月の乙女は陽の王と恋する運命(さだめ)

やなぎ怜

(1)

 舌が焼ける、喉が焼ける、食道が焼ける。


 あおは痛苦にむせ、体を身悶えさせる。けれども喉へ一直線に注がれる劇薬から逃れるすべはない。手首は固く後ろ手に縛り上げられている。そもそも、いびつに折れ曲がった右脚を抱えた体が出来る抵抗など、たかが知れていた。


 やがて薬壷から液体が尽きた。顎を固定していた粗暴な手が離れるや、碧は床に敷かれた絨毯に向かって吐瀉していた。


 咳き込み、嘔吐えずきながら、げえげえと胃に入り込んだ薬液を吐き出す。逆流した液体は鼻に入り、鼻腔がつんと痛んだ。吐瀉物が胃から食道をせり上がって喉を通るたびに痛苦に体の筋肉が収縮する。気がつけば涙を流していた。


 碧の周りに控えていた小間使いは、そんな彼女を一瞥することなく、絨毯に撒き散らされた嘔吐物を片付け始める。もはや胃液しか吐くものがなくなった碧は、手首の拘束を解かれたあと、屈強な男に体を引っ張られ、また奥まった部屋へと閉じ込められる。


「薔薇水を置いておきますね。けれど、しばらくは水を飲むのもやめたほうがよろしいとおっしゃっておられました」


 寝台へと力なく体を横たえる碧に、小間使いの事務的な声がかかる。その言葉を聞き流しながら、碧はどうしてこうなってしまったのかと、底なしに感ぜられる己の不幸をただ嘆くよりほか、なかった。



 碧の両親が交通事故に遭ったのは一ヶ月ほど前のことである。突然の不幸に一五の碧は茫然自失となった。突如両親を喪った悲しみはいかばかりか。涙も出ぬほどの悲しみが碧を襲った。


 そして碧はまた心の冷静な部分で、これからどうすれば良いのか、奈落の淵へと立たされたような気分になる。このとき、数ヵ月後には高校受験が控えていた。これからの人生のいくらかを決める重要な場面であることはたしかだ。


「心配しなくていいよ、碧ちゃん」


 そんな不安に駆られる碧を引き取ったのは、父方の伯父であった。ごく普通の、中年のサラリーマンに見えたが、それは大きな間違いであった。ぎこちない空気が薄れ始めた頃合を見計らって、伯父は血の繋がった姪である碧に牙を剥いた。


 碧の母方の亡き祖母はフィンランド人であった。そしてその孫にあたる碧は、生まれつき色素が非常に薄く、パッと見ではモンゴロイドには見えない容姿をしている。そして美貌の祖母に似た碧もまた、ちょっと見ないような美しい少女であった。


 細く艶やかな銀に近いプラチナブロンドの髪を肩まで伸ばし、同じ色のまつげに縁取られた涼やかな瞳は夜の藍色をしている。すっと通った鼻梁に彫りの深い顔立ちと、ぷくりとした薄紅色の唇もあわさって、碧はまるでビスクドールのような、愛らしくミステリアスな雰囲気を持っていた。


 そんな美貌の碧を前に伯父は人間であることを捨てた。ただ幸いだったのは、碧は見た目ほどか弱い少女ではなかったという点である。鼻息荒く碧を手篭めにせんとする伯父の鼻へ果敢にも噛みついた碧は、引きずり込まれた寝室から一目散に飛び出した。しかし彼女の幸運はそこまでだった。


 マンションの一室を飛び出したところで、伯父が追いかけてきていることに気づいた碧はエレベーターではなく階段へと飛び込む。


「碧!」


 けれども伯父の吼えるような声を背に受けて、碧の脚がもつれる。そこから先は、あっというまの出来事だった。


 体を浮遊感が襲い、ついで自身が落下していることを認識する。なにかを考える暇もなく――碧は荒野へと放り出された。


 どういった原因があって、この結果が引き起こされてしまったのかは定かではない。けれども日本ではない場所へ来てしまったことはたしかであった。碧がそう確信したのは、荒野を縦走する商人の一団と行き会ってからである。


「――お、おお! その容姿、まさしくそなたは『月の使い』様ではありませぬか?!」


 やけに芝居がかった、大仰な声が特徴的な男が碧の肩を馴れ馴れしく抱く。


 二頭立ての馬車を五両引き連れた一行は、荒野に唖然とたたずむ碧の前に砂塵をうしろへと撒きながら止まった。そうして出てきたのが、いかにも粗野な出で立ちの屈強な男たちと、腹の脂肪が目立つ中年の裕福そうな男の三人であった。


