(2)

「あいわかった。『月の使い』はこちらで保護しよう」


 顎鬚を生やし、王冠を戴く屈強な男が玉座に座す場から三段ほど下。「マハスティ」という名を押しつけられた碧は、モルテザーの横で膝を折ってこうべを垂れていた。


 この碧のほとんど頭上に座す男こそ、この陽の国メフラーヤールの王である。碧がこれまで見ていたこの国の人間と同じく、茶褐色の肌に黒髪黒目の精悍な面立ちの男であった。


 その場の空気というのもあったが、この隙の見えない王の目が恐ろしくて、碧は自然とうつむく形になる。ベールを被っていて良かったと、少しだけ安堵した。


「月の使い」がなんであるか、碧は具体的には知らない。教えられなかったし、聞くこともできなかったからだ。


 今のところわかっているのは、「月の使い」は色素が薄いということ。国王に献上するような価値があること。そして頭上の王の言葉を聞くに、保護するに値する存在であるということだけだった。


 なぜ「月の使い」にそこまでの価値があるかまでは、まだわからない。ただ今はこの恐ろしい貴族から離れられるのならばそれでいいと、現状に摩耗した碧の心は思う。王宮に参上して最も緊張したのはその瞬間だ。もしも「いらない」と突き返されたのならば、きっと碧は無事では済まなかっただろう。


 王の言葉に喜色を浮かべるモルテザーの横で、碧は右脚の痛みに耐えながら心の中で安堵のため息を漏らす。


「『月の使い』の保護、御苦労であった。――して、『月の使い』よ。そなたの名を聞いておこうか」

「ああ、大変申し上げにくうございますが、陛下――『月の使い』様は一度無頼の輩の手に落ちまして、痛ましくも彼らに喉を焼かれてしまったのでございまする」

「なんと。それはまことか」


 王はおろか、周囲の近衛の兵や脇に控える宰相までの目が碧へと集まる。しかし碧はどうすれば良いのかわからず、ただ黙したままたたずむ。余計なことを言えば、モルテザーになにをされるかわからないという恐怖が、今の碧を支配していた。


「謁見の間に入ってより脚が不自由な様子であったが……それもか?」

「そうでございます。わたくしどもが見つけたときにはどうにも手の施しようがなく……」

「なんと痛ましい」


 平然と己の所業をどこへいるとも知れぬ悪人になすりつけるモルテザーの言葉を聞きながら、碧は心の中で呆れ返る。性根が腐っているとは、まさにこういうことを言うのだと絶句する思いだ。


 碧とて恐怖に震えながらもその中に理不尽への怒りはあった。けれどもそれを振りかざすほどの気力は、今の碧には残されていない。


 これまで健やかに過ごして来た碧にとって、今の身体の不調はかつてないほどのものであった。そしてそれが訪れて初めて、体の不調は心のありようにも影響するのだと知った。枯れ果てた喉に、痛む右脚。このふたつを抱えては、鬱屈とせずにはおれない。


 それでもなにもかも投げ出したくなる思いを、どうにかぎりぎりのところで封じている。それが碧の現状であった。


「『月の使い』よ、これまでの厄難、言葉では言い表せぬことに怒りもあろう。これからは離宮で心安らぎ暮らせるよう、私に配意させてはくれぬだろうか」


 おとずれた沈黙を前に、碧はあわててうなずいた。かけられた白いベールがさらりと揺れる。


「――ありがたい。では早速案内あないさせよう。ティルダード、侍女の手配を」

「は。かしこまりました。今すぐに」

「ああ、それと名を聞いておらなんだが――口が利けぬのではそなたは名を知らぬのか」


 王の問いにモルテザーが猫撫で声で答える。


 喉が焼かれたと聞き、王は碧がしゃべれないと思っているらしい。実際には、完全に声を失ったわけではなかった。しかし過度にしゃがれた声は聞き取りに苦労するであろうことは明らかで、それはほとんど口が利けぬことと同義かもしれなかった。


「恐れ多くもわたくしどもが代わりの名を差し上げましてございます。『マハスティ』と言う名なのですが、『月の使い』様も良く気に入っておられるようで――」


 碧はベール越しにちらりと視線を上げる。段上に座する王は、果たしてモルテザーよりもマシな人間なのだろうか? 彼のようにひどいことをしなければいいと碧は思う。しかし助けを求める気には微塵もなれなかった。


