのはごく一部の人間だけであった。そしてその中に、当然ながら碧は含まれていない。
碧が病床に臥せってから早半月。その日もファフリが精がつくようにと若鶏を煮込んだスープを碧の口へと運ぶ。熱いスープを飲みこむのは大変な作業であったが、死んでもいいと思うほどの自暴自棄にもなれず、またこの人が好い侍女を心配させたくないこともあって、碧は大人しく嚥下する。
それでも肉は口にできなかったし、スープだけではほとんど水分しか摂っていない。
ただでさえ華奢な碧の体はいっそう痩せ細り、小柄な肢体はひと回り小さく見えるまで衰弱していた。
「なにかありましたら鈴を鳴らしてくださいね。ファフリがすぐに参りますから」
柔和な笑みを浮かべてファフリは食器を台車に載せて碧の居室をあとにする。残された碧は天蓋を見つめながら、またまどろみの中へと落ちて行こうとしていた。
「――?」
口の中で侍女の名を転がす。居間に繋がる扉が開いたので、彼女が戻って来たのかと思ったのだ。
けれども碧の予想は外れた。
現れたのはファフリよりも背が高く年若い男だったのだ。
碧は反射的に寝台の脇に据えられたテーブルへと手を伸ばす。そこにはファフリが置いて行った鈴があったからだ。けれども行動は男のほうが早かった。碧の手は空ぶって机の上に当たり、コンと木を叩く音が静寂に響く。
持ち手ではなく鈴の本体を握り込んだ男が、数度手を揺らした。コツンコツンとくぐもった金属音が碧の耳に届く。なんとなく、抵抗は無意味だと言われているような気がして碧はぞっとした。
けれども男はそんな碧の様子に頓着することもなく、やおらひざまずくや机に置かれた碧の手を恭しく取った。碧のものよりもずっと大きな、筋ばった男の手だ。
「お初お目にかかります、『月の使い』様。おどろかせてしまって申し訳ございません。しかしどうしても貴女にお会いしたかったのです。ご不興をお買いしたことと存じますが、どうかお許しください」
碧は混乱した。この男は敵なのか、味方なのか、判断がつかない。だがいずれにせよ、ファフリの言を取ればこの離宮は男子禁制のはずである。となれば碧の眼前でひざまずく男が招かれざる客であることは間違いなかった。
けれどそれを咎める言葉を碧は持っていない。声を出そうと口を開いたが、やはり声帯が引きつって辛かった。ひゅっと喉を空気が通り過ぎていく音だけがする。ここから明確な音を搾り出すには、それなりの労力を必要とすることは明らかであった。
ひとまず碧が男の手を振り解こうとした。だが、男の手から逃れるのは拍子抜けするほど簡単だった。さしたる抵抗もなく碧の痩せた手が、男の大きな手のひらを離れて行く。
男が牙を剥けばひとたまりもないと知りつつも、碧は寝台の上をもう片側へとずり下がり、男と距離を取ろうとした。
そんな碧を見て、男は困ったように笑う。
「怖いですか?」
碧は数瞬ためらうも、最終的に素直にうなずいた。
たしかに、男には剣呑な雰囲気はない。モルテザーのように傲慢な雰囲気も、王のような厳顔さもない。この国の人間らしい茶褐色の肌に巻き毛の黒髪と黒い瞳をした男は、ともすれば幼くも見ゆる愛嬌のある顔立ちをしていた。けれどもその体が立派に鍛え上げられていることは、簡素な服越しにもよくわかる。
碧の返答に男は相変わらず困った笑みを浮かべながら、腕を組んで首を傾ける。
「困ったなー……。どうしよっかな……」
なにを悩んでいるのかわからないが、もし油断させるための演技であれば、それは見事としか言いようがない。触れれば切れるような美しさではなく、春の日差しのような穏やかな容貌は、じゅうぶんに美男子と言って良かった。そんな柔和な雰囲気を持った人間が困った顔をすれば、それなりに良心を持ち合わせている者であれば、思わず声をかけてしまうだろう。
けれども碧は考え込む男を前に、体を強張らせていた。
しかし熱を持つ体ではそうやって上半身を起こしていることも辛い。視界が明滅し、頭蓋骨の中で脳みそだけが回転するような感覚に襲われたかと思えば、碧は寝台の上に横たわっていた。
「うわっ、だいじょうぶ?!」
目を回した碧のそばに、あわてた様子で男が近づく。もはや距離をとる気力すら湧かず、碧はただ寝台から男の顔を見上げた。人懐こそうな顔の上で眉を八の字に曲げた男の顔を見て、碧は不意にゴールデンレトリーバーを思い出す。熱に浮かされていたのだろう。それがなんだかおかしくて、気がつけば咳き込むように笑いをこぼしていた。
「ええっ、なに? どうしたの? 熱でおかしくなっちゃったの?」
おろおろと顔を情けなくゆがめる男が、またおかしさに拍車をかける。碧は男の前に手のひらを突き出して、首を横に振った。このジェスチャーでじゅうぶんに碧の言わんとしていることが伝わったらしい。男はひとまず落ち着くや、絨毯にあぐらをかいて座る。
