(8)

 ――ジャハーンギルが危ない。


 書庫から立ち去る男たちの背をしばし呆然と見送りかけた碧であったが、すぐさま彼らのあとに続く。幸いにも彼らの足はそう速くなく、碧が懸命に右脚を引きずりながらでもついていける程度であった。


「ではこれで」

「それでは」


 渡り廊下の途中で男たちは別れてしまう。どちらについて行くべきか碧は悩んだ。しかし、考え込んでいる時間はない。直感で垂れ目に鷲鼻の男に決めた。「王者の毒」とやらを女官に渡すと話していたほうである。彼のあとをついて行けば、上手くすればその計画に加担している女官を突き止めることができるかもしれない。


 しかし残念ながら鷲鼻の男は女官とは行き会わなかった。だが収穫がなかったわけではない。


「ビザン、今日は休みではなかったか」

「そうだが、どうにも体が落ち着かなくてね」


 ビザンと呼ばれた鷲鼻の男は、兵士たちの教練場へと顔を出す。ちょうど教練場にいた壮年の男がビザンを見つけて声をかけた。


 男とビザンはよく見知った仲であるらしい。ふたりが気やすく言葉を交わしていると、互いに木製の剣で打ち合っていた兵士たちの意識が、徐々に彼らへと集まって行った。


「いや、邪魔するつもりはないのだ。続けてくれたまえ」


 兵士たちの顔に緊張がにじんだのを、碧は見逃さなかった。どうやらこのジャハーンギルの暗殺を企てている男は、なかなかの身分の持ち主のようである。


 そうしてしばらく観察しているうちにビザンと、彼と会話を交わしている男が将軍位にある人間であることを知る。どれほどの扱いをされる役職であるか、残念ながら碧にはわからなかった。しかし将軍と言うからにはかなり高い身分だろう。それくらいは碧にも理解できた。


 結局、その日はそれ以上の収穫はなかった。だが、名前は突き止めたし、将軍であることもわかった。――わかった、だけであった。


 今のところ、ジャハーンギルの暗殺計画を知るのはビザンと白髪混じりの男と、ビザンに協力する女官、そして碧だけである。そしてこのなかでジャハーンギルを助けようと考えているのは、碧だけであろう。


 そこまで考えて、碧は動きを止める。


 ――なんでわたしはジャハーンギルを助けようとしているんだろう。


 たしかに、ジャハーンギルの生死は碧の死活問題に関わってくるのかもしれない。なぜなら今の碧を「月の使い」だと思って保護し、衣食住を保障してやってるのは他でもない彼なのだから。そうなれば彼が亡くなったとき、碧は身ひとつで放り出される恐れがあった。


 けれどもジャハーンギルが死ななかったとしても、碧が王宮を追放される可能性は大いにある。「月の使い」などではないとバレたとき、そうなるのは火を見るよりも明らかであった。悪くすれば処刑される恐れもある。


 関係ない、と言ってしまうのは簡単だった。碧は望んでこの国にやって来たわけではない。であるからして、ジャハーンギルを救う意味なんてないと、言ってしまうことも出来た。


 義理ならばある。彼にここ一ヶ月ほど養われて来たのだから。だが、碧がしてくれと頼んだわけではないと、意地悪く言ってしまうことも出来た。


 ――わたし、は。


 碧は問答する。ジャハーンギルを救うべきか否か。そして救うとすればどんな手立てがあるのか。


 救う意味を置いておいても、暗殺計画を白日のもとに晒すには準備がいるのは明白だ。なにせ今のところ碧の目撃証言しかない。それはたしかな物的証拠とあわせてこそ活きるものであり、単体ではほとんど意味がないものと言えた。


 次に考えたのはビザンのあとをつけて毒を見つけ出すことだった。けれども毒だけを差し出してもビザンに白を切り通される恐れがあったし、ビザンの居室だとかにそれがあったとして、害獣の駆除のためなどと言われてしまってはどうしようもない。


 碧はすぐに行き詰った。けれどビザンらが複数人で計画をしているからには、どこかに付け入る隙があるはずだ。ひとりの中に収めている情報はどうにもならないが、複数で計画に及ぶということはどうにかして意思の疎通をはかり、足並みを揃える必要がある。そうやって内に秘めていた情報を外に出したときこそ、碧の勝機が見えるときかも知れない。


 碧はすでにジャハーンギルを救う方法について熟考し始めていた。止める間もなく次々と思考があふれ出し、回転し、精査する。ジャハーンギルを救うために。


 それが答えなのだと、碧は気づかない。


 ――証拠が見つかったら……証拠が見つかったら、ジャハーンギルを助けよう。見つからなかったら……あきらめる。どうしようもない、から。


 碧はそう心に決めて、その日ビザンが王宮を出るまであとをつけ回した。


 王宮の外まで出なかったのは、万が一迷子にでもなって王宮に戻れなくなることを恐れてのことだった。それに「女官」に「毒殺」のワードを考えるに、恐らくは王宮内でジャハーンギルの口に入るものに毒を盛ることが予想できる。となれば王宮に留まっていたほうが良さそうではある。


 なにより今日一日散々歩き回った碧の右脚は限界に来ていた。これでは仮にビザンの住居までついて行こうとしても、無理だったに違いない。


 碧は大人しく離宮まで戻ることにする。鍵が閉まっているかと思いきや、予想に反して正面扉も碧の居室も、施錠はされていない。そのことについて深く考えることもなく、碧は寝台に寝転がる。右脚の曲がった部分が熱を持ち、じんじんと痛みを訴える。けれどもそれに頓着している暇はなかった。


