中編

 女が慶一郎さまに牙をむくのにそう時間はかからなかった。


 公衆トイレの裏手、じめっとした地面が広がるその陰で、女はやおら慶一郎さまの腕をひねり上げたのである。当然ながら、慶一郎さまは突然の暴力に震え上がって泣き出してしまう。


 女は「あんたがいるから!」とか意味不明なことを言っていたが、わたしにとって重要なのは慶一郎さまがぽろぽろとその大きな瞳から涙を流されていることであった。


 わたしの行動は早かった。がら空きだった女の足元に頭から突っ込むや、ストッキング越しにそのふくらはぎを思いっきり噛んでやったのである。腕力に訴えては勝てないと考えた末の行動であったが、これはそれなりに正解であったように思う。


 女は獣のような叫び声を上げて反射的に足を振り上げた。その膝小僧が思いっきり慶一郎さまに当たってしまったことも、わたしの渾身の攻撃が外されてしまったことも誤算であった。


「どいつもこいつも邪魔しやがって!」


 先ほどまでは美しかった顔を醜くゆがめ、瞳の奥に憎悪の炎を燃えたぎらせ、女はわたしの細い首をつかむと公衆トイレを囲うコンクリートの壁に頭を打ちつけた。よってここから先の記憶はわたしにはない。ただ慶一郎さまが言うところには、わたしがぐったりとしてしまったことで、女は急に恐怖を覚えたようだったとのことである。


 じゃあ最初からやるなよと言いたいところではあるが、頭に血が上っていたのだろう。あとから聞いたところによると、慶一郎さまをちょっと痛い目に遭わせるだけだったらしく、殺人だとか大それたことをするつもりはなかったようではある。まあ、あとあとの供述であるからどこまで信憑性があるかは不明だが。


 ここから先は伝聞で、わたしたちがいなくなっていることに気づいた教諭がたが捜しに来た先で女を発見。ついでにそばで動かないわたしと泣きじゃくる慶一郎さまも発見。その後の大騒ぎはわざわざ付言するまでもないだろう。


 ちなみに例の女は鷹城の家とは縁もゆかりもないと当時のわたしは思っていたわけだが、実際に彼女は鷹城のおじさまの愛人であった。縁もゆかりもあったわけであるが、そんなことは幼いわたしが知るはずもなく。


 そのときは真相を告げられることはなく、無茶を叱られると同時に慶一郎さまを助けたことを褒められたのであった。


 慶一郎さまの誘拐未遂事件はわたしに後頭部の傷を残して終わった。下手をすれば死んでいたかもしれない目に遭ったわたしであったが、図太いことに大人の女性が苦手になるということもなく成長した。


 深刻なのは慶一郎さまである。今では孤高を気取り、女子生徒の告白をすっぱりと断ってみせられる慶一郎さまは、実のところ幼い頃から人一倍繊細であった。


 そういうわけであるから事件が慶一郎さまに残した傷は大きく、お察しの通りこれが慶一郎さまの女性恐怖症の原因のひとつとなっている。


 事件後はしばらくわたしのそばから離れられず、おどろくことに入浴も就寝も共にしていた。だがこれは慶一郎さまとしては消したい過去らしいので詳しくは話さないでおく。


「容子、どこに行くの?」

「容子、置いて行かないで」

「容子、どこにも行かないで」


 こんな調子でわたしにまとわりついて来たので、幼心に「うぜえ」と思ったわたしはキレそうになった。しかしそうなる前に慶一郎さまの諸々の症状が収まったので、わたしが怒りを爆発させることはなかったのである。


 そう、このときの経験だけではまだ慶一郎さまは完全な女性恐怖症にはならなかった。それでもしばらくは大人の女性――特に二十代ごろの女性が苦手だったようではあるが……。


