後編
慶一郎さまが職員室に呼び出されたとわたしに知らせに来てくれたのは篠原であった。
「なんか深刻な雰囲気だったよ」
そう言われてしまってはどうにも気になってしまう。自然、わたしの足は職員室へと向いた。朝のホームルームが近いからか、職員室前の廊下にはひとがほとんどいない。鳳凰学園の生徒はまったくもって勤勉である。
そうであるから職員室から上がった声はよくわたしの耳に届いた。
「わたし、見たんです! 鷹城さまが東條さまに無体をなされているところを!」
わたしはスライドドアの前で呆気に取られた。声の方向からするとちょうど応接間の辺りからだろうか。とかく、穏当ではないことはたしかなセリフが耳に入り、わたしは体中に緊張をみなぎらせる。
しかし壁に耳をつけても職員室内の様子はよくわからない。ただときおり甲高い声が空気をよく通ってわたしの耳へと入って来る。そこから概ね把握できたのは「昨日の放課後、慶一郎さまがアンナ嬢に襲いかかった」という疑惑であった。
昨日の放課後はわたしとケーキショップに向かった慶一郎さまだが、たしかにその前は用事とやらで待ち合わせの場に遅れてやって来た。その用事というのはもしかしたらアンナ嬢とのなにかしらの面会を含んでいたのだろうか? 真相を語れる慶一郎さまは扉の向こうなので、定かではない。
けれども慶一郎さまがアンナ嬢に無体を働くなどできないことはたしかである。なにせ、慶一郎さまは筋金入りの女性恐怖症なのだ。
それに、そういった事情を抜きにしても慶一郎さまはそのような下劣な真似をする方ではない。孤高を気取ってはいるけれども、その実だれよりも繊細で傷つきやすく、他人の心の機微に敏感な方なのだ。
アンナ嬢の真意がどこにあるにせよ、わたしは彼女は慶一郎さまのそういう部分に少しでも惹かれたのだと思っていた。けれどもどうにもそれはわたしの見当違いだったようだ。
わたしはふつふつと
救いと言えばときおり混じる低い教諭の声に困惑がにじんでいることだろう。当然だ。慶一郎さまは教諭の方々からの信頼も厚い優等生なのだから、彼らにとってもアンナ嬢の訴えは寝耳に水だろう。
けれど、そろそろ我慢ができない。これ以上慶一郎さまがいわれなき行いを糾弾されることなど、許せない。
わたしは意気込んで職員室のスライドドアを開いた。けれど慶一郎さまからすると、事態は思ったよりも深刻だったらしい。
「それなら証明します。わたしが彼女に触れないということを」
慶一郎さまは呆気に取られる教諭の方々とアンナ嬢、それに取り巻きの女子生徒を前に高らかに宣言する。事態をいち早く飲み込んだわたしが止める間もなく、慶一郎様はアンナ嬢の手に触れて――ぶっ倒れた。
「慶一郎さま!」
わたしは周囲の目も構わずに慶一郎さまへと飛びつくようにしてそばに駆け寄った。目を回した慶一郎様の首元には、赤い湿疹が浮き始めている。細胞レベルで女性を拒絶しているらしい。気絶するほどダメだとまで思っていなかったわたしは大いにあわてた。教諭の方々も大いにあわてた。アンナ嬢と取り巻きの女子生徒は顔を青くして慶一郎さまを見ている。
――かくして職員室を大騒ぎに巻き込んだ挙句、慶一郎さまの女性恐怖症はみなに知られることになったのであった。
その後、慶一郎さまにかけられた疑惑は晴れた。
わたしからもしっかりと証言したこともあるが、一番身の潔白を証明するのに役立ったのは慶一郎さまの女性恐怖症である。これについては過去に心療内科にもかかっているから、調べれば事実と証明されるだろう。
それを抜きにしてもアンナ嬢の訴えは……言ってしまえば穴がありまくりの粗雑なものであったらしく、教諭陣はその訴えには懐疑的であったそうだが。
当のアンナ嬢と虚偽の証言をした取り巻きの女子生徒は停学となり、アンナ嬢はまもなく転校することになるのだが、それはまた少しあとの話だ。
そしてもうひとりの当事者である慶一郎さまはと言えば――。
「はあああ……」
深いため息をついて、憂鬱そうな顔をされている。無理もない。ずっと隠していた女性恐怖症がバレてしまったのだから、落ち込みもするだろう。慶一郎さまはこの年頃の男子には珍しくないのか、格好つけたがりなところがある。そんな慶一郎さまからすると、女性恐怖症というのは「格好悪い」部類に入る要素らしい。
湿疹が出て気を失うほどダメなのだから、仕方ないと言えば仕方ないのに。そうとは思えないのが慶一郎さまであった。
「慶一郎さま、ため息なんてついてないで、学校に行きますよ」
外ではすでにわたしの父が車を待機させている。ズル休みなどできない性格の慶一郎さまは、わたしに促されるがまま緩慢な動きで靴を履き、覇気のない顔で家人に「行って来ます」と告げる。わたしはそんな慶一郎さまについて送迎の車に乗り込んだ。
「慶一郎さま、なにもあんなことしなくったって良かったじゃありませんか」
車中で昨日の騒動について苦言を呈すれば、慶一郎さまはわかりやすく眉間にしわを寄せる。けれどもわたしだってしっかり言っておきたいことがあるのだ。
「わたしだって慶一郎さまほどではないにせよ、教諭の方々からの覚えは良いんですから、わたしが証言すれば――」
「……お前に迷惑かけたくなかったんだよ」
「はい?」
ぼそりとつぶやかれた慶一郎さまの言葉に、わたしは思わず素っ頓狂な声を上げる。
「迷惑?」