 明日のことを考えて碧は早々に眠りにつく。


 その日見た夢は、碧の居室でアルマガーンを膝に乗せたジャハーンギルと他愛ない会話に興じる、というものだった。



 次の日から碧はビザンをつけて回った。碧の予想通り、この男は将軍として毎日のように王宮に参内し、兵士たちに訓練をつけていた。王宮にいても不自然でない立場にあることを考えれば、やはり暗殺は王宮で行う可能性が高いのではと碧は考える。


 となれば彼はいつか女官と接触するだろう。直接会わずとも手紙のやり取りをしているかもしれないと、王宮内でビザンにあてがわれた執務室をも碧は注意深く探って行った。


 残念なことに女に宛てたらしき手紙は出てこなかった。もしかしたら王宮の外でやり取りをするつもりなのかもしれない。そうなればやはり今日から王宮の外へもついて行くしかないのか。碧は気が重くなったが、そんな自身を叱咤する。


 一度決めたことを曲げたくはなかった。特に、与えられるばかりのこの場所では、筋を通してやりたかった。


 毒はまだ渡されていない公算のほうが大きい。あのときたしかにビザンは「渡す」と言っていたことを碧は思い出す。


 ――あきらめない。


 碧はいつの間にか、ジャハーンギルを助けない理由を探さなくなっていた。


 簡潔に言ってしまうと、王宮の外でもビザンを追跡する作戦は失敗に終わった。原因は馬である。ビザンは馬に乗って帰宅の途に就いたので、碧にはどうすることも出来なかったのだ。


 証拠を見つけることが出来るのか。にわかに碧の前途に暗雲が立ち込める。


 それでも碧はビザンから証拠を探し出そうとすることをあきらめなかった。毎日のように王宮内を歩き回るものだから、碧の右脚の痛みは日に日に強くなって行った。それでも碧は弱音を吐くことをしなかった。


 そして天は碧に味方した。


「ビザン様、ティルダード様からの書をお持ちしました」


 今日も今日とてビザンを探る碧は彼のいる執務室に居座っていた。そこへ年若い女官がおとなう。しかしこの部屋に女官が来るのは珍しいことではないことを、碧はこの数日のあいだに学習していた。彼女らは将軍らに頼まれて書類を運ばされることが多々あるからだ。


「うむ。そこに置いておいてくれ」


 今日も空振りかなと碧は巻物を置く女官を見ながら思う。


 ここ数日、碧はまともなものを口にしていなかった。相変わらず出来合いの料理に手を出すことも、くらにある食材に手を出すことも憚られて、中庭にある果実しか食べていない。それもそろそろなくなりそうである。


 透明人間にならなければと思うも、そうならなければジャハーンギルの暗殺計画を立ち聞くこともなかったし、こうして人知れず証拠を探すことも出来なかった。一長一短とはこのことかと碧は嘆息する。


「ああ、そうだお前にはこれを渡しておこう」


 平素であればビザンはそのまま女官に声をかけることはなく、また彼女らもそれ以上口を開くことなく退室する。しかし、今日だけは違った。


 碧は思わずビザンの手元を凝視する。彼の無骨な手の中には、小さな紙切れがあった。


 年若い女官はビザンに近づくと、机越しに紙切れを受け取る。


「そこに指示が書いてある。それとこれを使え」


 鍵のかけられた引き出しから出されたのは、白い粉の入った瓶だった。


 ――毒だ。


 碧は理解した。これが、ビザンの言う「王者の毒」とやらで――そして目の前にいるこの女官こそ、ビザンの協力者であると。そして恐らく暗殺の実行犯になるのは彼女だ。


「このことを漏らせばお前の家族の命はないぞ。――わかっておるな?」


 女官はまったくの無表情のまま、小さくうなずく。


「指示を頭に入れたらその紙は燃やせ」



 *



「うぁっ……」


 碧は指先に走る痛みにうめいた。瞬間と言えども、手の甲を火があぶる感覚に涙がにじむ。


 けれども碧はその手に握りこんだものを、痛みに落とすことはなかった。


 碧自身の姿や声が他人からは認識出来ないように、碧が手にしたものもまた他人は認識出来なくなる。そのことはビザンの執務室で一度やらかしたので碧はよく理解していた。


 だから碧は女官が紙切れを火にくべた瞬間、その中へとひと息に手を突っ込んだ。そうしてすぐさま紙切れを手のひらに握り込むや、あわてて火中から引っ張り出した。


 女官からすると一瞬のうちに紙切れが消えてしまったことになるが、よもや自身の知覚では認識できない存在がそばにいるとは思いもよらない。そうであるから、小さい紙であったし、瞬きのあいだにでも燃え尽きたのだろうと考えた。そして女官はそう大きくもない火に砂をかけて消火すると、きびすを返し渡り廊下から王宮の中へと姿を消す。


 残された碧は、皮膚が引きつり、ぴりぴりと痛む右手をゆっくりと開いた。端は多少焦げていたものの、紙切れは無事だ。それを見た瞬間、碧は思わず笑みを浮かべる。


 急いで折りたたまれた紙切れを開けば、陽の国メフラーヤールの文字で暗殺の手はずが書かれている。


 決行の日は、今日の夕餐。


 ――ジャハーンギルが危ない。


 今や若き陽の王の命運は、一五の取るに足らない少女の手にかかっていた。

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