 今しがた良く似た年恰好の男に貞操を奪われかけた碧は、裕福そうな男の態度に腰が引けた。けれども、この地平線の彼方まで荒れ地が広がっているような錯覚を覚える場に、ひとり残されたのではたまらない。


「いえ……わたしは『月の使い』? というものではありません……」


 幸いにも言葉は通じる。しかしよくよく彼らの言語に意識を向けると、たちまちのうちになにをしゃべっているのかわからなくなり、碧は恐ろしくなった。理屈はわからないが、意思の疎通ができるのならば今はこの現象にも目をつむろう。碧はそう結論づけて、諸所の不気味な現象から目を逸らすことにした。


「いえ、いえ、その容姿はまさしく『月の使い』様に相違ありません!」

「容姿……?」

「ええ、そのまるで月を体現したかのような髪に夜のような瞳……これこそ『月の使い』さまであることの証ではありませぬか」


 碧はちらりと男たちの容姿に目を配る。いずれも、碧よりもずっと濃い色の肌をしている。髪の色も目の色もみな黒一色であった。碧の知識に照らし合わせれば、雰囲気としてはアラブ系に近いが、しかし合致するというほど似ているわけではない。


 もし彼らの属するコミュニティーの人間たちがみなそのような容姿であれば、たしかに全体的に色素の薄い碧は異端と言える。「月の使い」がなんなのかはわからないが、どうにも恭しく扱っているような様子を感じ取った碧は、彼らについていけば安心ではないかと考えた。


 しかしそれは、簡潔に言ってしまえば浅はかな考えというよりほかなかった。


 初めに覚えた違和感は、最初の夜に野営をしたときである。見知らぬ場所に対する緊張を持ちながらも、丁重に扱われて碧の警戒が少しゆるんだ。すると周囲へと気を配る余裕も出てくる。そのときに碧は見てしまったのだ。木造の車のうしろ、布で仕切られた奥に人間がひしめき合っているのを。


 碧の背中に震えが走る。直感的に見てはいけないものを見てしまったと気づいた。そしてそれは正解だった。碧が愚かにも同道してしまった一行は、奴隷商人だったのである。


 しかもそれが日の下を歩けぬ商売であると知ったのは、隙を見て逃げ出そうとしたときだった。


 急峻な崖の狭間にある村へ滞在したとき、理由を話して助けてもらおうと考えた碧であったが、それは見事に失敗に終わる。奴隷商人が従えていた武装した粗野な男たちに恐れをなした村人たちは、碧の助けを求める声を無視したのである。


 もはや柔和な仮面は必要ないと、商人の男はその醜い欲望をさらけ出した。


「まったく、『月の使い』などとおだてられておとなしくしていればいいものを……。『月の使い』を信じる連中の前に持って行くまで、動けないようにしたほうが良さそうですね」


 そうして碧の右脚は、いともたやすく折られたのである。


 脂汗が止まらない痛みの中で、碧は車に運ばれるまま朦朧と日々を過ごした。女としての危機はなくもなかったが、幸いにも商人が商品としての碧の純潔が失われることを良しとしなかったため、皮肉にも彼女の貞操は商人によって守られた。


 そして商人が繰り返し碧に言い聞かせた脅迫の言葉から、碧は今いる国ではそもそも奴隷という身分がなくなっていること、人身売買が禁じられていることを察した。小癪な今代の王が奴隷制度を廃止し、人身売買を禁じたせいで干上がりそうだと、商人は忌々しく吐き捨てる。


 けれども碧の目の前にこの男がいることからわかるとおり、奴隷の売買は未だに陰で行われている。おまけに法を踏みにじってまで、自らと同じ人間の権利を金で手に入れたいという人間がいるということもまた、碧は知ることになる。


 商人が碧を売りつけたのは身なりの良い男だった。否、見るからに金がかかっているのは身にまとっているものだけではない。商談の場に引き出された碧は、元いた場所でも見たことがないような絢爛な室内を見て一瞬呆気に取られた。


「こちら、新商品の女でして……どうです、この容姿。『月の使い』の伝承にそっくりでございましょう?」


 へりくだった商人の態度を見るに、目の前のいかにも傲慢そうな男は相当なお得意様と見ることが出来る。そして身の回りの慎むことのない豪奢さを見れば、かなりの上流に位置する人間であることが知れた。