 とどめを刺したのは通いのお手伝いさんである。あまり話していて気分の良い内容ではないので簡潔に言ってしまうが、彼女は慶一郎さまにわいせつ行為を働こうとしたのだ。


 それを阻止したのはまたしてもわたしであった。ちょうど本宅内でかくれんぼをしていたところを慶一郎さまは狙われ、鬼として彼を捜していたわたしが発見した次第である。


 思わぬグロ画像を目撃してしまったわたしはひるんだが、お手伝いさんへ攻撃を繰り出すのはすぐだった。例によってわたしは彼女の腕に噛みついた。


 その後は気絶しなかったので詳細について記憶しているが……彼女が警察に突き出されたとだけは言っておく。


 とにかくこのできごとが決定打となり、慶一郎さまは女性恐怖症になってしまったのだ。事件の後遺症もあり小児心療内科などにも通われていたが、結局女性恐怖症だけはどうしようもなく残ってしまったのである。


 一時はおばさまの次に慕っていたわたしの母をも怖がるくらいであったが、これは今は多少収まっている。


 そしてそのときから徹頭徹尾、慶一郎さまが平常心で接することの出来る異性は、母親であるおばさまを除くと、わたしだけなのであった。


 なんとなく理由は察することができる。双方の経験とも、わたしが真っ先に慶一郎さまを助けに入ったからだろう。それに物心ついたときからずっとそばにいて、兄妹ないし姉弟とまでは言わないまでも、それに近しい感覚で育った自覚はある。だからきっと他の女性が怖くとも、わたしだけは平気なのだろう。


 そして鷹城のおじさまたちが、わたしを慶一郎さまの許婚にしたのも、きっと彼がわたしを怖がらないからに違いない。女性恐怖症を引きずったまま婚期を逃すよりは、早め早めにめあわせてしまおうという魂胆なのだろう。


 まあその是非は置いておいても、わたしも女である。年頃になればわたしだけ女の範疇に入っていないのではないか、と引っかかりを覚えてしまうのは仕方のないことだと思う。


「女性恐怖症のイケメンが唯一平気な年頃の女」というのは、優越感をくすぐられるシチュエーションかもしれない。しかしよく考えてみて欲しい。どう考えたって、そこに恋愛感情は見えない。ともすれば母親と同じようなポジションかもしれない。つまり、自分を裏切ることのない絶対に安全で安心できる存在――。なかなか恋心には発展しにくい感情だと言える。


 それに少女漫画にしろなんにしろ、幼馴染キャラと結ばれるパターンって少ないように思う。つまり大多数から見て魅力を抱きにくいポジションってことだろう。


 そういうわけでわたしは複雑なのだ。慶一郎さまの許婚という立場も、彼が唯一近づける女子という存在であることも。


 そしてそんなわたしの心中など知る由もなく文句を言う人間も、陰口を叩く人間も、うんざりなのである。


「一度怒ってみたらいいんじゃない?」

「えー?」

「いや、女として見られていないかどうかは置いておいてさ。外野にあれこれ言われてることをね」


 そう提案したのはわたしの親友である篠原しのはら兵馬ひょうまであった。名前からわかる通り、男である。男女のあいだで友情は成立しうるかについては未だに議論され続けているが、少なくともわたしと篠原については是と言えた。


 ときは昼休み。場所は屋上に広がる庭園のベンチで、わたしは篠原と仲良く並んで座っていた。わたしにも同性の友人はいるものの、一番気易く話せるのは篠原であるため、こうしてたまに屋上庭園のベンチで愚痴を聞いてもらっている。むろん、慶一郎さまが女性恐怖症であることは彼にも秘密であるから、話すのはもっぱらアンナ嬢のことであったが。