 声は枯れて意思の疎通は困難だ。筆談と言う手もあるが、言葉は通じるが文字は書けるかわからない。言語の点で不可解な力が働いていることを見るに、文字を書せるか試す価値はあると言える。それでも、モルテザーより若きこの王に彼の所業を打ち明けて、身の保護を願い出ようという気にはなれなかった。


 仮に意思の疎通が上手く行ったとて、この王があの村人たちのように見て見ぬふりをしないか、保証はない。今の碧がこの国において明らかなマイノリティーであることもネックだ。


「月の使い」にどれほどの価値があるかは知れないが、王へと納めるに値する存在であるのはたしかである。となればこの王が珍かなものを手元に置いておきたいと考えたとき、碧の自由は保障されるものではない。


 だから碧は、ハナから元のような人権を尊重された生活を送ることをあきらめていた。だから願うのは、王がモルテザーよりはまともな人間であればいいということなのである。



「マハスティ様、こちらが本日よりお住まいになる宮にござりまする」


 ファフリ、と名乗った恰幅の良い年かさの侍女に連れられて、碧は王宮の目と鼻の先にある離宮へと足を踏み入れた。相変わらずベールを被ったままなので、周囲の様子はよくは見えない。モルテザーからはみだりに顔を見せるなと厳命されていたので、はぎ取る気にもなれなかった。


 白亜の王宮と違い、離宮は薄い水色に染め上げられている。いつか見た沖縄の浅瀬の海を思い起こさせる、美しい色だった。


 ひとりで暮らすにはずいぶんと大きな場所ではあったが、狭いところに押し込められるよりは良いと言える。


 碧の背の二倍以上ある巨大な扉をくぐれば、ターコイズブルーのモザイクタイルで彩られた壁が目に入る。それ以外には白亜の大理石がいたるところに使われているのがわかり、相当に金をかけていることが知れた。世間知らずの碧とて思わず身をすくませるような贅を尽くした装飾の数々が、離宮へおとなう者を出迎える。


 思わず周囲を見回していれば、うしろに控えていたふたりの衛兵は離宮の入り口で立ち止まっていることに気づく。


「こちらの離宮は男子禁制でございます。もちろん、陛下は別でございますが」


 ファフリの言葉に碧は少々安堵した。この国へ来る直前はもちろん、来てからこっち、男性にはひどい目にしか遭わされていない。むろんこれを持って男性全般を語るつもりなど碧にはなかったものの、しばらく成人男性には近寄りたくはないというのが、一五の少女の本音であった。


 居室もこれまた青と白を基調として、黄色や黄土色、銀が差し色に使われている。それは見事な、芸術品と言って差し支えのない部屋であった。複雑な模様の絨毯が敷かれ、そばにある長椅子の背には繊細な象嵌ぞうがんが彫り込まれている。植物をモチーフにしたそれらは、落ち込みがちだった碧の心を少しだけ浮上させた。


「こちらからは中庭に繋がっております。出るときはファフリにお声掛けくださいませ」


 白いテラスへとつながる窓をファフリが開けば、乾いた風が室内に吹き込む。白いレースのカーテンがひるがえり、同時に碧が被っていたベールの裾が軽やかに舞い上がった。


 あっと思う間もなく風はやむ。ベールも重力に任せて下へと裾を落とす。突然のことに多少あわてた碧は、ほっと安堵のため息をついたが、窓際にいるファフリがじっとこちらを見ていることに気づいた。おどろきに満ちた黒い目に晒され、碧はにわかに居心地が悪くなる。


「――『月の使い』様は本当に美しいのでございますね」


 嘆息するようなファフリの言葉に、碧は首をかしげる。するとファフリは我に返ったのか、あわてて碧に謝罪した。


「いえ、マハスティ様の美貌をお疑いになっていたのではありません! 言い伝えの通りの白い肌と銀の髪をお持ちでしたので、おどろいたのでございます」


 碧はなんとなく同性に対する気やすさと、亡き母と同じ年頃のファフリへの親近感から、彼女とならばコミュニケーションが取れるのではないかと思った。


 碧が自身を指差してまた首をかたむければ、ファフリは「あら」と声をこぼす。


「マハスティ様は『月の使い』様の伝承を御存じないのですか?」


 一度うなずく。


「そうでございましたか……いえ、『月の使い』様が俗世のことを御存じないのも無理はありませんね」


 そこでファフリは言葉を切り、「お茶をお淹れしましょう」と碧に長椅子を勧める。


 まもなく戻って来たファフリに出された茶器には、薄い黄色のドライフラワーが浮かんでいた。口に寄せれば、豊かな香りが鼻いっぱいに広がる。温度も熱くもなく冷たくもないちょうどいい頃合いで、喉を傷つけている碧でもなんなく嚥下することが出来た。