 だがそのときの碧はそれ以上のことを観察する余裕がなかった。立っているのが、とかく辛かったからである。


 商人の命で右脚のすねの骨を折られた碧であったが、幸いにも脚が壊死することはなかった。


 それでも妙な方向に折れ曲がったまま癒着した脚は、碧の体を支えるには少々心許なくなってしまった。体重をかけると骨折した部位が痛むのである。かといって左脚でずっと立っていられるはずもない。仕方なく碧は痛みに耐えながら、また失態を見せたときの商人からの処遇を恐れ、まんじりともせず立っているしかなかった。


 裕福そうな男は立派に蓄えられた髭を撫でながら、碧を値踏みするような目で見る。


「ふむ……たしかにこの肌と白銀の髪、青の瞳とそろっておれば、『月の使い』を僭称しても問題はなさそうだな」

「そうでございましょう。モルテザー様が陛下へ献上する女をお探しとのことでしたので、お持ちしましたが……いかがでしょう? 器量も申し分なく処女でございますよ」

「――うむ。この女を献上すれば陛下も満足されるに相違ない。よし、買わせて貰おう」

「はい! ありがとうございます!」


 碧にはこの国の金の価値はわからなかったが、いかにも金満そうな男――モルテザーが眉をひそめるような値段で自身が売られたことを知った。もしかしたらモルテザーがケチだっただけかもしれぬが、いずれにせよ元手はほぼタダ。養った期間も一ヶ月ほどであることを加味しても、机の上に置かれた重そうな金貨の袋を見れば、かなり毟っていることは明らかであった。


 それでも碧はなにも言わないし、言うことはなかった。容易く脚を折られたことで碧の心は萎縮しきっていたのである。なにか行動を起こせば次はもっとひどい目に遭うと、呪いのように商人から言い聞かされたことも影響していた。


 そしてそれは、理不尽にも「ひどい目に遭う」という部分だけ実現した。


「どこの卑賤の女かは知れないが恨むのはお門違いだよ。王宮に上がって王の相手をすれば楽しく暮らせるんだから、感謝して欲しいくらいだね。――けれど今日のことも、あの金に汚い男と繋がっていることも、話されては困るのだよ」


 モルテザーは吐き捨てるようにそう言って、碧の喉を焼かせた。



 小間使いが言ったとおりに、当初は薔薇水を嚥下するのにも苦労した。それでも日差しの厳しいこの土地では、水分を摂らぬことは容易く死に繋がる。何度も吐き出しそうになりながら、痛みに耐えて碧は水を飲み下すしかなかった。


 それから食事は薄い味のスープが出され、そこから固形物を食べられるようになるまで一ヶ月半もかかった。


 そのあいだ、碧の体は女の小間使いの手で磨き上げられた。毎日のように髪を薔薇の朝露で梳かし、日の光を避けるようにベールを被らされる。体には薔薇の香油を塗り込められて、髪や眉毛を除く体中の毛を剃り上げられた。


 たまらなかったのは耳に飾りを通すための穴を開けられたときである。脚の骨を折られたときとも、喉を焼かれたときとも違う痛みに碧はまた涙をこぼした。そうやって穴がしっかり出来上がると、美しい瑠璃の耳飾りをつけられたが、それが碧の心を慰めることはなかった。


 脚の骨折は、残念ながら放置されたままだった。どうにもこの国の医療技術では治せないらしい。壊死しなかっただけでも良かったのだと、碧は歪んだ脚を見ながら自身にそう言い聞かせた。


 変わってしまったのは脚だけではない。碧の声もまた、薬液によってほとんど奪われてしまった。


 声を出そうとすれば気道が引きつったようになり、変質した喉が発声を困難にする。そうやって出てくるのは、人のものと思えぬしゃがれた声だった。


 しゃべれなくなったわけではなかったが、それでも話すのが苦痛になったことに変わりはない。


 ただ、完全に声を失ったわけではないことは隠したほうが良いだろう。絶望に塗りつぶされた頭に残された、理性的な部分で碧はそう判断する。


 そうして碧は声と右脚以外は美しく飾り立てられて、モルテザーと共に王宮へと上がることになる。


「お前は今日からマハスティと名乗れ」


 有無を言わせぬモルテザーの言葉に、碧は力なくうなずいた。

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