「だって……俺は昔からお前に迷惑ばかりかけてるから……そのうち見捨てられるんじゃないかと思って……」
予想外のお言葉にわたしはしばし固まる。
やがてゆるゆると動きを再開させたわたしは、慶一郎さまの誤解を解こうと言葉を重ねた。
「迷惑などと思ったことはありません」
まあ、わたしについて回る慶一郎さまを鬱陶しく思ったことはありはするが、諸々の騒動で迷惑だと思ったことはない。
むしろトラブル吸引体質とでも言うべき慶一郎さまの姿を見て、繊細な彼よりもたくましい自覚のあるわたしが守ってやらねばと思うくらいだ。感謝されても良いのではと冗談で思うことはあっても、迷惑などとは考えもしなかった。
「むしろ慶一郎さまはわたしがお守りせねばと常々思っていましたので、今回の騒動で改めてその思いを強くした……くらいでしょうか」
「……それがいやなんだよ!」
「はい?」
「だからっ……お前が俺を守るとか、そういうの……かっこ悪いだろ」
ばつの悪そうな顔をして羞恥に頬を赤らめる慶一郎さまの姿に、わたしはたまらず失笑する。すると慶一郎さまは顔を朱に染めたままこちらをキッとねめつけた。
「バッ、バカにするなよなっ」
「い、いえ、バカになどしておりませんとも……いえ、そうですか。かっこ悪いですか」
「そーだよ! お前だって女に守られる男よりも、頼りがいのある男のほうがいいんだろ? その……し、篠原とかさ……」
「篠原ですか?」
わたしはまたしても吹き出しそうになってしまい、あわてて咳をして誤魔化した。が、誤魔化せているかは怪しいところである。なにせ慶一郎さまが次から次へ予想もできない言葉を放って来るのだから、どうにも困ってしまう。
「お前……篠原によく相談してるんだろ」
「ええ、まあ」
「でも俺にはしないだろ」
「そうですねえ」
「つまり……俺は篠原より頼りにならない男ってことだろ?」
「そんなことはありませんけれども」
「そうだろ! だから、だからお前には迷惑かけずにことを収めようとして……」
「それでイメージをぶん投げたわけですか」
慶一郎さまは腹に一発こぶしを食らったような声を出して黙り込んだ。
だがやがて、ひどく恥ずかしそうな顔をして口を開く。
「そうだよ……悪いか」
「悪くはありませんが……釣り合いが取れていないのではありませんか? わたしと、慶一郎さまのイメージとでは」
「そんなことない。お前に失望されるくらいなら、俺のイメージなんてどうでもいい」
「そこまで言わずとも……」
「俺はっ……お、お前にはずっとそばにいて欲しいと、思ってる」
やはり予想のつかない慶一郎さまの言葉に、今度はわたしが口をつぐんでしまう。
「だから、やっぱり頼られたいし……お前に頼らなくてもいいようにしたい。……したかった」
気弱な語尾にわたしはまた吹き出した。どうにも慶一郎さまが相手だと笑い上戸になってしまっていけない。それもこれも、慶一郎さまが可愛すぎるせいでもあるのだが。
「……失敗してしまいましたね?」
「ああ……」
「でも迷惑だなんて思いませんよ、わたしは。頼られないことのほうが迷惑ですし……いえ、この言葉は適切ではありませんね。慶一郎さまに頼られないのは……寂しいです」
わたしの言葉に慶一郎さまは目を見開いた。わたしがそう思っていることなど、微塵も想像していなかったような顔である。他人の機微には敏感なくせに、わたしに関しては鈍感になってしまうのはなぜなのだろうか。これもある意味「恋は盲目」のうちのひとつならば良いんだけれども。
「あ、ああいうところでひとりでしっかりしないと……いつか容子に見捨てられるんじゃないかと、思った」
「そうですか」
「……でも、違うんだな」
「はい。頼ってくださらないなんて、いやです」
「そうか、いやか」
「はい」
わたしが微笑めば、慶一郎さまはまるで爛漫の花のごとく顔を明るくされた。それがまた微笑ましくて、わたしはにやにやと顔がゆるんでしまうのを抑え切れない。
ひとまず学園でのイメージについては慶一郎さまは忘れられたらしい。ついでに運転手であるわたしの父にすべてのやり取りが筒抜けであることも。――これはあとで「恥ずかしい!」と叫んで慶一郎さまが身悶えることになるのだが、今のわたしには知らぬことである。
ついでに慶一郎さまの女性恐怖症の件はわたしが「慶一郎さまが孤高なのは身分の低い許婚のわたしを慮ってのこと。女性を避けておられるのもすべては慶一郎さまなりのわたしに対する優しさ」とかなんとか喧伝したら、大多数はそれで納得してしまったらしい。親友である篠原にも暗躍しては貰ったものの、意外に信じられてしまったのはちょっと予想外ではある。
それもこれも、日ごろの慶一郎さまの行いが良いからだろう。人徳のなせるわざというやつだ。
あとはみなさん、基本的にお育ちが良いから妙なところでピュアな部分があるせいかもしれない。
まあとかく、登校した慶一郎さまが生温かい視線に晒されて首をひねるまで、わたしはひとり上機嫌な慶一郎さまの横顔を堪能するのだ。
意外とその目を気にする相手として見られていたという事実のおかげで、わたしの顔も至極上機嫌だったとは、あとから父に教えられることである。
幼馴染の許婚さまは、女が怖くてしかたない。 ※ただしわたしを除く やなぎ怜 @8nagi_0
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