「でもそんなことを慶一郎さまに言ってもね。それに許婚って言っても、女だと思われてないし」

「それがダメなんじゃない? 言ってみないと伝わらないことってあるよ」

「そうかなー……」


 紙パックのミルクティーを飲み干して、わたしは空を見上げた。わたしの心中などまったく察していないような、見事な青空が広がっている。


「三橋は鷹城に女だと思われたいんだよね」

「まあ……そうかな。女だと思われてないって、恋愛感情のあるなしを抜きにしても複雑だし」

「じゃあ手っ取り早く危機感を抱かせてみたらどうかな?」

「危機感?」


 悪戯っぽく笑う篠原に、わたしは首をかしげて見せた。


「そう。僕と付き合いたいとかさ」

「えーっ?! それ、言って『ああいいぞ』とか言われたら立ち直れなくない?」

「そのときは僕が骨を拾ってあげるよ」

「うれしくない……」

「じゃあ『好きな人がいるって言ったらどうする?』とか」

「うーん……考えておく」

「結果報告よろしくね」


 そう言って片手を振る篠原は、わたしの悩みで遊んでいるようにしか見えない。けれどもこうして気軽にやり取りできる関係はありがたい。篠原は「慶一郎さまと許婚でいいじゃない」とか、そういう風なことは決して言わないから、こちらとしても他人にはなかなか話しにくい相談ができるのである。



 この日は慶一郎さまと徒歩で帰ることになっていた。なんでも近場にケーキショップが出来たとかなんとかで、「寄って行ってやる」とのことである。わたしのためという恰好をつけてはいるが、要は慶一郎さまが気になるからわたしが行きたいということにしたいだけであった。


 慶一郎さまは甘いものが好きなのだが、決してそれを表に出そうとはしない。……わたしにはバレバレなのだが。


 だが待ち合わせをしておいて珍しく慶一郎さまが遅れてやって来た。いつもならわたしが来るよりも先にいて待っていることが多いのだが、珍しいこともあるものである。


「悪い、遅れた」


 そう言って息を切らせる慶一郎さまも相変わらず麗しい。少し乱れた髪すら芸術的な趣を感じずにはおれない。


「別にいいですよ」


 こういうときは深く詮索しないが吉である。そのままわたしたちは並び立って帰路の途中にあるケーキショップへと向かった。


 店内に入ると慶一郎様はにわかにうきうきと周囲に花を散らせる。これでも隠せているつもりらしい。思わず笑ってしまいそうになってわたしはちょっとあわてた。


 注文はスタンダードにいちごショートにチーズケーキとチョコレートケーキ、それからフルーツタルトの四切れ。ふたりでそれぞれ味見するつもりだが、最終的に四分の三は慶一郎さまの腹に収まる。わたしは甘いものは嫌いではないが、特別好きでもないのだ。それに二切れも食べては太ってしまう。


 慶一郎さまは肥満とは無縁の体型だよなと見ていれば、その視線に気づいた慶一郎さまが「どうした?」と上機嫌に聞いて来る。もちろん、ケーキショップの箱は慶一郎さまが持っている。


「いえ……わたしに好きな人がいると言ったら、慶一郎さまはどうされるのかなと思いまして」


 昼間の篠原との会話を思い出してそんなことを口にしてみれば、慶一郎さまの動きが止まった。


「通行の邪魔になりますよ」

「あ、ああ……そうだな。すまない」


 わたしが促せば慶一郎さまは再び足を動かし始める。けれどもどこかぎこちのない動きにわたしは吹き出しそうになった。動揺しているのが手に取るようにわかる。そんなにおどろくことなのだろうか?


「い、いいぞ。言ってみろ。あ……し、篠原か?」


 上擦った慶一郎さまの声に耐えきれず、わたしの顔は笑みを作ってしまう。


「えー? なんでそこで篠原なんですか? 冗談ですってば」

「え? あ? じょ、冗談か……そうか、そうだな。お前は俺の許婚だからなっ!」

「まあそうですね」

「そうか、冗談……当然だな。なにせこの俺が許婚なのだからな!」

「まあ……そうですね。慶一郎さまはカッコイイですから」

「そうだろう?」

「はい」


 にわかに動揺から立ち直り、再び気分が上向きになったらしい慶一郎さまを見るに、親離れは当分無理そうである。

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