「『月の使い』様のお話は、この国メフラーヤールの人間であればみな、幼い時分に親から寝物語に聞かされております」


 そうしてファフリは「月の使い」の話を、まったく知らない碧にもわかりやすく教えてくれた。


 起源は陽の国メフラーヤールの国父の第二夫人である。――ごく普通にファフリが「第二夫人」という言葉を使ったので碧はおどろいたが、どうにもこの国は一夫多妻制のようだ。


 彼女はまだ将軍であった頃の国父の前に突如として現れ、自らを「月の使い」と名乗った。その容貌は現代語で「月の使いのよう」と評すれば、女性に対する最大の賛辞になることからわかる通り、大変に美しかったと言う。


 たちまちのうちに彼女に惚れてしまった国父は、すぐに「月の使い」を第二夫人に迎えた。


 この「月の使い」には不思議な力があった。あるとき、国父に刺客が送り込まれたが、「月の使い」が夢を渡って危機を知らせたので、間一髪国父は助かったと言う逸話が残っている。


 またあるときは国父の赴任地へと赴き、旱魃にあえいでいた人々に慈雨をもたらしたと言う。そしてまたあるときは戦場において彼女が天へと手を振りかざすやにわかに大雨が降り注ぎ、敵陣の前方に控えた川が氾濫し、敵方は大いに損害を被ったと言う。


 このほかにも、様々な説明しがたい逸話の数々を、「月の使い」は残している。


 やがて国父が圧政を敷く当時の王を倒し玉座を手に入れたことで、「月の使い」は妃となり、この「月の使い」の伝承を不動のものとした。


 以来、三一代に渡って続くこの王朝では「月の使い」が現れるとこれを保護するしきたりとなっている。それは民も同様で、「月の使い」を保護すれば褒賞金が出るのだと言う。――ということは、モルテザーはあの奴隷商人に支払った金のいくらかは取り戻せたに違いない。それを考えると碧はちょっと嫌な気分になった。


「『月の使い』様が現れるのは実に二〇〇年ぶりだそうですよ。以前の『月の使い』様のお話はわたくしも曾祖母から伝え聞くばかりでしたが、それはもう大変お美しくあられたので妻に迎えた大将軍様は大変だったとか」


 そこで初めて碧は「月の使い」の価値と、そこに付随する人々の感情を知った。


 ファフリは年頃の少女たちにとって、「月の使いのよう」と言われるのは最上級の褒め言葉であるとか、憧れの存在であるとかいう点をよく話したが、男からすればどうだろう。


 自身の容姿がどうであるかを差し引いても、そのような覇者の妻と言う逸話の残る「月の使い」の価値を思えば、手に入れたいと言う人間が現れてもおかしくはない。幸いにも、あの奴隷商人やモルテザーは「月の使い」の逸話など馬鹿馬鹿しいと断じていたが、そうでない人間もいるとすれば?


 碧はちょっとぞっとした。


 自意識過剰と言ってしまうのは簡単だ。けれどもこの未知の世界においては、警戒しすぎるに越したことはないだろう。なにせ今の碧は非力も非力。上手く動かない脚を引きずっていては、そこらの子供にすら負けてしまうであろうことは想像に難くない。


 そして改めてこの地で生きて行く、ということについて考えた。碧は薄ぼんやりとながらもここがもといた場所とは、まったく異なる世界だという結論にたどり着きつつあった。


 今のところ、「月の使い」であると誤認されているあいだは安泰と言えるだろう。けれどもし「月の使い」ではないと知れたらどうなるか。――考えるまでもない。


 この体ではまともに働くことも難しいだろう。ならば女として残された道は結婚くらいのものだが、一五の碧にとって「結婚」という言葉はふわふわとしていて実体がない。そもそもこの国の婚姻制度すら知らないのだ。色々と無理の多い話である。


 とかくこれから確実に来るであろう暗澹たる未来を思い、碧は胃がきりりと痛むのを感じた。

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