「あーびっくりした。急に笑いだすんだもん。でも、笑ってる顔のほうがいいね。それにベールを被っていないほうがずっといいよ、うん」
年不相応な、おどろくほど無邪気な笑顔を向けられて、碧は毒気を抜かれた。つい先ほどまで抱いていた警戒心は、ものの見事にどこかへ飛んで行ってしまう。繰り返すが、もしこれが演技であれば相当な巧者に違いない。
――殺されるならそれでもいいか。
不調の体では疑うことすら億劫で、碧はいっそと開き直る。近い将来殺されるか、今殺されるか。どちらも殺されることに違いないならどちらでもいい。……そんな風に碧がやけっぱちになっていることなど露知らず、男は顔立ちに見合った朗らかな声で話を続ける。
「いやー、俺密偵として前から『月の使い』様のこと見てたんだけどね? 全然外に出てこないし笑わないしって聞いてたからさー。ちょっと意外だったって言うか」
べらべらと事細かにしゃべりだす男を見て、碧はちょっと心配になった。
――密偵、ってこと言っちゃダメなんじゃ……。
碧がなんとも言えない顔をしていることを察したのか、あわてて男が付け加える。
「いや、俺王様の密偵なんだけれどもね? こそこそしたりするのって実は苦手なんだよね。でもまあこれもお仕事だからしなきゃいけないのが辛いところで……」
碧は脳裏にあの厳めしい顔つきの王を思い浮かべる。寝台の脇に座る男とは正反対の、いかにも生真面目そうな顎鬚を生やした男だ。あの王がこのいかにもお人好しそうな人間を密偵にしたと言うのは、にわかに信じがたい。男の作り話なのか、それとも王の生真面目さは見た目だけなのか。
それにしても名も知らぬ密偵だと言う男は、たしかに人の機微を察するのに長けていた。まったくしゃべらず、表情の起伏が希薄な碧の心情も的確に掬い取って来る。これはなかなかに気持ちが良く、碧はこの男が敵でなければいいと思った。
「うーん、でも『月の使い』様はベール被ってたほうがいいかな。いや、俺は被ってないほうが好きなんだけどね」
男の言葉に碧は首をかしげた。
「だってこんなに可愛いんだもん。他の男には毒だよー」
碧はやはり首をかたむける。自身の容姿の程度について、客観的な判断を下すのは難しい。たしかに美貌と言われる祖母の少女時代の写真を見れば碧にそっくりではある。しかしコーカソイドを見慣れていない碧からすると、彼らの美醜の微妙な違いはよくわからないというのが、正直なところである。
けれども日本の、田舎ではないが都会でもない地域で暮らしていた碧の容貌は、その実態がどうであれ、明らかにその土地では浮いていた。それゆえにからかわれたり、いじめられたりしたこともあるし、どちらかと言えばクラスメイトには遠巻きにされていたように思う。
それは一概にクラスメイトたちにばかり非があるものでもないと言うことも、碧は知っていた。他人になかなか心を開くことの出来ないこの臆病な性格が、自己主張の出来ない内気な性格が、彼らを遠ざけたに違いない。
それでも碧にも友人と呼べる人間はいた。
「あっ」
声を上げたのは男のほうだ。碧の夜を思わせる深い藍色の瞳から涙がこぼれたのを見て、目を丸くさせる。
おどろいたのは碧も同じだった。友人と言えども親友と呼べるほど親しくはないと思っていた。けれども帰る道が見えない場所に身を置かれた今となっては、もっと勇気を出して己の心をさらけ出せていたらと後悔する。少なくともそうしていれば、今、こんな気持ちで涙を流すことはなかった。
「痛いの? あ、脚?」
腰を上げておろおろと碧を見る男を前に、碧は緩慢な動作で首を横に振った。
「――寂しい?」
しばしの逡巡ののち、男は的確に碧の心を見透かす。碧はそれに怯えることも、気味悪く思うこともなく、ただ粛々と受け入れて、今度はうなずいた。
「そっか。そうだね、『月の使い』様はひとりで
碧はためらいがちにうなずく。
そんな彼女を見て、男は何度かうんうんと小さくうなずくや、途端に明るい声を上げる。
「よし! それじゃあ俺が『月の使い』様の無聊を慰めてあげるよ! 離宮にこもりっぱなしじゃ気が滅入っちゃうしさ」
今度は碧が目を丸くする番だった。そんなこと、してもいいのだろうか? けれども碧の疑問を置き去りにして男はすっかり決めてしまっているようであった。
「あ! そろそろ間食の時間かな? 俺、そろそろ帰るね」
そうやって男は突如現れたのと同じように、唐突に碧へ別れを告げた。
帰り際に一度背を見せたあと、男はようやく己の名を置いて行った。
「俺、ダリュシュ。これからよろしくね、マハスティ様!」
風のように立ち去った男の背を見送り、呆気に取られながらも碧は男の名を舌の上で転がした。
――ダリュシュ。
なんとなく、その名は自らの声で呼んでみたいと、そう思った。
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